Never End World

夜明佳宵

第1話

青年は、走っていた。


『はぁ、はぁ、はぁ、は……!』


その日は、ひどく激しい雨が降っていた。地面はぬかるみ、青年は時折それに足をとられながらも走ることは決してやめなかった。なぜなら、彼は逃げなければならなかったからだ。彼には追っ手が迫っていた。それもかなりの量の、だ。だから彼は死に物狂いで雨の中を走っていた。全身が濡れ、彼の茶色の髪が彼の整った顔に張り付いても、彼は一切気にせずに走り続けていた。やがて青年の足は一軒の家の前で止まる。その家を見上げる青年の表情はどこか安心していた。


『やっと……帰ってこれた……』


青年が、ぎこちなく笑う。彼がその顔に笑みを浮かべるのはここ数年の中で久かった。だが、その笑みはまたすぐに失われることとなる。


『……やはり、か。お前はここに来ると思っていた』


『ハン、ス…………』


暗闇から黒の燕尾服を着た長身の男が現れた。青年からハンスと呼ばれた男もまた、彼ほどではないが雨に打たれ、見るからに高級感の漂う燕尾服を濡らしていた。青年がじっとハンスを見つめる中、彼もまた微笑を浮かべながら青年を見つめていた。やがて青年は苦しそうに顔を歪めると右手に力を込める。すると、青年の意志に肯定するように彼の右手は青白い光を放ち、その光はやがて円形の武器──チャクラムへと姿を変えた。青年は腕をあげるとハンスにチャクラムの刃の先を向ける。


『ほう、この俺に武器を向けるか』


ハンスはスッと目を細めて青年を見据えた。ハンスは分かっていたのだ。今の青年は、自分を傷つけることにためらいがある。そもそも、ここで戦うことすら望んでいない。だが武器を手にしたということは、それでも自分と戦う覚悟を決めたのだろう。だからこそ、ハンスも武器を手にした。彼の左手に現れたレイピアを見て、ハンスの視界に映る青年の目が鋭くなる。


『っ、』


息つく暇もなかった。瞬き一つの後、ハンスのレイピアの長い刃が青年の体を貫いていた。青年の右手からチャクラムが光と共に消える。刺された反動で、青年の体ががくりと前に倒れかけた。青年の最大に見開かれた目は焦点が合わず、先程まであった武器を失った手は虚空を彷徨っている。ハンスがレイピアを持つ腕をあげると青年の足が地面から離れた。


『ぁ……っあぁ……!』


喉から迫り上がるものを青年が思わず吐き出せば、赤黒い液体が彼の口や服を赤に染めた。浅い呼吸を繰り返しながら青年は目の前のハンスを弱々しく睨みつける。ハンスは彼の様子を見るとその端正な顔を歪ませた。


『甘いな。そんな脆弱な覚悟で、本気で俺から逃げられるとでも思ったか』


青年がもがくたびに、ハンスの持つレイピアの刃が青年の体にさらにめり込む。青年は何とか引き抜こうとレイピアを両手で掴むが、降り注ぐような雨で濡れた手と多量の出血で、加えて浅い呼吸では力も入るはずがなかった。力尽きたのか、青年の手は再びぶらんと空中を漂う。青年が咳込むたびに彼の口からは止めどなく赤い血が流れる。


『ぁ……がは……ッ!』


『アイツの悪ふざけも少々あったが、まさかお前にここまで逃げられるとはな』


ハンスの口から出た言葉に青年はふ、と笑みを浮かべた。つい数分前の安心した柔らかい笑みとは違う、まるでこうなることが分かっていたかのような確信に満ちた……そしてハンスを嘲笑うかのような、そんな笑みだった。


『……は、はは、最後に、あんたに、一泡……吹かせて、やり、たかった……。ここにきた、のは……未練を、なくすため……。やっと……死ねる、んだ……。これで、やっと、楽になれる……』


ごふ、とまた血を吐きながら青年はまた小さく笑った。これは青年の最後の強がりだった。言葉の通り、ハンスが少しでも狼狽える姿を青年は見たかったのだ。が、それを見たハンスは逆に彼を嘲笑った。少しも狼狽えずに、ただただ青年を嘲り笑った。


『死ねる? っ、ははははは、何を言っているんだお前は』


『……?』


予想外だったのか、青年は眉間にシワを寄せた。青年の頬を、雨に混じって冷や汗が流れ落ちる。


『お前がそう簡単に死ねるものか。何のために俺がお前を鍛えあげたと思っている? ……まあ、いい。そこまで言うならお前に課題を出してやろう。いいか、────』


男が言葉を連ねると、青年はその緑の目を大きく見開いた。ひゅっ、と青年の喉が鳴った。


『これができたら、お前の────』


……そこまでが、彼の覚えていることだった。


あの日から一年と少し、あの時の青年はアスガルデに向かう電車に乗っていた。

青年には、一年前のあの日以前の記憶がない。所謂、記憶喪失というものだ。加えてあの日の記憶も朧げで、あの時男が自分に課した課題の詳細も思い出せないまま、残ったのは自身の胸の傷痕だけであった。だが、そんな彼でも男の名前だけは鮮明に記憶に残っている。あの時の男の名前は、ハンス=シュナイダー。彼に会えば自分が何者であるのかが分かるかもしれないと考え、今に至るのであるが……


「…………」


……何かを考える暇も今の彼にはなかったようだ。何せ今の彼は酷い乗り物酔いに耐えていたのだから。


「……気持ち悪い」


席の背もたれに背中を預け、彼は一言そう呟いた。


世界最大の芸術都市、アスガルデ。アーサヘイム地方の中心に位置する芸術と文化で栄える大きな都市である。北のミッドガルド地方の片田舎、ヴェントルから上京してきた彼にとって、アスガルデはもはや世界が違った。街から外れた場所には、アスガルデに寄り添うようにして一本の世界樹がそびえ立っている。大きすぎるその樹は列車の窓からでも十分見ることができた。

記憶にはないはずなのに、青年はどこかこの景色を知っている気がした。だが彼はそこで考える事を放棄した。彼が何かを思い出そうとすると、決まって彼の頭は思い出すなとでも言うように多少の頭痛を伴うのだ。青年は一つ、小さなため息をこぼす。


──アイツが出した課題、会えば全部分かるはずだ。……そして、オレが何者なのかも。


列車が駅のホームに入り、停車する。ようやく降りられると青年はホッとすると、自身が持ってきた楽器を入れたリュック型のケースを持って席を立った。窓の外を一瞥すると電車から降り、そして、駅の改札を抜けると青年は駅の構内をぐるりと見渡す。


──さて、どうすれば……。


はるばるアスガルデに来たのは良いものの、彼に会う手段を彼は何一つ持ち合わせていなかった。人に聞こうにも、人見知りの彼の頭からその考えは即座に排除されたし、別に彼の指揮が見られる演奏会を見に来たわけでもないのだ。八方塞がりとはよく言うものである。


──いや、街を歩いていれば、何か情報を得られるかもな。アイツは指揮者なんだから……情報がないなんてあり得ないはずだ。行こう。


気を取り直して青年が歩き出すと向かいの方から人混みに紛れて一人の少女のような女性が彼に勢いよくぶつかった。金色の髪を後ろで三つ編みにしており、空のように明るい青の瞳を持っている。彼女が着ている桜色のワンピースも彼女によく似合っていた。あまりの衝撃の強さに青年はよろけたが反動で彼女が倒れてしまわないように体勢をすぐに立て直すとその華奢な体を片腕で支える。


「大丈夫か?」


「あ…………」


彼女は頰を少し赤らめるとすぐに青年の胸を突き飛ばして彼の腕から逃げた。悪い事をしたかと思い、青年は彼女と距離をとる。流石に彼女の体を触ってしまったのはセクシャルハラスメントだったかもしれないと青年は思った。目のやりどころに困りながら、青年は彼女に向かって頭を下げる。


「す、すまない」


「あの、私、急いでるので! ごめんなさい! 失礼します!」


彼女は辺りを見渡すと足早に走っていってしまった。


──何だったんだ……?


取り残された青年は小さくなっていく彼女の背中を見ながら肩をすくめると当初の目的を果たそうと決めた。それにしてもさっきの彼女はどこか様子がおかしかったなと、青年は思ったが自分には関係のないことだろうとその疑念を消す。ようやく足を動かそうとした青年だが、悲しくもその足はその場で止まる。


「……何の用だ?」


振り返った青年の目の前には、派手なオレンジ色の髪をした彼よりも背の高い青年が立っていた。オレンジの彼は相当な距離を走ってきたのか肩で息をしており、その額には汗が滲んでいる。彼は青年の前で息を整えると、なるべく冷静を装って口を開いた。


「お前さっき、女の子にぶつかっただろ? その子、どっちに行ったか分かるか?」


「確かにそうだが……なんだ。アンタは彼女のボーイフレンドなのか?」


自分の予定を邪魔されたこともあり、青年は投げやりにそう口にした。するとオレンジの彼は驚いたのか先程より声を大きくして反論する。


「なっ、ちげーよ! そうじゃなくて! お前、案内してくれないか? どこに行ったは分からないにしろ、方向くらい分かるだろ? あっ、別にストーカーじゃないからな! 勘違いするなよ!」


大きな声で色々とまくし立てるオレンジの彼に青年は耳を塞いだ。やかましいと青年は心の中で呟く。実際のところ彼の声はよく響き渡るくせに尚のこと大きすぎるのだが。


「やけに真剣だな、アンタ」


青年がそう言うと、オレンジの彼は打って変わって気まずい様子でその口を閉じた。青年はそんな彼の行動に違和感を感じた。必死だなという言葉は皮肉だっただろうか。それとも、彼にとってこの言動はまた別の意味を表すものなのだろうか。だが、彼の目的を果たすためには一刻も早く急いだ方が良かった。青年はこれ以上彼について考察することをやめた。


「……事情は聞かないでおく。行くぞ」


「ほ、本当か?!」


青年の言葉でオレンジの彼の顔が明るくなっていく。気のせいか、彼のオレンジ色の髪も明るくなった気がした。青年はなんて現金な奴だろうと半分彼に呆れる。青年は一瞬、オレンジの彼が尻尾を振る子犬のように見えた。このまま見ていられないと青年はオレンジの彼から目を背ける。


「早くしろ」


「……ありがとな! 俺の名前はバルド。お前は?」


「セルマ」


「よし! じゃあ、セルマ! 行こうぜ!」


この時セルマは特に考えなかった。この出会いが後に自分の運命を大きく変えることになることを。この出会いが、彼の旅の全ての始まりとなることを。


*****


さすがは世界最大の街である。入り組んだ街の表通りを走り、暗い路地裏に入ったところで先程の彼女を二人は発見した。彼女は疲弊して走れなくなったのか、肩で大きく息をしながら片手を壁についている。彼女を見つける事ができたバルドは見るからに嬉しそうな顔で彼女に駆け寄った。


「良かった〜! 捕まってたらどうしようか心配したぜ!」


「だ、誰ですかあなたは!?」


──知り合いじゃなかったのか?


二人から少し離れたところでセルマはその様子を傍観していた。バルドは嬉々として彼女に話しかけているようであったが、当の本人は相当困惑している。セルマはもしかしてバルドがストーカーなのではないかと疑いながら、しばらく成り行きをみていた。が、ここにいる必要がないなと思うとバルドに声をかける。元々セルマはこんなことをしにここに来たわけではないのだから。それに、他人を気にかけるような性格でもなかった。


「おい」


「お、どうした?」


「用はもう済んだだろ?悪いがオレだって暇じゃない。ここでサヨナラだ」


「お、おい……セルマ……」


バルドはどうにかしてセルマを引き止めようとしたが言葉が出てこず、口をパクパクさせる。隣にいる彼女もしばらくしてセルマが先ほど自分がぶつかった青年だと気づいた様子だった。


「ち、ちょっと待って!」


バルドに構わずセルマが踵を返そうとした時、彼女がセルマの腕をとった。セルマは驚いて思わず足を止め、そして彼女の方を振り返る。セルマは女性から触れられた経験がない。あるのかもしれないが、記憶を失っている彼に女性の体に触れることはおろか、腕を抱き締められるなんてことは彼の気を動転させるには十分だった。その場の勢いでセルマの腕を抱き締めてしまった彼女はセルマと目が合うと恥ずかしそうに俯く。


「貴方……さっきぶつかった人、ですよね? まだお詫び、してない……」


「……いいよ、別に大したことじゃない」


セルマは彼女の腕を振りほどこうとした。彼女にショックを与えないように優しくだ。なのに。


「で、でもそれじゃあ悪いです! 小さなことでもいいので何かお礼をさせてもらえませんか!?」


──な、なんなんだこれは?!


彼女がセルマの腕を硬く抱きしめ、彼は内心焦った。さっきより彼女の体が自身に密着しているからだ。ただでさえ慣れていないのにこんなことはないだろうという思いがセルマの中でぐるぐると回る。ちらっとセルマがどうにかしろとバルドの方に視線を送ると彼は耐えられないと言うように思いきり吹き出した。


「はははは! セルマ、これはもうこの子に付き合うしかなさそうだぜ?」


「おい、冗談もほどほどに……」


「それに俺も何かお詫びしたいしさ。ちょっとくらい付き合ってくれてもいいだろ?」


はあ、とセルマから素っ頓狂な声が出る。セルマはさらに頭が混乱した。何故こんなに自分は引き止められなければならないんだ、と。そして彼は逃げることを諦めた。これ以上深く考えることを放棄した、の方が表現は正しいかもしれない。大きなため息をついてセルマは二人の方に振り返る。


「……分かったよ。暇じゃないといっても急ぎではないしな」


「やった〜! 私は……ルカ。ルカです! よろしくお願いします!」


「あ、あぁ……」


──ルカなんて、なんだか男の名前みたいだな。


そんなことを考えながら、セルマはルカと名乗った彼女の腕から気づかれないようにするりと抜けた。彼らの望みを承諾したところで、セルマの頭には一つの疑問が浮かんでいた。それは何か問題を起こすような感じではないルカがなぜ逃げていたのか、ということだ。会話こそ短いものだが、彼女が悪い人物だとはセルマは到底思えなかった。聞いていて損はないかとセルマは判断すると、二人にそれを聞くために口を開く。


「そういえば……どうして追われていたんだ?」


「え、えっと……それは……」


「?」


自分の質問に急によそよそしく目を逸らしたルカやバルドにセルマは首を傾げた。バルドの時もそうだったが、この事態に深く入り込むような質問はそんなに答えにくいのだろうか。セルマの思考は沈んでいく。バルドは困ったように髪をいじると躊躇いがちに口を開いた。


「……あのな、セルマ。俺たちは普通のお前とはちょっと違うんだよ」


「どういうことだ?」


「俺たちは……」


「見つけたぞ!」


バルドがその先を言うことはなかった。遠くから聞こえてきた声に加えて、こちらに複数の足音が近づいてくるのが聴こえてきたからだ。


「チッ、まだ振り切れてなかったのかよ!」


バルドの視線の先を追うと、アスガルデの私軍の一般兵が数人こちらに銃を向けていた。一般兵たちを見てセルマは露骨に顔を顰め、彼らの方へ足を進めていく。セルマの背後でバルドが叫んだ。


「おい、何してんだ! 殺されるぞ!」


「…………」


セルマはバルドの、俺たちはちょっと違うんだよの意味が理解できた気がした。否、完全に理解した。この街の軍の一般兵が何もしていない一般人に銃を向ける理由なんて一つしかない。セルマは静かに息を吐き、持っていたケースを地面に置くと右手に力を集中させる。彼の右手に青白い光が灯り、それは円形の武器に形を変えた。


「クソッ、アイツもプレイヤーだ!」


一般兵の一人がそう叫んだ。その一言でセルマの周りの空気がさっと変わる。


「そんなバカな!」


「セルマも、プレイヤー……」


ルカとバルドも、驚きを隠せない様子でセルマを見ている。この場にいるセルマ以外の全員の視線が今、セルマ一人に集まっていた。彼がどう動くか、全員が固唾を飲む。


「な、何を怯んでいる! 相手は一人だけだ! 進めぇッ!!」


一人の号令により、一般兵たちが銃のトリガーに指をかけ、足を動かそうとした。だがその手足は震えており、顔も心なしか覇気がない。まるで目の前のセルマを怯えているようだ。そんな彼らの方へセルマは一歩ずつ、一歩ずつ、ゆっくりと進んでいく。


「……悪く思うなよ」


セルマはそう呟いて構えると、地面を蹴り上げて一般兵たちの中に飛び込んだ。


「う、うわああああッ!」


飛び込んできたセルマに一般兵の一人は怯えたように叫ぶと彼に向かって銃を撃つ。それもセルマの視界では止まっているかのように見えた。右手に持ったチャクラムでセルマはより正確に確実に弾を弾いていく。まず始めにセルマに銃弾を放った一般兵が峰打ちで床に倒れ伏した。他の一般兵がそれに気を取られている間に、セルマは次々と彼らに峰打ちを決めていく。


「すごい……。あっという間に……」


ルカの言った通り、一般兵たちはあっという間に全員地面に倒れ伏して動かなくなってしまった。その中央に佇むセルマはそれらを無言のまま見下ろしていた。そのままセルマは二人に話しかける。


「追われていた理由は、プレイヤーだからだな」


「……うん」


「あぁ……、俺たちはプレイヤーさ。お前も同じプレイヤーなら分かるだろ? 楽器を武器にして戦える異質な力を持ってる俺たちは見つかり次第捕まって実験体まっしぐら。一度捕まったらもう日の光を浴びることはできないんだよ。俺は追われていたルカをたまたま見つけて助けようとしてたんだ」


プレイヤー、それは楽器を武器に変えて戦うことのできる能力を持つ者たちを指す、演奏者という意味でつけられた名称だ。そして同時にそれは、普通の人間ではない異端の烙印を押されていることにもなる。理由は言うまでもないだろう。人の体からいきなり武器が出てきたらどう思うだろうか。異常なものは排除したいと思うだろう。


「……そうか。アンタたちがプレイヤーなら、また話が違う」


未だ地面に倒れている一般兵たちを眺めながらセルマは小さく、だが二人が聞き取れるくらいにはっきりとそう呟いた。そして彼は状況がつかめていない二人の方へ顔を上げる。


「え?」


「少し協力してくれないか。オレは人探しをしている」


「……名前は?」


「名前は……」


コツ、コツ。やけに靴音を響かせて歩く音と、押し寄せてくる嫌な予感にセルマはゾワっと鳥肌が立った。ただの靴音のはずなのに、謎の威圧感がある。聴いている者の耳を支配するかのような、そんな音だった。それはセルマ以外の二人にも感じ取れるらしく、特にルカに関しては顔を真っ青にして後ずさり始めた。


「……逃げた方が、いい」


「ルカ?」


「バルド、あのね、私が追われていたのは一般兵じゃ、なくて……」


ルカが言い終える前に足音が、止まった。コツン、と小さく余韻を残して。三人はここに歩いてきた人物の姿を見ることができなかった。顔を上げることができなかったのだ。どくどく、どくどくと心臓の音がそれぞれの体に響く。声を発するための、すう、という息遣いが聞こえた。


「──私から、ですよね? お嬢様」


「ッ!」


聞こえてきた声に、セルマは背筋が凍りついた。低くもよく通り、耳に残る声。セルマは恐る恐る顔を上げる。薄暗い路地裏ではっきりと見えてきたその姿はセルマを戦慄させるには充分だった。


「あ、アンタは……ッ!」


突如セルマ達の前に現れた男。

黒い燕尾服に痩身長躯の体を包んでおり、

腰まである長い黒髪を後ろで一つにまとめていて、

そして、左側だけ下ろしている長い前髪で左目を隠している。

その男は、まさにセルマが会いたがっていた人物、張本人であった。男は武器を持ったまま呆然としているセルマを見ると、彼と同じく一瞬だけだが驚いた表情をした。男はそのまま肩を震わせて笑う。


「……おっと、これはこれは珍しい。久しぶりだな。元気そうで何よりだ」


「ハンス……!」


セルマが男の名前を叫ぶと同時に彼の頭にズキ、と痛みが走った。


「あっ?! う、あぁ……ッ!」


「お、おい! 大丈夫か、セルマ!」


セルマのチャクラムが彼の手から落ちて光とともに消え去る。そのまま彼は両手で頭を抑えながらその場に膝をついた。頭がズキズキと痛い。電車に乗っていた時とはまた違って心臓が破裂しそうに大きく鼓動している。今までなにかを思い出そうとしてもここまでなることはなかった。

痛い。

痛い。

立っていられないほど、痛い。


「はっ……ぅあ、ああ……ッ!」


「セルマ、セルマ! しっかりしろ!」


バルドは蹲っているセルマに駆け寄り、彼の肩を揺らした。だがセルマはバルドに応じようとしない。彼の緑の瞳が揺れる。


「オレは……知ってる……! 何を知ってる……!? 思い、出せない……ッ!」


「おい、一体どうしたんだよ!」


突然発作が起きたかのように頭痛に苦しみ始めたセルマにバルドは慌てるばかりだった。彼の肩を揺らして彼と目を合わせようとしても合わない。ルカも心配そうにセルマを見ている。ふと落ちてきた影をバルドが見上げると、距離が離れていたはずのハンスが目の前に立ってセルマとバルドの二人を見下ろしていた。


「その様子だとまだ色々と思い出せていないようだな。俺のことを名前で呼ぶのが何よりの証拠だ」


ハンスはバルドを足払いするとセルマの胸ぐらを掴んで強引に引き上げた。セルマは何が起こったのか分からず突然引き上げられたことに驚いていたが、ハンスの顔を見るとほぼ反射的にギュっと目を瞑って彼から顔を背けた。ハンスはセルマの行動を気にすることなくグイと彼に顔を近づける。


「ッ!」


「セルマ、俺を見ろ。目を閉じるのはお前の悪い癖だ」


「…………」


恐る恐る、ゆっくりとセルマは目を開けた。彼の隻眼に自分が写っているのが見え、思わずセルマはハッと目を見開いた。それをかつて見たことがあるような気がしたからだ。ハンスの瞳の中にいる自分を見つめていると、乱れていた呼吸と頭痛が落ち着いていく。対してハンスは、セルマの顔を伺いながら心底つまらないという顔をした。


「本当に思い出せていないようだな。だが安心しろ、お前の記憶は近いうちに戻る。その為に俺を求めてここに戻ってきたんだろう?お前の思考は正しい。そのまま俺を追ってこい。記憶が戻っていないお前と話してもつまらん。その様子なら課題のこともどうせ忘れているだろうしな」


「…………くれ」


「ん?」


「教えてくれ……! アンタは、オレのことを知ってるんだろう?! だったら教えてくれ! 本当のオレを!」


セルマはハンスの腕を掴むと叫ぶようにして畳み掛けた。こんなに声を出したのは久しぶりだったかもしれない。でもそれも仕方がなかった。セルマがここに来た目的はそれだったのだから。チクチクと喉が痛むのをセルマは感じた。すると、ハンスの顔から笑みが消えた。


「……俺に指図をするな」


次の瞬間、セルマは背中に走る激痛に顔を歪ませた。ハンスがセルマの体を力任せに近くの壁に叩きつけたのだ。彼の瞳は相手を射抜くような鋭くて冷たいものとなっている。


「お前と俺は対等ではない。記憶を失っているとはいえ、よく俺に向かってそんなふざけた口が聞けたな」


「……っ」


「……興醒めも甚だしい。一年ぶりの再会がこれとは……残念だ」


ハンスはセルマの服を掴んでいる手とは逆の手をセルマの額に当てた。その手は、少し汗ばんだセルマにとって気持ちいいと感じる程度に冷たいものだった。その手の冷たさを感じているうちに、徐々に心地のいい眠気がセルマを襲う。


「お前がどう足掻いたとしても、いずれは俺にたどり着く。そう焦らずともいい。今は眠れ」


意識がなくなる寸前、セルマはこの景色が過去のものに見えた。


「……せん、せい」


「!」


その一言を最後にセルマの体から力が抜けた。ハンスが彼の服から手を離すとセルマはその場に倒れてしまう。


「セルマ!」


先程まで呆然と事の成り行きを見ていた二人は我に帰るとセルマの元に駆け寄る。バルドがセルマの体を起こして抱えると、彼らの心配はセルマが静かな呼吸を繰り返していることで杞憂となった。


「そう案ずるな。寝ているだけだ」


ハンスは意識を失ったセルマを気にかけることもなくルカに近づくと彼女の腕を掴んだ。その腕を引き上げると少しだけ握る力を強める。


「さあ、帰りますよ」


「……嫌よ。私は帰らない」


ルカの態度にハンスはわざとらしく大きいため息をついた。怒っているというよりかは呆れた、何度もこれを体験しているかのような様子であった。舌打ちこそしないがかなり苛立っているのが分かる。ルカとハンスの睨み合いが続く。


「貴女は自分の立場をお忘れで? どれだけ偽ろうとも貴女の運命からは逃げられないのですよ」


「貴方が思っているほど、私はそれから逃げようと思ってるんじゃない! むしろ受け入れようとしてる!」


「……詳しい話は帰ってからにしましょう、クラウスお嬢様」


「クラウス!?」


バルドは目の前のルカを凝視した。そして彼をとてつもない不安が襲う。バルドは自身の頭の中でグルグルと考えを巡らす。


──クラウスはアスガルデを治め続けている家で……今は確か、先代が死んで一人娘が担ってるはずだ。じゃあ、ルカは……。


「ごめんなさい、バルド! 隠すつもりはなかったの!」


「る、ルカ……」


──なんだよ! なんなんだよ、これは!


バルドは何も言うことができなかった。腕の中にいるセルマに助けを求めようと彼の肩を揺するも、彼は目を固く閉ざしたままだった。今のバルドにとって、眠ってはいるもののセルマだけが信じられる存在だった。いや、彼も少々信じられないかもしれない。本当なら今すぐにでもこの恐怖を声に出して逃げたかった。体の中の本能が警告を出し、無意識のうちにガタガタと体が震えてしまう。ハンスもバルドのそれに気がついていた。


「大きな力を前に恐怖する。誰でもそうなる。だが……楽器を武器として扱い、戦士として闘う異能のプレイヤーがそんなものとは……とんだ臆病者だな、お前は」


「ッ……」


「ここで手にかける価値もない。腕の中にいるそいつが目を覚ますまでそばにいてやれ」


「お、おれ、は……!」


「帰りますよ。お嬢様」


バルドが口を開くも、ハンスの目がもうバルドを捉えることはなかった。代わりにハンスはルカの腕を引いた。彼女は抵抗するも、彼の力が強いのか、ズルズルと引きずられて行ってしまった。


「……情けな……」


二人の姿が見えなくなってからバルドは一人、そう呟いた。バルドは視線をセルマに落とす。


「おい、起きろよ」


「…………」


セルマの体を揺さぶるが、彼は目を開けなかった。目蓋がぴくりと動くことも、増してや身じろぎすらしない。どれだけ深い眠りに落ちているのか、とバルドは深いため息をついて彼を背中に背負う。そして片手で彼の持っていたケースも持った。


「軽いな」


──そういえばコイツ、俺よりも小柄だったか。


彼の穏やかな寝息を感じながら、バルドは立ち上がった。行くあてはある。あそこならセルマも受け入れてくれるだろう。バルドはそう確信し、彼の体に負担がかからないようにゆっくりと歩きはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る