Ⅲ. 闇を愛す。

 男は若旦那の命で、少女の世話人としての仕事が一層増えることとなった。

 最近の少女の流行りは入水自殺らしく、男は相変わらず翅を広げて蝶のように飛び下りる少女を追って、ほとんど毎日庭の川へと飛び込んでいる。

 今日も男は少女の入水自殺を阻止して、彼女を部屋まで送り届けたところであった。

 ずぶ濡れになって透けたドレスを、新しい純白のドレスへと着替えさせ。ドレスと同じく真っ白で殺風景な部屋の、真っ白な寝台に横たわった少女は大きくため息を吐いていた。


「……死にたい」

「ほんと、いつもそればっかだな。クソ馬鹿お嬢さんは」

「うるさい」


 寝台の脇に粗末な木椅子を引っ張ってきて居座る男に、少女は煩わしそうに応える。

 あれから少女は、「死にたい」以外の言葉でも男に応えるようになった。

 この死にたがり少女には話など通じやしない。そう思い込んでいた男であったが、案外根気強く話しかけてみれば、少女は渋々ながらも話に応じる。近頃は散々自殺を邪魔してくる男に文句まで垂れてくるくらいだ。

 男は、自分が思っている以上にこの少女との会話を心から楽しんでいる。生まれた時から政略結婚のためだけにこの真白の部屋で飾り付けられていると云う少女だが、彼女の話には非常に深い知性を感じた。屋敷の外に出ることは勿論、学問を学ぶことすら禁じられているという少女は、こっそり屋敷中の書物を読み漁り、知識を蓄えたという。そうやって読み書きも独学で学んだのだそうだ。その知識を分かりやすいたとえを用いて、男との会話にも交えてくるので、好奇心旺盛な男は少女の話から知識を得ることへと次第にのめり込んでいった。

 そうして二人の間には、とある一つの習慣ができる。

 少女は飽くことなく、何度も自身を殺しにゆく。その末に少女が死に損なった際には、男に読み書きや知識といった——さまざまな〝教え〟を授けること。

 男はこの〝教え〟を乞う時間が、何よりもすきだった。だから、少女がどれだけ入水自殺を懲りずに繰り返そうと。父の死以来、酷く苦手であった水の中にも躊躇なく飛び込めるようになった。

 父の魂を縛り付けていた暗い水面は、今でも恐ろしい。それでも、男は暗い水面を破って飛び込むことができた。だって、その先には少女がいるのだから。


「……ん。今日の教えは終わり。もう、〝誰そ彼時〟を過ぎた」


 気が付けば、楽しい時間の終わりを告げる少女の声が静かに響いた。

 男の傷だらけのでかい手から、文字を書いて見せていた少女の梢の如き白い指が離れてゆく。それが名残り惜しくて、男は少女の指が滑っていた温もりが残る掌をぎゅっと握りしめながら、少女の時間をまだ独占しようと問いを投げかける。


「タソガレドキ? って、なんだ」

「東の果ての異国の言葉。夕暮れ時を意味するの。薄暗くなった夕方は人々の顔が見分けにくくなるものだから、〝あれは誰だ〟と尋ねる。それを〝誰そ彼〟と古くではいったそうよ。それが誰そ彼時の語源」

「へえ。面白い表現だな」


 ふと、男は鉄格子付きの窓の外を見やる。すると、いつ見ても慣れぬ、屋敷の周りに積み重なった無数の子供たちの姿がはっきりと視えて、男は鳥肌のたった腕を密かに擦った。闇が深まるこの時間帯は、魂のかたちが更に濃くなる。外の薄闇から少女に視線を移した男であったが、不自然にそれはまた外へと戻された。

 青ざめた顔で自分から目を逸らした男に、少女は赤い眼を細めると短く尋ねる。


「何か視えた?」

「ん? ああ。……闇が深まるこの時間は、よく視えんだよ。魂のかたちが」

「……あなたは、闇がこわい?」


 少女の問いに、男はしばらく押し黙った。だが、何度か口を小さく開閉させた後に、どこか心許ないような様子で、外の薄暗闇を見つめたまま答える。


「俺は、闇がこわい。視たくもねえのに、視えないものを、嫌なものを引き摺り出してくるから。あと、何よりお前が——どっかにかどわかされて、吞み込まれそうで……嫌だ。こえーよ」


 近頃には見慣れたはずの、黒い水の流動の中へ躊躇いなく飛び込む少女の姿が男の脳裏に過って、何故か冷や汗が薄く滲んできた。そして汗で額に張り付いた、闇の中では淡く白光りしそうな白金の髪を掻き上げて。男は吐息混じりに小さく「嫌だ」「こわい」と、己でも情けなくなるような声で呟く。

 少女は珍しく皮肉を吐かない男に一度目を伏せてから、男と同じように外の薄暗闇に視線を向けた。


「わたしは、闇がすき。光はわたしやあなたの顔や足元を照らし出してくれるけど。闇は、わたしたちが目を逸らし続けてきたもの——もう光には二度と照らされない者たちの姿を、少しでもわたしたちに伝えようとしてくれる。きっと、わたしたちよりもずっと強く光を求める、彷徨える者たちを。無念や、悲しみに満ち満ちた弱き者たちの声を、見出してくれる——それに、柔らかなやさしさを感じるから、すき。失い続けた弱き者たちが最後に己を守るために纏えるものが、闇なのかもしれない。裸の心を包んでくれる衣のようで、すきなんだ。わたしは」


 少女は、闇に魅入られているのか。そう危惧した男は少女の横顔を盗み見るが、少女の炎の瞳は恍惚とした熱を持つわけでもなく、至って冷静で、理性的であった。


「光は善性の象徴とされるのに対し、闇に堕ちるとか、悪しきものの力だとか、言われているけど。闇も光も、力は使い方の加減による。光であろうと闇であろうと、それらに堕ちて溺れるような行き過ぎた力は破滅と成ろう。きっと、光は闇より少しだけ扱い易いだけ。光も求めすぎると……〝飛んで火に入る夏の虫〟のように、焼き尽くされる。現に、〝死〟という光に溺れる、堕落したわたしがいるでしょう?」


 男には、少女の言っていることがよくわからなかった。しかし、次に紡ぎ出した少女の言葉は、何故だかすとんと心地よく心にはまって、腑に落ちるのであった。


「わたしは、闇に成りたい。失い続けた弱き者たちが最後に纏う、誰かを守る衣に成りたい。光は近づけば近づくほど、眩しくて見ていられないだろうから。わたしは誰ものすぐそばで在ることができて、誰もがずっと見つめることができる——わたしも、見つめることができる。そんなやさしい闇に、成りたい。……ずっと、そう思っていた」


 少女の凪いだ視線が、男に刺さる。男はいつの間にか、その炎の瞳に囚われて、目が離せなくなっていた。


「でも、己すら救えないわたしが——闇と成れるはずがない。絶望した者が扱う力なんて、光だろうと闇だろうと……碌なものになるはずがない。産まれた時から今まで、己をどうこうすることすらままならない、世界の役立たず。邪魔者。それがわたし。だから、早く——一刻も早く、いかないと」


 そんなにいて、いったい、どこへゆくというのだ。

 だめだ。いくな。

 ——生きろ。


 その言葉を、男は少女に伝えることは結局一度もできなかった。

 痛いほどに、男には少女の心が理解できたからだ。

 だから男は、少女の光が己と相反する〝死〟であると知った日から、欠かさず祈るようになった。欠かさず、少女に皮肉を吐き捨てることにした。


『お前がそんなに死にたいのなら——俺は、お前の長生きをいつも祈り続けよう。嫌がらせでな』


 少女はどうやら〝祈る〟という行為が酷く嫌いらしい。無力な者が行動も起こさず、ひたすらに何かを想い続ける姿が、そのまま少女自身と重なったからであろう。

 だが、男も産まれた時からずっと、祈ることしかできなかった。

 悪魔憑きで罪に塗れた自分が「生きたい」と思うことを、赦して欲しいと。

 己が産まれた罪、父母を殺した罪、兄姉たちの役に立たなかった罪。それらの罪への罰が、どうにか己に下されるようにと。

 たとえ少女に否定されようとも、少女を否定する罪を背負うことになろうとも、男は祈ることにした。

 そうまでしても、男は少女に生きてほしかった。

 何故少女に生きてほしいと思うのかは、わからない。ただ男は、「闇はやさしい」と語ることができる少女の横顔がたまらなく、美しく思えて。たまらなく、惜しいと思ったのだった。

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