第17話 僕のおっぱい見たくせに
「あのー……せ、先輩? せんぱーい」
「すぅ……すぅ……」
「ちょっと先輩、起きてくださいっ」
「はっ!? ……え、あれ? 映画は?」
「今終わりましたよ」
あれからすぐ映画をつけたのだが、今回のはハッキリ言ってハズレの部類だった。
酒の力を以てしても、面白く感じないし笑えない。
クソ映画ならぬダメ映画。
それでも一応最後までつけていたのだが、俺と先輩の好みが似通っていることが災いし、彼女はいつの間にか俺の肩に頭を乗せて寝息を立てていた。
かくいう俺も、正直かなり眠い。
「今日はもうお開きにしましょう。俺もちょっと、眠気がきちゃったんで」
「えーっ、やだやだ! もっと一緒にいたいよー!」
「瞼、半分開いてないですよ。もういい時間なんで、帰って寝た方がいいですって」
そう指摘すると、先輩は「ふんっ」と鼻息を荒げて大きく目を剥いた。
しかし数秒もすると瞼も落ちてきて、へへぇと欠伸混じりの笑みを灯す。
「ほら、もう限界なんですよ。一人暮らしの男の家なんかで寝て、どうなっても知りませんよ」
冗談のつもりだった。特に深い意味のない発言だった。
それなのに、薄っすらと覗く先輩の金の瞳は、やけに真剣な色を帯びて俺を見つめる。
「……どうなるの?」
「え?」
「……ここで寝たら、私に何かするの?」
「い、いや、何もしませんよ! ただのジョークですから、ジョーク!」
「……なんで?」
「はい?」
「なんで、何もしないのさー……」
何だよ、その残念そうな顔。
俺にどうして欲しいんだ、この人は。
「とにかく、今日はこれくらいにしておきましょう。明日も来てくれるんですよね? だったら、楽しみは明日までとっておきましょうよ」
「んー……わかった。そうする」
納得してくれたようで、いつものようにスマホで迎えを呼んだ。
今更だけど、あの運転手さんは俺のことをどう思ってるんだろうな。
由緒正しい名家のお嬢様が、こんなボロアパートに住んでる男と毎日みたいに呑んで……俺が運転手だったら心配するかもしれない。今度機会があったら、そっと聞いてみよう。
「迎えが来るまで、もうちょっとこうしてていい?」
そう言って、再度俺の肩に頭を預けた。
上目遣いでこちらを見つめ、ニシシと八重歯を覗かせる。
「いい……ですけど……」
「ありがとー♡」
ぐりぐりと猫が甘えるように頭を擦りつけて、酒気の混ざった息を漏らした。
「これ、すごい幸せ。一家に一台欲しいくらいだよ」
「俺、頭置きとして買われるんですか? 流石に嫌ですよ、そんなの」
「じゃあ私は家にいる時、頭をどこに置けばいいわけ?」
「そんなこと俺に聞かれても。……彼氏とか作って、やってもらえばいいんじゃないですか?」
自分で言っておいて、少しだけ胸が痛くなった。
先輩に恋人ができたら、きっと今みたいに会えなくなる。もちろん先輩が幸せならそれでいいのだが、十割十分他人の幸せを願えるほど俺は悟っていない。
「彼氏はいいかなー。誰かと付き合って、糸守君と会いにくくなったら嫌だし」
その言葉に、俺はふっと視線を彼女に向けた。
アルコールで溶けた双眸は、ただジッと正面を見つめている。
「……それで言うと、糸守君は彼女とか作らないの?」
「俺もいいですよ。今の方が……先輩との時間の方が、大事なんで」
真っ暗な画面のテレビ。
鏡のように俺と先輩を映し出し、鏡像越しに視線が合う。
「――……だ、だったらさ」
モゾッと先輩の手が動いた。
群れから逸れた小鳥のように当てもなく動き、最終的に俺の太ももの上に行き着く。
「そういうことなら、もうどうせだし、私と――」
と、そこまで言って続く台詞を噛み殺した。
俺のズボンを力強く握り締めて、一層体重をこちらに寄越す。
どうしたのだろうかと顔を覗き込みかけて、先輩は「あっ、そうだ!」とこれまでの空気を一新するように明るい声を鳴らした。
「明日って、糸守君授業あったっけ? 大学にいるなら、お昼にお弁当作って持って行こうか?」
「授業はありますけど……ごめんなさい、遠慮しときます。っていうか、お弁当はもう大丈夫です」
「……えっ?」
先輩の顔が凍り付いたのを見て、言い方をミスったことに気づいた。
「ち、違いますよ! 不味かったとか、そういうのじゃないですから! 本当の本当に美味しかったんで!」
「……じゃあ、何で?」
「いや、あの……今日、もう早速噂になってたんですよ。俺が先輩の彼氏だって。これでまた俺が手作りの弁当とか食べてたら、余計に噂が広がって収拾がつかなくなります」
「別にいいよ、それくらい。私は気にしないし。糸守君は私の彼氏って思われるのが嫌なの?」
「い、嫌じゃないです! 嫌じゃないです、けど……」
今日の一条先輩との一件を思い出す。
あれは何とか丸く……いや、丸くか? まあとにかく一応収まったが、他にも過激なことをしてくる輩が現れるかもしれない。
「先輩は人気者なんです。そんな人に彼氏がいるってわかったら、暴力沙汰を起こす人が出るかもしれないじゃないですか」
「何それ。大袈裟じゃない?」
「用心するに越したことはないです。……も、もちろんそうなったら、俺は全力で先輩を守りますけど、万が一ってこともあるので。俺はこうして家で一緒にいられるだけで十分なので、大学では距離を取っておきましょう。先輩の身に何かあったら、立ち直れないと思うので……」
機関銃でも持ってこられない限り大抵の暴漢は鎮圧できると思うが、それはその場に居合わせた時の話だ。心配だからといって、先輩に四六時中張り付くことなどできない。
「んー、わかった。あんまり話しかけないようにすればいいんだね」
「お願いします。ただ、誰かに言い寄られたり、襲われたりしたら、すぐに俺を呼んでくださいね」
「何で? 嫌なんだけど」
「……えっ?」
俺の一番の長所を出すとすれば、我ながら悲しい話だが、どうしたって暴力が挙がってしまう。
それをせっかく有意義に使いたいと申し出たのに、先輩は当然といった顔で断った。
まったく意味がわからず、俺の頭上に疑問符が浮かぶ。
「だって糸守君、初めて会った時に言ってたじゃん。争い事とか好きじゃないって」
「そ、それはそうですけど、でも……」
「友達に嫌なことさせたくないし。傷つく糸守君も見たくないしさ」
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだ。
昔は大勢の人から暴力装置であることを求められたし、怪我をするのが当たり前だった。俺自身それを受け入れていたし、嫌だ嫌だと思いつつ立ち止まりはしなかった。
「別に私が強くなればいいだけの話でしょ。だからさ、今度私でも使える技とか教えて?」
……ふと、沖縄での夜を思い出す。
『どうでもいいよ、そんなの! 早く脱ぐのー!』
俺のコンプレックス――数々の人間関係を破壊してきた古傷を見て、先輩は気にも留めず〝どうでもいい〟で一蹴してしまった。
そして今もこうして、この人はここにいる。
古傷のわけも聞かず、そばにいてくれている。
こんなにも俺のことを大切にしてくれた人は、今まで一人もいなかった。
「……ええ、わかりました。俺に教えられる範囲でなら」
胸中で渦巻く先輩への感情が何なのか、正直よくわからない。
それでも一つ確かなのは、この人を絶対に守らなければならないということだ。
争い事は嫌いだが、この人が傷つく方がずっと嫌だ。
先輩が平穏無事に、いつまでも笑っていてくれるなら、他に何もいらないし何だってする。
「やったー! 私、糸守君をノックアウトできるくらい、強くなっちゃうからね!」
ふんすと鼻息を荒げて、小さな手で拳を作った。
……強いですよ、先輩は。
もう十分、俺なんかよりずっと。
◆
あれから一週間ほど経ち、段々と気温が上がり夏の気配が見え始めた。
俺はというと、日雇いのバイトをこなしながら、長期で入れそうなところを探す日々。一時期よりは財布に余裕ができたが、それでも金がないことに変わりはなく、今日も昼食は素うどんだ。
「味噌汁すすってる時は心配したけど、また素うどんに逆戻りかい? 彼女に作ってもらったらいいのに」
「彼女じゃないですよ。本当にただの友達なんで」
食堂のオバちゃんのお節介を躱しつつ、食事を持ってテーブルへ。
人の噂も七十五日。俺と先輩の仲について話す人は、もうオバちゃん以外に誰もいない。あのお弁当騒動は、〝天王寺朱日のちょっとした気まぐれ〟として処理されたらしい。
「いただきます」
手を合わせて食べ始めると、タイミングよく先輩が入って来た。
一条先輩をはじめとする友人たちも一緒で、この場の全員が一度は彼女たちを見る。
「あっ、糸守クン! 久しぶりじゃーん!」
やばい、一条先輩と目が合った。
彼女は餌を見つけた犬のように、トコトコと小走りで近づいて来る。
あの一件から、この人とどう接するのが正解かわからず、大学内で見かけても身を隠すようにしていた。しかし今はどこに隠れることもできず、「ど、どうも」と苦笑いで返事をする。
「うわ、何それ。そんな少ないので足りるの? 男の子なのに?」
「いやー……俺、金ないんで」
「じゃあ僕が奢ってあげるよ! 何がいい? どれだけ食べてもいいよ?」
「だ、大丈夫です! そういうの、本当に大丈夫なんで!」
「あー。お金で解決するの嫌、みたいなこと言ってたもんね。だったら、僕のお弁当あげる!」
「……はい?」
「僕の手作りだし、お金で解決したことにはならないよね。ほら食べて、味は保証するから!」
いやいや、そんなことできるわけがない。
先輩の手作り弁当を断っておいて、一条先輩の手作り弁当を食べる? 俺がもし先輩の立場だったら、結構気分悪いぞ。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、それは。ぶっちゃけ一条先輩のことよく知らないので、そこまでしてもらうのは悪いっていうか……」
何が入っているかわからないから怖い、という本音を精一杯オブラートに包んで説明した。
理解してもらえたのか、彼女は「そっかー」と残念そうに唇を尖らせる。
「僕のおっぱい見たくせに、よく知らないとか言っちゃうんだ。……ちょっとショックだな」
今までただの雑談として聞き流していた周囲の学生たちが、一斉に食事と会話をやめて俺を見た。
全身に突き刺さる冷たい視線。そんな中で、オバちゃんだけはお祝いムードで拍手をしている。……マジで勘弁して、マジで。
「……っ」
恐る恐る、先輩の方へ目をやった。
余所行きの無表情を装備し、ピンと背筋を立てて佇む先輩。
黄金の双眸は、ジッと俺だけを見つめている。――今にも呪い殺しそうな闇を宿して。
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