冬(前)
ネレア、一度目の冬①
あの日から、夫は全く家に帰らなくなった。
(やっぱり、初めから無理のある話だった。契約結婚なんて)
毎日、一人で夕食を食べながら、ぼんやりと私は考える。
この家の使用人は、新参者で愛想もなくて、迷惑ばかりかける私にも、いつも優しい。本来の主人である夫が帰らない妻であっても、変わらず大事にしてくれる。でも、いつまでもそれに甘えていては、いけないとも思う。今日出て行こうか、草木の手入れをしながら、毎日私は考える。でも、あのハーブが根付いたのを見届けてから。あの花の種を、収穫してから。毎日、ついつい夕食の時間まで、私は庭に居続ける。夫からは、言付けひとつ、ないままだった。ずるずるとひと月が経ち、季節は冬になりかけていた。
「ネレア・ハーンベルクに書状これあり」
ある日、突然門の前で大声の訪いがあった。爺やが慌てて駆けだしていく。
戻ってきた爺やの手には、王家の紋章の印のある書状があった。いつも飄飄としている爺やは、これまで私が見たことのないような、真っ青な顔をしていた。
「誰からの、お手紙ですか」
声をかけると、爺やはぎくりと立ち止まる。
「先ぶれもなく訪いを行うとは、無礼千万の輩です。奥様、このような書状、ご覧になる必要は、ありません」
脂汗を浮かべて爺やは言うが、口を閉じる前には、すでに後悔した顔をしていた。
「……申し訳、ありません。奥様を相手に、痴れ事を。……書状の送り主は、現王国王太子、ゲオルク殿下です」
予想外の名前に、内容の想像もつかず、私は絶句する。
急いで身体を清めて書状の封を切ろうとする私の前に、意を決した表情の爺やが立った。
「奥様。そのお手紙の内容を、爺めは存じ上げません。ただ、お読みになる前に、ひとつだけ、お聞きいただきたいことがございます。爺の差し出口を、どうかお許しくださいませ」
執事頭の威厳を含んだ深い声に、私は居住まいを正して爺やを見つめる。
「何でしょう」
「あなたの夫である方は、10の齢の頃からいつでも、自分の行いは自分で決め、その結果も、自分ひとりで受け止めてこられました」
爺やの分厚い眼鏡の奥で、灰色の瞳が光っている。
「あの方が、ご自身や奥様に関する決断を、人の言葉を使ってお伝えになることは、万に一つも、あり得ません」
爺やの真剣なまなざしに、私の胸は暖かくなる。
「分かりました。……大丈夫よ」
自分でもわかるくらいに堂々と微笑んで、私は王太子殿下からの書状を開いた。
*
カイト、一度目の冬①
暗闇の空気はひどく粘っこかった。息を吸えども吸えども、全く肺に空気が入らない。俺は必死に、呼吸を繰り返す。
『カイト』
はるか遠くから、微かに声がする。暗闇に真っ直ぐに俺に向かって走る瑠璃色の光が見えた。
『カイト、息を吸うんじゃない。吐くんだ』
遠くの声は、徐々にはっきりと聞こえてくる。肩から、暖かい何かが喉元に入って来るのを感じる。
『そう、ゆっくり……そこだ。思い切り、吐き出せ』
ずるりと、喉元から何かがはい出す気配がした。猛烈な吐き気と、切れ目なく湧き出してくる咳。俺はのけぞり、喉を押さえてのたうち回る。暖かい手が、俺の身体のあちこちに触れている。痛みや吐き気が、徐々に溶けるように消えていく。やがて、俺は、いつもの呼吸を思い出す。
それからまた、重たい暗闇がやって来る。何度も意識の深い淵と浅瀬を行きかいながら、たくさんの手が俺に触れ続けているのを感じていた。
目を開くと、見慣れた天井があった。
ああ、まただ。俺は唇をかむ。
「気がつかれましたか」
顔なじみの魔術師が、俺の顔を覗き込んだ。
「……ああ。いつも、かたじけない」
俺は情けなさにため息をつきながら、ゆっくりと起き上がる。生まれつきの憑依体質の俺は、たびたび悪霊に憑かれては、友人の魔術師や、ここ、王宮の医務所のお世話になっていた。記憶の途切れる前日の出来事を思い出し、俺は頭を抱える。悪霊の天下の新月の夜に、墓地に数時間。まあ、
それから、ふと違和感を感じて窓の外を見る。立ち並ぶ木々は、すっかり葉を落としていた。
「……俺は、どれだけ、眠っていたんだ」
「今回は、霊障がかなりひどかったので……ひと月ほどに、なりますか」
嫌な予感がした。
「すぐに家に帰ることは、できないかな」
俺の目に浮かんでいるであろう差し迫った光に、魔術師は思案に暮れた顔をする。
「自宅療養をなさいますか。ご無理を、なさらないなら、お認めしますが」
「約束する」
できる範囲で、努力することを。胸の中で付け足して、俺は侍従を呼び寄せる。
とるものもとりあえず飛び帰った自宅だったが、俺の嫌な予感は的中してしまっていた。
「……奥様は、お出かけになられました。本日中に戻られなければ、殿下には、お別れを伝えてほしいとの、お言付けです」
沈痛な面持ちで、爺やが俺に告げる。
俺は呻いて天を仰ぐ。
「……兄貴の、差し金か」
ご明察です。爺やの沈黙と眼鏡の奥の瞳が、俺に告げていた。
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