第16話

「どうしたの?」

 熱田氏の声が聞える。

「……いました」

 森下氏が、消え入りそうな声で、かろうじてという感じで答える。

「いた? 何が?」

 熱田氏が、被せるように再度訊く。

 やはりこの女は、エセ浄霊屋だ。

 私は目を強く閉じたまま思った。

 何が? って。

 霊が、に決まってるじゃないか。

 だって森下氏って、霊媒なんだろ?

 そういう風に紹介したの、あんた自身じゃねえか。

「女の人……が」

「女の人」熱田氏は復唱し、それから矢庭に私の腕を握り締め、ぐいっと強く引いた。「ここに?」

 ここって。

 俺はもはや、場所扱いかよおばさん。

 物扱いですらなく。

 腕を振りほどく力も、残っていなかった。

「DV」森下氏は言葉を継いだ。「受けてた、もしくは受けている、みたいです……ね」

 抑揚のない、声。

 まるで、その言葉を発することが、罪を犯すことであるかのような、できれば言及を避けたいと願っている、そんな風情の、声。

 私は、そっと瞼を持ち上げてみた。

 私の腕を掴んだまま、私には目もくれず森下氏を振り向いている、熱田氏の後頭部。

 女性向けかつらのメーカー名が、ふと脳裏をよぎる。

 その向こうで、怯えた眼差しをこちらに向けている、眼鏡の霊媒男。

 今私が熱田氏の後頭部について抱いた感想も、もしかしたらこの男には“見えた”のだろうか。

 だが特に、彼の表情に変化は見られなかった。

 くすっと笑うことも、失笑も苦笑も、なかった。

 駅の中を通り過ぎてゆく人々は、相変わらず私たちに目もくれない。

 実は私たち三人自体、他の人間たちには“見えない存在”なのかも知れない。

「DV? ドメスティック・バイオレンス?」

 熱田氏が、総称を口にする。

「……はぇ」臆病な眼鏡男は小声で答える。「顔中、痣だらけの」森下氏は、かすれた風邪のような声で説明した。「女の人の顔が」

「それは、生き霊?」熱田氏は続けて問うた。「私には、何も見えなかったんだけど」

「わかりません、俺もほんの一瞬だけ見えたんで」 森下氏はうつむきながら答えた。「でもそれが見えた瞬間、この人の大脳辺縁系が、抑制を解かれたというか」ちら、と私を上目遣いで見る。

 熱田氏が、私に振り向く。

 超ピンクの唇が、デフォルメされたマンボウのようにすぼめられていた。

「そういえば、先日おうかがいした時に、女の人の声が聞えたって言ってたわよね」

 私は小さくうなずいた。

 涙が出そうになる。

 ごめんなさい。

 あなたの後頭部を見て、かつらメーカーの名前なんか連想したりして、ごめんなさい。

 理由はわからないが、この女性には抗えない、逆らえない、という想いが、頑強な枷となり私を支配していた。

 そう、私は支配され、抑圧されていた。

 この、熱田氏に――もっといえば、熱田氏の放つ“熱田スペシウム”に。

 一体、熱田スペシウムというのは何なのだろう。

「今も、もしかして?」

「はい」私は、すっかり体力を消耗していたにも関わらず、大人の男らしく、明瞭な発音で返答した。「女の人の声、あの時と同じ声が、聞えました」

「その声に、心当たりはないの?」

「ありません」首を振る。

「足に、蹴られてた人……ですかね」森下氏が、推測を口にした。「その部屋に、昔住んでたとか」

 私は、半分だけ残った魂でもって森下氏を見、そしてさらに半分だけ残った意識のもとで、理解した。

 あいつ……女性を、蹴ったりしていたのか。

 怪しからん奴だな。

「それで、蹴ってた方も蹴られてた方も両方、今この人に取り憑いてるってこと?」熱田氏が訊く。

「……すかね」森下氏の声は小さくなる。

 私は、眉をひそめた。

「つまり」熱田氏はまた森下氏に振り向き、話をまとめ出した。「今君が見た女の人は、前にこの人のお宅にうかがった時聞こえたという声の主。でも霊的な存在としては感知できなかった、そして痣だらけの顔。この人は足に顔や体をめった蹴りされた、けど痣にはならなかった」

「代替受害、すかね」

「あるいは」熱田氏はもう一度私の顔を見ながら超ピンク色の唇で言った。「その女の人がこの人を蹴ったのかしら」

「──」

 ごつごつして太い筋の盛り上がった足の姿が浮かぶ。

「あっくん、やめて」

 今にもこと切れそうな、か細い声。

 非整合性、という単語が光のようによぎる。

 いや、もしかすると女性であってもそんな足であんな猛撃を喰らわす人もいるのかも知れないが、あのか細い声とあの蹴りとが同一人物のものであるとはとても考え難い。

「そんな馬鹿な、って言いたそうね」熱田氏は私を見たままニヤリと笑った。

 私は返事をする力も頷く力もなくただ茫然と立ちすくんでいた。

「じゃあ、ともかくその部屋に、行ってみましょう」

 私たちは、ようやくホームへと向かいはじめた。

 ついに足と、対話できるのだろうか。

 森下氏を介して。


          ◇◆◇


 部屋のドアを開ける。

 今日は、何も聞えてこなかった。

「いる?」

「いや」

 熱田氏が短く問い、森下氏が短く答える。

「え」しかし森下氏のリアクションには、まだ続きがあった。「ここ、って……」

 熱田氏がうなずく。「きれいでしょ」

 私には、専門家(エセでないと仮定して)たちの話の内容は正確にはわからなかったが、推察するに、足の霊だの女の霊だの、他の地縛霊だのが何もいないという、先日熱田氏が言っていたのと同じことなのだろう。

 きれいでしょ、というのが必ずしも、私の掃除がゆきとどいている、という意味でないことだけは確かだった。

 私たちはリビングに入った。

「あのね」出し抜けに熱田氏が私の箪笥に近づいてゆき、その上に置いてあったものを手に取った。「これを、貸して欲しいんだけど。いいかしら」

 振り向いた彼女が手にしていたのは、私が前に買ってきたコウロだった。

 足を成仏させんと試みるため、会社帰りに仏壇屋で買ってきた、線香を立てる器具だ。

「あ、どうぞ」私は特段感銘を受けるでもなく、軽くうなずいた。

「ありがとう」熱田氏はニッコリと笑う。「前におうかがいした時から、いい香炉だなーと思って、目をつけてたのよ」

 そうなのか。

 私には理解の及ばない“世界”の話ということになるのだろうが、専門家に――エセでないとして――所有物を褒められるというのは、やはり嬉しいような、くすぐったいような気持ちにさせた。

 熱田氏はハンドバッグから、お茶の葉のような、かりかりと乾燥した草の入った袋を取り出し、その草を、何回かに分けて香炉の中につまみ入れた。

 香炉の中に入っていた灰は、足の成仏に失敗した後、処分してあった。

 その後は文字通り、宝の持ち腐れという状態だったのだ。

 熱田氏は、香炉をリビングのほぼど真ん中の床の上に、両手で大切そうに置いた。

 我々三人は、それを取り囲む形で床の上に正座した。

 正座は好きではないが、とても胡坐を掻く雰囲気ではなかった。

 熱田氏は続いて、ハンドバッグから蝋燭と、それに点火するための器具を取り出した。

 チャッカマンだった。

 私は不躾にも、口を少し開けてその器具を凝視してしまった。

 熱田氏は特に表情を変えることなく、コチ、コチ、と二回トリガーを押して点火し、蝋燭にその炎を移した。

 蝋燭は香炉の中に立てられ、チャッカマンは熱田氏のハンドバッグの中に収められた。

 そんなんで、いいのか。

 私の脳裏にそういった問いがよぎったが、そんなんで、いいのだろうと思うことにした。

 なにしろ専門家のやることだから――エセでないとして――

「それでは、始めましょう」熱田氏が、別人のように静かな声で宣言した。

 チャッカマンと交代で取り出されたらしい長い数珠が、そのふくよかな手に握られていた。

 彼女はその数珠を右手にぐるぐると二重巻きして合掌し、両手をすり合わせた。

 カリカリカリ、と、数珠球が心地よい音を立てる。

 森下氏が、ささやくように経を唱え始めた。

 彼の手に数珠はなかったが、その両手の指は、彼のやる気のない喋り方とうって変わって、ぴしりとまっすぐに伸ばされ、ぴったりと合わせられていた。

 見る者の背筋を、思わずしゃんと伸ばさせるような、見事な合掌、というか綺麗な合掌だった。

 無論私も、うなだれて合掌した。

 だが目は閉じず、薄目を開けて香炉から立ち上る蝋燭の炎のゆらめきを見つめていた。

 足は、出てくるのか?

 森下氏の口を借りて、ついに奴が話し出すのか?

 心臓が、文字通りばくばくと鳴っていた。


「あっくん、やめて」


 私は顔を上げ、森下氏を見た。

 彼は眉をしかめ、口を引き歪め、苦しそうに、悲しそうに、か細い声で

「痛いよ……あっくん」

 そう言った。

 ついに“それ”は、現実世界で語りだしたのだ。

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