不幸と幸福の反覆
三毛猫マン
記憶
漁業と製造業が盛んな北東北に私は産まれた。
今では漁業が衰退し、この町も例外なく中心街はシャッター通りである。
私の「記憶」と呼べる程度までさかのぼることができる年齢は3~4歳であろう。
科学的にも3歳より前のことを記憶していることはほぼないと言われる。
さて、私の育った最初の家は、小さな長屋に玄関が2つ付いているオンボロの借家で平屋の家に2世帯住んでいる状態であった。
「1K」それが家のスペックである。
風呂はなく、室内にトイレすらない。
外に玄関から歩いて10秒ほどの場所に、汲み取り式のトイレがあったのだが、もちろん隣人と共同使用である。
私は両親と2歳年上の姉と4人家族で狭い部屋に暮らしていた。
私の最初の記憶は「ご飯」になるだろう。
当時の私は他人と比較をできる年齢ではなかったこともあり、献立自体に違和感は感じていなかった。
当時の献立は、「白米、味噌汁、時折梅干し」、これがほぼ毎日であった。
父親は白米に味噌汁をかけて、まるでお茶漬けのように食べていた。
私も白米と味噌汁を別で食べていると飽きてくるので、白米にかけて食べるようになっていた。
このことがトラウマになり、今は雑炊やおかゆのような白米に汁気のあるものを好まない。
そんな生活を送っているある中、ちょっとしたイベントがきっかけとなり、家が貧しいことを、少しだけ感じ取れたのである。
もちろん貧しいという感覚を3~4歳が理解はできまい。
それでも感じることは出来たのだ。
ある夏の日のこと、玄関前に木製のステップがあったのだが、そこに一人で座っていると大家さんであろう年配女性が「ハムの塊り」を持ってきたのだ。
「僕、これ食べて」なんて言いながらニコニコしていた。
今になればわかるのだが、頂き物のお中元をおすそ分けしてくれたのだろう。
私はなんの考えもなく母親に「これもらったよ」と手渡すと、母親は激怒した。
「恥ずかしいから貰ってくるな!」その怒りはすさまじかった。
私は家に食べ物がないから良かった・・・、そんな気持ちだったのかもしれない。
しかし母親は「恥ずかしい」という。
それは貧しいゆえの「物乞い」に見られているかの感情だろう。
その後もスイカをもって来たり、おやつを持って来てくれた。
ただ単に、子供好きなおばあさんの可能性はあるのだが、その可能性を否定するエピソードを少し先の物語で話していこう。
家の中でも冬は寒く、トイレに行くのも一苦労な日々、子供とはまだ何も知らない
まっさらなレポート用紙のようだ。
他人の家と比較することや、毎日ご馳走を食べている人がいることを考えることすらできない。
少しずつ、一歩ずつ、人と会い、物に触れていくことで1行ずつレポートが書き加え
られていく、そんな感じはしていた。
厳しい生活環境であったことに疑いの余地はないのだが、そんなある日、転機が訪れることになる。
引っ越しだ。
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