第18話

「あっくんは」熱田氏は質問を続けた。「今も、あなたを傷つけ続けているの?」

「……」森下氏は、また顔をくしゃっとしかめた。

 あたかも、今まさにあっくんに殴られたかのような表情だ。

「今もぶたれたり、しているのね」熱田氏は声をひそめて確認した。

「──いえ」森下氏はかすかに首を振り言葉を返した。「今は、もう……」

「もう、ぶたれていない」

「はい……でも、時々夢を見たり、します……」

「そう」熱田氏は手に持った数珠を、かりり、と両の掌に挟んで擦り合わせた。「今もそういう状態なのかも知れないわね。誰かが、助けに来てくれたの?」更に訊く。

 突然、森下氏は両手で顔を覆い、俯いたまま肩を震わせ始めた。

 女が泣く時のようなポーズだ。

 ということはつまり、彼に取り憑いている女が泣き出したのだろう。

 熱田氏は熱田スペシウムを当て続けながら答えを待っていた。

「兄さんが」やがて森下氏は震える声で言った。「止めてくれました」

「兄さん……お兄さん」熱田氏は復唱して言った。「お兄さんが、止めてくれた」

「──」森下氏は顔を覆ったまま肩を震わせて小さく頷いた。

 熱田氏は、震える森下氏を見下ろし、しばらくじっと見ていた。

 森下氏はただ震えて泣くばかりだった。

「お兄さんは」やがて熱田氏が言葉をつないだ。「どう、なったの?」

 私の脳裏にも、森下氏が次にどう返答するのか、予測がついた。

「……私の、代わりに……あっくんに……」森下氏の声はもはや声とならず、ため息を洩らすように苦しげな囁きとなった。

 熱田氏はまたしばらく森下氏を見下ろしていた。

「あっくんは」やがて、ゆっくりと彼女は言った。「あなたのお兄さんを、手にかけてしまったのね」

「違うんです」森下氏は震えながら、なおも顔を両手に埋めたまま、金切り声に近いほど上ずった声で言った。「私の代わりに、兄さんは」

 熱田氏の、熱田スペシウムの腕が一瞬ぐらりと傾いたように、私には見えた。

「あっくんの中に、入ったんです」

 沈黙が、部屋を占領した。

 誰も、何も言わなかった。

 熱田氏は、傾いた腕を――そこからまだ出つづけているのであれば、熱田スペシウムを――森下氏に当て続け、私は機嫌のいい赤ん坊の口ぐらいの大きさに口を開け、森下氏は両手で顔を覆いつくし、皆が黙っていた。

「あっくんの中に、入った」

 発するべき言葉はそれに間違いないし、私の脳裏にはそう復唱する熱田氏の声が既に聞えていた。

 だが実際のところ、それは発せられておらず、熱田氏は口を閉ざしたまま森下氏を見つめていた。

 それを見て私も、ぽっかりと開けていた口を閉ざした次第だった。

「どうやって?」

 やっと、発せられた熱田氏の言葉は、そういう質問の言葉だった。

「……私の、力で」森下氏は静かに答えた。

「あなたの、力で」熱田氏が復唱する。

「力」無意識のうちに、私自身も呟いていた。

「私の特殊な力を使って……兄はあっくんの中に入り、彼を止めました」

 森下氏の声は低くなり、冷静さを取り戻したようだった。

 私は衝動的に、自分の周囲を見回した。

 右を。

 左を。

 後ろを。

 もう一度左から、後ろを。

 念のために、真上を。

 その姿は、どこにも見えなかった。

 だが私には、その存在が、目の前の熱田氏や森下氏よりはるかに鮮明に、感じ取られていた。


 足だ。


 足が、今も私を見ている。

 足が、今もここに、いる。

 存在している。

「お兄さんは、あっくんの身体の中に入って、あっくんのあなたに対する暴力を止めた。そういうこと?」熱田氏はきょろきょろと辺りを見回す私には目もくれず、確認の質問をした。

「はい」森下氏は今度は深く頷いた。

「あなたの代わりに、と言ったわね?」また熱田氏は、確認の質問をした。

「はい」森下氏は再度、頷いた。

「本来ならあなたが、あっくんの身体の中に入るはずだったの?」

「私は……」森下氏は言い淀んだ。「私は、あっくんから逃げるべきだったんです……でもできなかった、私が、弱いせいで……だから兄さんが、最後の手段だ、と言って……」

 会話はそこでまた途切れた。

「ところで」やがて熱田氏は、話を続けた。「あなた自身は、生きているの?」

 森下氏が久しぶりに顔を正面に向け、熱田氏を見た。

 薄ぼんやりとした、眠そうな顔だった。

「……はい」小さく、頷く。

「お名前は? ああごめんなさい、私は熱田といいます」熱田氏はニッコリと笑って自己紹介をした。

 私は、自分も名乗るべきなのかと考え、森下氏と熱田氏を交互に見た。

 森下氏は、やはり私には目もくれず、熱田氏に向かってかすかに会釈をした。「私は……里野あきみといいます」

「さとの、あきみさんね」熱田氏は頷いた。「あっくん、あなたのもとかれは、本名はなんというの?」

「……堺田篤司、です」森下氏は静かに答えた。

「堺田篤司」熱田氏はそう復唱しながら、今度は私に顔を向けた。「この名前に、心当たりはありますか」

 いかにも何かを探ろうとするかのように、彼女は目を細めて私を見つめ、訊いた。

「いえ」私の声はかすれ、横に振ろうとした首も、一センチ程度しか動かなかった。「ありません」

 熱田氏は、しばらく無言で私を見つめ続けた。

 じいい、という擬態語がまさにぴったりな、いわば“目で掘る”ような、見つめ方だった。

 彼女が何を思っているのか、私には無論、皆目見当もつかなかった。

「堺田、篤司」熱田氏は、私を凝視しながらその名をことさらゆっくりと繰り返した。「わからない? 本当に?」

 私は自分の脳内をサーチし、今度ははっきりと、首を左右に数回振った。

「これは、あなたの名前よ」熱田氏は、言った。

 その時私は、何故か自分の携帯を尻ポケットから取り出していた。

 アドレス帳の、さ行のところを開く。

 ああ。

 そうか。


「てめえ」


 突然、男の野太い声がとどろいた。


「妹に何しやがったこら。おい。ええ。なんとか言え。あつし。おら。あつし」


 私はぎゅっと目を瞑った。

 その声は、私の脳裏――否、内臓の裏側の辺りに、ずっと、ずうっと、影を潜めていたのだということが、誰に指摘されずとも判った。

 確かに、そう言っていたのだ。

 足は、そう言いながらずっと、私を蹴っていたのだ。

 里野あきみ

 そしてその名前もまた、確かにそこにあった。

 携帯の、アドレス帳の、「さ行」のところ。

 そうだ。

 それは。

 元カノの名前じゃないか。

 私は、安心をおぼえ、久しぶりに笑顔を浮かべた。

「最初に熱田スペシウムを照射した時の様子から、なんとなく思っていたんだけど」熱田氏は静かに話しだした。「霊は“あなたに取り憑いている”のではなく“あなた自身の中に存在する”もしくは“あなた自身がその霊である”のではないかと」

「――」

 私は、うすく微笑んだ顔のまま熱田氏を見た。

 けれど彼女が何を言っているのかよくわからず、その為何も答えることができずにいた。

「やはりそうだったのね。その足の霊は、あなた自身の中にあるもの――ただしあなた自身ではなく、どのようにしてかわからないけれど、あなたの中に入り込んだ、あきみさんのお兄さんの、霊」

「――」

 あきみの、お兄さん。

 ああ。私は小さくうなずいた。

 あの、いつも怒鳴っていた、柄の悪い兄貴か。

 そうだ、あの兄貴なら、DVなんてお手のものだろう。

 奴が、足だったのだ。

 奴が足で、俺をごつごつ蹴っていやがったのだ。

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