第76話 うちの彼氏、可愛い
翌朝。
「ゴホッ、ゴホッ……! す、すみません、朱日先輩。朝食、すぐに用意するので……」
「お気遣いなく。今日は一日、ゆっくりと休んでください」
「いや、でも……」
「もし悪化して、取り返しのつかないことになったらどうなさるのですか? 私が泣いてもいいと?」
「っ! だ、ダメです! それだけは、絶対……!」
「すぐお粥を作って持って行きます。食べたら薬を飲んで寝てください」
昨日寒いと言っていたが、どうやら要君は風邪をひいていたらしい。
体温は三十八度ちょうど。
朝の時点でここまで高いと、おそらく夜には九度台までいくだろう。
咳に頭痛、悪寒に吐き気。相当辛そうなのに、いつも通り家事をこなそうとする彼を寝室に押し込め、私は小さく息をついた。……彼が私に従順で誠実なのは嬉しいことだが、時として少し怖くなる。たぶんあの人、私が死ねって言ったら迷わず死ぬんだろうな。口には気をつけないと。
「……あとでスポーツドリンクとかゼリー買いに行かないとね。栄養ドリンクもあった方がいいかな」
そう独り言ちながらキッチンに向かい、冷凍していたご飯を温めてお粥を作った。
ネギと生姜入り。味付けは鶏ガラスープの素と塩。最後にサッと卵を回し入れて完成だ。
一口、味見をしてみる。
……うん、美味しい。風邪の時はこれに限るな。
「要君、できましたよ」
横になっていた彼は、私が来たのを見て身体を起こした。
私はベッドに腰を下ろし、器の中のお粥をスプーンで掬って、ふーふーっと息を吹きかける。
「どうぞ。口を開けてください」
「……あ、あの」
「どうされましたか?」
「いや、じ、自分で食べられますよ。これ以上朱日先輩に、迷惑かけたくないですし……」
「要君には、いつもお世話になっています。完治するまで、私にお世話させてください」
「で、でも……」
「でも、ではなく?」
「……はい。お、お願いします……」
無理やり言わせたことは明白だが、これでいい。
努力家なのは要君のいいところだが、同時に悪いところでもある。
うちの家事は当然のこと、日中は大学に行きながらバイトをして、たまに早朝や深夜もどこかで働いて。過労で倒れた経験から無茶苦茶はしていないようだが、それでも常人から見て頑張り過ぎなことに違いはない。
完治するまで私が全力でサポートし、限界まで休ませなければ。
これくらいしないと、何のための同棲かわからない。
「はい、あーん」
要君は素直に口を開け、お粥を頬張った。
意識がいまいちハッキリしないのか、もちゃもちゃとのんびりとした動きで咀嚼する。いつもの元気がなく……こう言っては何だが、可愛いなと思ってしまう。
「美味しいですか?」
「……は、はい」
「では、もう一口。お腹がいっぱいになったら、遠慮せず教えてください。完食する必要はないので」
「……ありがとうございます」
一口食べて、もちゃもちゃ。二口食べて、もちゃもちゃ。
ゆっくりと水を飲むも、口の端から零して。
私がティッシュで拭くと、要君は恥ずかしそうに謝る。
……何だこの可愛い生き物。
お姉様に潰されて、ぐでぐでになっていた時と似た雰囲気。
体調不良の人に対してこんなことを思うのはよくないのだが、要君は私がいなければ生きていけない、という優越感に口元が緩む。心配なのは違いないが、同時にかなり楽しい。
「……ご馳走様です」
「お粗末様でした。しっかりと食べて偉いですよ、要君」
そっと頭を撫でると、彼は視線を伏せながらはにかんだ。
普段の男らしさが見る影もない。
……ダメだ、可愛い。
うちの彼氏、可愛い。
好き。
「薬はここに置いておきます。私は買い物に行くので三十分ほど家を留守にしますが、困ったことがあったらすぐに連絡してくださいね」
「は、はい。わかりました」
要君を寝かせて布団をかけ、私は寝室を出た。
普段もあれくらい、頼りない感じでもいいのにな。
◆
朱日先輩が家を出てからどれくらい経っただろう。
一度は眠りに落ちたが、酷い吐き気に襲われベッドから飛び起きた。
早くトイレに行かないと。床で吐いたら最悪だ。
体調不良な上に寝起きな頭と身体でどうにか廊下を走り、若干息を切らしながらトイレに到着。
ドアノブを捻り勢いよく扉を開くと、そこには先客がいた。
「あっ」
霞む視界でも、そのシルエットと声で誰かは判別がつく。
一条先輩だ。
「ご、ごめんごめん! 鍵かけ忘れちゃった!」
ズボンと下着を下ろして座る一条先輩は、流石に恥ずかしいのか扉を閉めようと手を伸ばした。
……どうしてここに彼女がいるのか、という疑問はあるが。
それを問うよりも先に、俺の肉体は限界に達する。
「おええええっ!」
「き、君さぁ! それは流石に失礼なんじゃないかな!?」
「違っ、そういうのじゃ――おええええっ!」
「またやった!? いい加減にしろよ、僕だって怒るんだぞ!!」
ただでさえ朦朧とする頭に、どでかい声をぶつけられ。
俺はもう一度、盛大に吐いた。
◆
一条さんから大事な話があると言われ、今日家で会う約束をしていた。
マンションを出てすぐのところまで彼女が来ていたため、鍵を渡して先に部屋に行ってもらう。
その後、予定通り買い物を済ませて家に帰りリビングに入ると――。
「……ご、ごめんよ、糸守クン。風邪とは聞いてたけど、そんなに悪いなんて知らなかったんだ。それなのに僕、怒鳴ったりして……」
「い、いや、俺こそ汚いもの見せちゃって本当にすみません……。しかもちょっと、ズボンにかかっちゃって……」
「気にしないでよ! そ、そういう趣味は流石にないけど……この際何とか、ご褒美って思うことにするから……!」
「……意味がわからないんですけど、とりあえず洗濯してから帰ってください……」
何があったのか、二人は向かい合って土下座していた。
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