第2話

 出発する数日前、依頼の詳細を父に聞いた時、ガレスはまず首を傾げた。

『〝女神を蘇らせてほしい〟……? なにこれ。俺が行かされるのって幻獣の調査じゃないの?』

『そうだよ』

『でも女神って……』

『なんていうのかな、色々よく分からない部分が多いんだ。リリトは「もしかしたら幻獣かも知れない」って言ってただけだから』

 資料を残して別の調査に向かった妹――ガレスにとっては叔母の名を呟き、父は唸りながら頬をかいた。

『何せこれまでエアスト家の誰も行ったことのない国だしね。二百年前か、あるいはそれよりも前からそこに逃げのびた幻獣や魔術師が居るのかどうか、全く触れられてこなかったんだ』

『……なんで?』

『行くのが大変だからっていうのが一番の理由かな。ほら、山と河だけじゃなくて、砂漠まで越えなきゃいけないし』

 そんな単純な理由でこれまで調査されてこなかったような場所に、ほぼ未経験と言ってもいいガレスを送り出すのはどうなのかと改めて抗議したくなる。だが今さら後戻りは出来ない。これ以上「行きたくない」なんて駄々をこねれば、同行してくれるオリフィニアにいつまで経っても子ども扱いされてしまうのが目に見えていた。

 今回の調査において大事なことは二つ。

 一つ目は「女神の詳細を突き止めること」。

 二つ目は「蘇らせるのを阻止すること」だ。

 女神とやらが幻獣ではなく、動物や植物など自然界のなにかしらを指しているとしても同様だ。前者の場合、幻獣の新規作成は二百年前を境に全面的に禁止されているし、後者に関してはいくら魔術師といえど蘇生は出来ないからである。

「だけど叔母さんが『幻獣かも知れない』って言ったからには、それなりの証拠があるんだろうなあ……」

 牛が引く車に揺られながら、ガレスはカバンから取り出した資料を捲っていた。隣に座るオリフィニアは、物珍しそうに道の左右に立ち並ぶ露店を見つめてはキラキラと瞳を輝かせている。

 二人が並んで座ってもなお余裕がある車は、日差しを遮るための屋根が備わっている。さらに牛が引いてくれているので、当然だが自分の足で歩く必要がなく、先の見えない砂漠の中を進んでいた時に比べると遥かに快適だ。

「ああもう、役に立つようで立たないな、この資料」

 文句を漏らしつつガレスは資料から顔を上げ、窓に下ろされていた帳をあげて賑わう市場をぐるりと眺めた。

 王宮に程近いというこの一帯は賑々しく、様々な店がうかがえた。飲食店、土産物屋、服飾店、その他もろもろ。時たま見える尖塔を備えた建造物は、神を奉っているのかも知れない。また建物の屋根と屋根をつなぐように渡された綱からは下膨れ型のランタンがぶら下がっていた。恐らく夜になればそこに火が灯されるのだろう。

 あたりを歩く人々は、気候が影響しているのか、ガレスの故郷であるレンフナに比べるとかなり薄手の衣服が目立つ。男はゆったり涼しげなシャツとパンツが多く、女は体の線を隠すような衣服――というよりも一枚布だろうか――に身を包んでいる。暑い場所だと聞いてはいたため、ガレスもオリフィニアもそれなりに薄着をしてきたつもりだが、通気性の問題かじっとりと肌が汗ばんで少々不快だ。時間を見つけてこちらで衣装を見繕うのも悪くないかも知れない。

 人々は車が通るのを目にすると、さっと道の両脇に避けて首を垂れる。なぜだろうと思っていると、「旗が関係しているのかも知れませんね」とオリフィニアが興味深そうに呟いた。

「旗?」

「車の四方に旗が掲げられていたでしょう? 恐らく、あれに王家の紋章かなにかが描かれているのではないでしょうか」

 そうだったかな、とガレスは数時間前の記憶を辿った。



 砂丘を上りきって岩の防壁を目にした時、二人は壁の手前あたりに誰かが立っていることに気づいた。何者かはガレスたちの影を認めると、嬉々として両手を振ってくる。疲れで痺れる脚を必死に動かしてなんとか壁の手前に辿りつくと、待っていたのは十二、三歳ほどと思われる褐色肌の少年だった。小鳥の尾羽のようにうなじで結ばれた黒髪はふわふわと柔らかそうで、くるりと丸い鳶色の瞳に喜びを浮かべている。

「お待ちしておりました。エアスト家のガレスさまと、オリフィニアさまですね。ようこそ、ファラウラへ」

「えっと、君は……?」

「申し遅れました、僕はドゥルーヴ。お二人を王宮にお連れするようにとハウトさまより仰せつかった者です。長旅でお疲れでしょう、どうぞこちらへ」

 ハウトって誰だっけと問う暇もなく、ドゥルーヴは二人を車のもとに導いた。六人ほど乗れる仕様らしく、レンフナでよく見かける馬車とは内装も違った雰囲気だ。椅子はなく、色とりどりの糸で編まれた絨毯の上に直接座るのだという。

「お座りください。王宮までは僕と、この牛が案内いたします。到着までおよそ一日半かかりますが、どうかご了承ください」

 ドゥルーヴの声に合わせるように、車の前で待機していた黒く大きな牛が、ぶも、と一つ鳴いた。



「――――あんなに大きな牛がいるんだなあって、そっちに気をとられてたから、旗なんて気づかなかったな」

「ドゥルーヴさんの衣服にも、確か同じ紋章が刻まれていたはずですよ」

「あとで見せてもらうよ」

 王宮へは一日半かかる、と言われていた通り、昨日の岩壁からこの通りに辿りつくまでかなり時間がかかった。あの岩壁はなんなのか、とは昨晩泊まった宿でドゥルーヴに聞いている。砂嵐や他国からの侵入者に備えるためのもので、自然に造られたものではないそうだ。

「あれ、ちょっと待って。フィニ、さっき王家の紋章って言った?」

「ええ。言いましたよ」

「ついでに聞くけど、ドゥルーヴくん、俺たちをどこに案内するって言ってた?」

「王宮と仰ってましたよ」

 ということは、だ。

「俺たちに『女神を蘇らせてほしい』なんて依頼を寄こしてきたのって、まさか……!」

「ガレスさま、オリフィニアさま」

 今さらとんでもない事実に気づいたガレスの様子がおかしいことなど気にしていないのか、牛の手綱を引いていたドゥルーヴが立ち止まり、満面の笑みで振り返る。

「大変長らくお待たせいたしました。王宮に到着いたしました」

 ガレスはオリフィニアと揃って顔を正面に向ける。

 澄みわたる水を湛える堀と、そこにかかる跳ね橋を越えた先で、昨日見た岩壁とは比べ物にならない高さと美麗さを誇る白亜の壁が、圧倒的な威厳をもって二人を待ち受けていた。


 がちがちに緊張しっぱなしのガレスと違い、さすが幼い頃に父や母について各国を回っていただけあって、オリフィニアは平然としているように見えた。だがそれも数秒で、腿の上でゆるく重ねられた手が細かに震えているのを目にし、ガレスは自然と「俺がしっかりしなければ」という気分になり、背筋を伸ばして前を見据えた。

 王宮の東にある応接間のような場所に、二人はいた。茶色い壁紙とほのかに香る木のにおいは落ち着きを与えてくれるが、燭台や花瓶などの調度品がことごとく金に輝いているので、心からくつろげるとは言い難い。風通しを重視しているためか窓は開け放たれ、中庭から滾々こんこんと湧き出る泉を一望できる。泉の中心に設えられているのは四阿あずまやだろうか。水辺を彩る花は赤や白、紫など色とりどりで、ここに訪れた客は優美さに目を奪われることだろう。

 もっとも、今のガレスにそんな余裕はないのだが。

「遠いところをよく来たな」

 二人の正面、一段高い床の上に置かれた豪奢な椅子に腰かけた男が、力強い声を発した。

 年の頃は二十代半ばだろうか。夜闇に濡れたような烏羽色の髪は首筋あたりまで伸び、爪の先ほどの小さな丸い宝石が連なった飾りは頭部をぐるりと一周している。若々しく漲る瞳は黄土色で、月に照らされた猫の瞳のように輝いていた。額では雫型の緋色の石が揺れているが、恐らく頭飾りから垂れたものだろう。光の加減によるものか、石は時おり七色に輝いて見えた。

 浅黒い肌は白い衣に包まれ、市井で見かけたものよりかなり豪華な刺繍が施されていた。手首や首元だけでなく、耳や指にまで金銀の装飾品がつけられ、一目で「こいつ金持ちだな」と分かるような風体である。あからさますぎるというのに決して下卑ておらず、気品が漂っていて自然と畏まってしまう。

「このたびはお招きいただきありがとうございます、殿下」

 緊張して言葉が継げないでいたガレスに代わり、オリフィニアが淀みなく挨拶を述べ、絨毯に手をついて頭を下げる。慌ててそれに倣ったところで、殿下と呼ばれた男はかっかっと豪快に笑った。

「よい、面を上げよ。ドゥルーヴの案内に不備はなかったか? そなたたちを楽しませよと命じていたのだが、さて、どうだったか」

「殿下」彼の耳元で囁いたのはドゥルーヴだ。彼は出会った時と同じ生成りのシャツと、ゆとりのある黒いパンツ姿のままだ。「恐れながら、ガレスさまとオリフィニアさまに殿下のご紹介をさせていただいても」

「あぁ、すっかり忘れていた」

 すまないな、と笑みを浮かべつつ、男はひじ掛けにそれぞれ両腕を置き、わずかに胸を張った。

「この方はファラウラ王国、第一王子ハウト・アダーラ・タクフィール殿下にあらせられます」

「お、お初にお目にかかります。俺……あ、いや、私はガレス・エアストです。こっちは同行人のオリフィニア・エアスト」

「そなたたちは姉弟なのか? まったく似ていないが」

「血は繋がっておりませんので。ですが姉弟と思っていただいて構いません。子どもの頃からずっと一緒に暮らしていましたし」

 なんとなく言葉遣いに不安があったが、全て緊張のせいにしておいた。あとでオリフィニアにおかしな顔をされたらどうしようと思ったが、彼女はきっと微笑んで労ってくれる。それに甘えてばかりもいられない自覚はあるが、今回くらいは許してほしい。

 ハウトは値踏みをするようにガレスを見下ろし、ふむ、と小さく頷いた。なにに納得したのかと疑問を感じていると、「ガレスとやらはリリトと同じ瞳だな」と呟くように言われた。

「え? ……あ、叔母のことですか」

「ほう、彼女はそなたの叔母なのか。道理で。いや、俺はつい先日まで他国の外遊に出向いていてな。魔術師だというリリトともその最中に出会った。ファラウラに魔術師などという存在は居らんからな、その珍しさに俺から声をかけたのだ。相棒だという男はともかく、当の本人は普通の人間にしか見えなんだが」

「ああ、その……厳密に言うと、叔母は魔術師ではないんです。神力イラを持たないので」

「〝いら〟? なんだそれは」

「魔術師が〝魔術師〟と呼ばれる証拠の力、とでも申しましょうか」

 ――そうか、この国は神力とか魔術師とか、そういうのに馴染みがないのか。ってことは幻獣についての知識も皆無と思って良さそうだな。

 具体的に教えると長くなってしまう。その話はまたの機会に、とガレスが説明を曖昧にすると、ハウトは少しばかり不満そうに眉間にしわを寄せたが、まあよいと軽く手を振った。

「それで、リリトと話すうちにわが国の話になった。魔術師である彼女なら解決できるやもと相談した折に、『でしたら正式な依頼として承りましょう』と言うのでな。リリトからはなんと聞いている?」

「叔母からは『女神を蘇らせてほしい』としか」

「まあそうだろうな。詳しくは国に招いてからと考えて、俺も詳細は伝えなんだし」

 てっきり叔母の情報伝達能力が欠けていたのかと思っていたが、そもそも依頼主の時点で情報が不足していたのか。資料に書かれていたのも国の位置と名前、観光名所や食文化ばかりだったのだ。恐らく書いたのは叔母だろうし、そういう資料を作るあたり叔母らしいといえば叔母らしいのだが。

「わが国ではある女神を祀っている」言いながら、ハウトは視線を外に向ける。「王宮を囲う堀には水が満ちていただろう? あれは全て王宮の中庭にある泉から――ちょうどここから見えるあそこから湧き出たものなのだが、女神は常にその側にいて、心安らぐ音楽を奏でているとされている」

 水は人間だけでなく、動物や植物に潤いを与えてくれため、泉のそばに宿る女神は「豊穣の女神」として慕われているという。さらに砂漠に辿り着いた人々にあらゆる知恵を貸してくれたことと、音楽を愛するという観点から、学問と芸術も司るとされているそうだ。

 ハウトは熱のこもった口調で神話まで語ろうとしていたが、ドゥルーヴがさり気なく咳払いをしてくれなければ、夜まで延々と話し続けていただろう。

「蘇らせてほしいというのは、その女神さまのことでしょうか」

 オリフィニアの問いに、ハウトは「うむ」と頷いた。

「女神は長らくわが国を見守ってくれていたのだが、数年前にいなくなってしまった。要するに加護が消えてしまったのだ。幸い恵みの象徴ともいえる水は枯れることなくいまだ湧き出ているが、女神が消えた直後から父上は体調を崩し、もう何年も臥せっている。民たちも女神が消えたと不安がっているのだ」

「はあ……」

 ガレスはぼんやりした相槌を打った。言葉にはしていないが、内心にずっと疑問が募っている。隣で困ったように眉を寄せるオリフィニアも、似たようなことを考えているはずだ。

 話を聞く限り、豊穣の女神とやらは完全に神話の存在で、どこにも幻獣らしい要素が無いように思えるのだ。叔母はどこをどう判断して「幻獣かも知れない」と感じ、エアスト家に依頼するようハウトに進言したのだろう。

 また女神の復活を心から望んでいるであろう彼に、ガレスは「蘇らせることは出来ない」と伝えなければいけないのだ。

 ガレスを、エアスト家を、ひいては現在まで存続している魔術師たちを守るために。

 ――納得してもらえる気がしないなあ。

 ハウトはドゥルーヴに「あれを」となにやら指示を出す。一度奥に引っ込んで戻ってきた時、彼はぼってりした灰色の袋を抱えていた。大きさはガレスの顔ほどで、床に置かれた時の音から考えるに、重さもそれなりと思われる。

「なんですか、それ?」

「〝女神〟だ」

「……はい?」

 思わぬ答えに、ガレスは何度も目を瞬きながら首を傾げた。

「正確には〝女神だったもの〟だな」

 ドゥルーヴがゆっくりと袋を開けていく。

 現れたのは、どこからどう見ても、なんの変哲もないただの砂だった。

 けれどガレスには分かる。

 ――ああ、これは。

 ハウトに断りを入れて、ガレスは砂を掌で掬った。灰色がかったそれはさらさらしているばかりではなく、所どころに大きな塊もあって、よく見るとそれは指先だったり、目玉だったりと、形が明確に分かるものもある。

 ふう、と大きく息をついて目を閉じ、掌に意識を集中させた。周囲から感じる音やにおい、温度など、全てを遮断するかの如く。

「……なにをしているのだ?」

「お静かに、殿下」

 身を乗り出してガレスの様子をうかがうハウトを、オリフィニアが素早く制止した。

 黙り込むこと、およそ一分。ガレスは確信した。

 この国を守っていた豊穣の女神は、幻獣だったのだ、と。

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