第13話
熱田氏は、私の部屋の壁をゆっくりと見回し、天井を見上げ、床を見下ろした。
私はそれを眺めながら、昔バイトしていたコンビニの店長を思い出していた。
清潔好きな女性で、店内の清掃や整理整頓、棚上の商品の並びやフェイスアップに厳しいのはもちろん、学生バイトに対しては私生活においても“きちんと”するようにと、ことあるごとに説教していた。
いわく、
「部屋というのは、いつ誰が来てもいい状態にしておかないといけない」
と。
特に尊敬していたわけでもなかったが、特に嫌いでもなかった相手でもあり、私はなんとなく、その言いつけに対しもっともだと納得して、なんとなく今日まで守っていた。
そうしていてよかったな、と、今思っているわけだ。
今日のように突然、浄霊屋が部屋にやって来ることも、人生においてはあるのだ。
「いないわね」
熱田氏は、また顎に手を当て小首を傾げた。
「いない?」
私は訊いた。
「ええ」
熱田氏はもう一度、部屋の中をゆっくりと見回した。
霊が。
と、いうことか。
「特に、通り道、というわけでもなさそう」
言いながら、壁に向かって掌をかざす。
また“熱田スペシウム”を出しているのか。
私は我知らず、眉をひそめた。
顔をそむける。
気にしないことだ。
熱田氏が、手や腕から何を発射しようと、私には害はないのだ。
むしろ、彼女は私を救うために、それを発射しているのだから、感謝しなければならない。
だが、そうとわかってはいても、私は顔を正面に戻すことができずにいた。
一体、どういう物質がそこから出てきているのだろうか。
よっぽど、“気”というのか、スピリチュアルな、人知の及ばない何か霊的な力が、強く発せられているのだろう。
私は、それによってきっと、足から救い出されるのだ。きっとそうだ。
そういう思いに、精神を集中させた。
きっと、平和と安寧は訪れる。
熱田氏を信じるんだ。
沈黙がしばらく流れた。
私は、そっと顔を熱田氏の方に向け直した。
熱田氏は、じっと天井を見ていた。手はまだ壁に向けている。
私も倣って、天井を見た。
何もない、ただの天井だ。
足は、どこにもいなかった。
「何も、感じないわ」
やがて熱田氏は、ため息まじりに白状した。
「霊的な存在は、ここにはいない」
「そうなんですか」
私は小声で答えた。
もしかしたら、熱田氏が来ているからじゃないのか。
そう思った。
彼女が帰ったら、待ってましたとばかりに足が飛び出てきそうな予感が、した。
「変よね」
熱田氏は、首を小さく横に振った。
「なんにもいないなんて」
「そうなんですか」
私は小声で訊いた。
「だって、どこに行っても大概、何かしらの霊というのは通常、存在しているものなのよ。それが、まったくなんにも、何の存在も、感じないなんて」
「へえ」
「ここはまるで」
熱田氏は言葉を切り、もういちど私の部屋の中を見回した。
「何かの結界を張られたように、清浄だわ」
「えーっ」
私は目を丸くした。
「清浄、ですか?」
熱田氏に倣って、部屋の中を見回す。
いつも生活している自室だが、天井を改めて観察することなど滅多にはない。
「その足の霊が」
熱田氏は私を見て言った。
「他の霊を寄せ付けずにいるのかも、知れないわね」
「――」
私は返答できずにいた。
「何者なのかしら」
熱田氏は、私を見たままで言った。
「その足って」
「――」
私はやはり答えられずにいた。
足とは、何者か。
知らない。
それが、答えのすべてだった。
「哺乳霊、と私言ったけれど」
熱田氏はまた壁に“遠い目”を向けながら、呟くように言った。
「もしかしたら、そんな平凡なものじゃないのかも」
「――」
哺乳霊、それそのものが私にとっては“非凡”に思えたのだが、私は黙っていた。
「他の霊を寄せ付けない、そんな強大なパワーの持ち主といえば」
「――何、ですか」
「それより上の存在」
「――上」
「つまり、神」
「か」
「或いは、仏」
「――」
私の唇は“ほ”の形を作ったが、声にならなかった。
は? 神? 仏?
いや待ってくださいよ。
冗談でしょう?
あいつは、私を夜ごと毎晩、ごっつごっつ蹴っとばしていたんですよ?
神とか仏とかが、そんなことしますか普通?
それどころか最近じゃ、ほんと浄霊に逆ギレしてる状況で。毎晩ほんと。
あんなの、神でも仏でもないすよ。
むしろ悪魔ですよ。悪霊。
ごたく並べてないで、とっとと追っ払ってもらえますか。
私の中のクレーマーが、口角泡を飛ばして怒鳴り散らしていた。
そして同時に、
はい、はい、ただ今直ぐに対処致しますので、今しばらくお待ちください、は、まことにお待たせしまして、申し訳ありません。
と私自身の声がそれに対し平身低頭で平謝りしていた。
職業病だろう。
こっちは金払ってるんだ。
脳内クレーマーは尚も言い募ったが、私はそれに対し自分できっぱりと否定した。
いえ、お客様にはまだご清算いただいておりません。
「まあ、とにかくお札をどこに貼るか、決めてしまわないとね」
熱田氏のため息交じりの声に、私は頬をはたかれた思いで現実に戻った。
「貸して」
私に向かって手を差し出す。
私は約二秒ほど、ぼけーとそのふくよかな手を見つめ、
「お札」
と、熱田氏の超ピンク色の唇が目的語を告げるのを聞き慌てて鞄からそれを出した。
熱田氏はお札を手のひらに載せ、鼻先で左手の中指と人差し指を並べて立て、ぶつぶつと何かお経のようなものを唱えながら、部屋の中央でゆっくりと回転した。
そして
「ここね」
と、押入れの襖の左隣、床から約1.5メートルほどの高さにお札を宛がった。
お札の裏面というのか、筆書き文字の書かれていない方の面から、指先でぴーっとテープ状のものを引き剥がす。
そうして目星をつけた位置に、
ぱん
とお札を一挙動で貼りつけ、上下の端を指先で心持ち整え、
ぱん
と合掌し、経を小さく唱えた。
私も我知らず合掌し頭を垂れていた。
こんな、あっさりしたやり方でいいのか。両面テープで。
そんな想いが胸中にないではなかったが、なにしろ依頼してしまったのだから、後は専門業者の仕事に口出し無用だと思い、何も言わずにいた。
「そうね。これで、様子を見てちょうだい」
熱田氏は振り向き、久しぶりに見せる微笑で私に言った。
「はい」
私は神妙に頷いた。
「それから次回、霊と――まだ霊なのかどうかわからないけれど、直接対話を試みることにするわ」
「直接」私は顔を上げた。「足と、ですか」
「ええ」
熱田氏は頷いた。顎の下の脂肪が三日月型に寄り集まった。
「その道の専門家がいるの。あなたと最初に電話で話した男の子よ。今度紹介するわね」
ニッコリ笑う。
最初に電話で、と言われてもすぐには思いだせなかった。
ずっと後になってから、言葉の歯切れの悪い、やる気のなさそうな電話対応を思いだした次第だ。
「彼は霊媒体質でね」
熱田氏は説明した。
「その“足”を、彼に取り憑かせて、代弁させるの」
「へえー」
私は心底感嘆の声を挙げた。
足と、対話。
私がかつて失敗した芸当だ。
なるほど、霊媒体質という専門能力が、それには必要だったのだ。
それならば、私が失敗しても致し方ない。
妙に納得がいき、心のどこかで満足を覚えていた。
それじゃ無理もないよな。
俺は、普通の人間なんだから。
何も足と対話できなくても、俺が悪いわけじゃない。
ただ、霊媒体質というものに恵まれなかっただけなんだから。
「ただ、もしかしたら」
熱田氏は再び眉を曇らせた。
「生き霊、なのかも知れないわね、“足”って」
「生き霊?」
私もまた目を丸くした。
「足が?」
「ええ――生き霊だと、霊媒にも代弁が難しいのよ」
「へえー」
「まあそうだとすると今度は、あなたに関わりのある人間だってことに限定できるから、却って対処が簡単になっていいけれどね」
またニッコリとする。
そういうものか。
私は茫然と、数度頷いた。
生き霊。
私と関わりのある、誰か。
言い換えれば、毎夜蹴り飛ばしたくなるほど、私に何かしら悪意を抱いている、相手。
巡らせたくないものではあったが、いきおい私の中でそれに当てはまりそうな人間たちの相貌が、巡り始めていた。
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