異端審問官の寂寞

衣織

第1話 異端審問官

 秋の初めのことである。まだ熱い乾いた風が吹き抜ける、そんな夜だった。


 スペイン、マドリードの近くにあるトレドという都市の大広場──スペイン人はこのような大きな広場のことをマヨール・プラサと呼ぶ──に、一つの行列がずらずらと入ってくる。


 ラッパや太鼓などで陽気な音楽を奏でながら広場に入ってくる行列。一番前が楽団、そしてその次が聖職者。聖職者の服には、十字架を挟んで向かって左側にオリーブの枝、右側に剣を描いた紋章がついている。


延々と続く行列の最後に立つのは、黒衣の美しい青年であった。豊かな黒い髪を後ろで一つに結び、仏頂面をしてはいるが、薄い唇に黒曜石のような黒い瞳。端正な顔立ちをしている。少し神経質そうな表情をしているが、手足もすらりと長い細身の美青年である。胸には、行列の前のほうにいた聖職者と同じく、十字架をオリーブの枝と剣で挟んだ紋章がついている。


 行列が連れてきたのは、まずは肖像画を手に持った聖職者たち。次に、それぞれ何かしらを手に持たされた集団。その次に猿轡を噛まされながら、緑色の十字架を持つ数人と、それに寄り添いながら聖書を読む司祭。その次には、炎を逆さに描いた悔罪服を着せられた集団。最後に黒衣の聖職者たちが馬とラバを率いて広場に入る。ラバの背中には煌めく金で装飾された箱が積まれている。


 広場には豪奢に誂えた舞台があり、知らぬ者が見るならば、何か大掛かりな芝居でもあるのかと思うことだろう。だが、トレドの住人は知っている。広場を見ることができる場所に家を持つ市民は、窓から、バルコニーから、飲み物を片手に、目を皿のようにして広場を見つめている。


 最後尾で馬を率いていた美しい青年が、笛太鼓の音をまるで意に介さずに壇上に向かい、そこにある椅子に気怠げに座った。朝も早くから行われたこの行進に、青年も少し疲れたような表情を浮かべている。そうして全員が所定の位置に着いたことを確認すると、青年は椅子から立ち上がり、薄い唇で言葉を紡いだ。


「クリスティ・ノミネ・インヴォカート(キリストの御名においてお祈りいたします)」


 低い声を合図に、笛太鼓の音が止んだ。青年はぐるりと会場を見渡し、横の聖職者から手渡された書簡を開く。


「過去の聖職者の言葉を引用させていただきます。私たちの目的は、厳重な見張りとなって教会と言う葡萄の樹を監視し、宗教という小麦から数々の異端を見つけ出すことに他なりません。こうしたことは、最初は恐ろしい行為に見えたことでしょう。けれど、今の皆様におかれましては、これが慈悲であることをお判りいただけると思います」


 静かに紡がれる声に、誰かがつばを飲み込む音すら響き渡りそうだった。

 


 時は西暦一五〇二年。スペインは恐怖政治──異端審問によって支配されていた。そして、このまるで豪華な芝居でもあるかのように飾り付けられた舞台は、『アウト・デ・フェ』のために誂えられたものである。


 アウト・デ・フェとは、この頃のスペインにおいては、宗教裁判にかけられ、異教徒・異端者として有罪となった人物の懺悔と悔恨の最後の場として設けられた儀式であった。それもこの時代には形骸化し、実際のところは殆ど処刑を執行するための前段階として扱われている。


 時刻は夜七時。既に太陽は西の彼方、山脈に姿を消した。しかし、広場は何百本ものろうそくで照らされ、まるで昼間のように明るく照らされていた。壇上に立つ青年の黒衣すら、オレンジ色の光で淡く輝いて見える。


「トレド異端審問所代表代理、レナト・エレーラ・ルイスの名において、アウト・デ・フェを開始する」


 青年──レナトは、静かに、だが確かにその言葉を発した。しんと静まり返る広場。そして、周囲の空気でさえも冷やしつくすような声音であった。人は彼のことをこう呼ぶ。氷の男と。


 アウト・デ・フェは既に結末も判決も決まっている罪人を周知させるためだけに存在している儀式である。行列の最後尾にいたラバの背中に積まれた荷物は全て、罪人の名と罪状、そして判決が書かれた書簡である。


 レナトは淡々とそれを読み上げる。最初に、猿轡をされた数人。彼らはキリスト教に改宗したと嘯き、裏ではイスラム教、もしくはユダヤ教の信仰する儀式を行っており、そして異教徒である罪を認めず、改宗の意志もないとして火刑を言い渡された者である。


 次に、このアウト・デ・フェまでの間に獄中死した者の名が読まれる。これらは肉体の代わりに肖像画と遺骨を火刑とされる。


 その次に、前述の集団と同じく改宗を嘯き他の教義を信仰していたが、悔恨の意志があり、改宗した者。これは炎を逆さに描いた服を着せられている集団である。この集団は慈悲のある処置として、絞首の後にその骨を火刑に処されることになっていた。


 最後に読まれるのは、手に何らかの罪の象徴を持った者たちの名である。彼らは改悛し、財産没収や厳しい労役に就くなどの軽い刑罰を与えられる者たちであった。


 今回の裁判では火刑が三名、絞首刑が一〇名、肖像画と遺骨の火刑が二四名、軽い刑罰が二〇名という、非常に大がかりなアウト・デ・フェとなった。読み上げ終わった頃にはレナトもくたくたで、横にいる司祭から飲み物を受け取り、がらがらになった喉を潤してから再度椅子に座った。


 翌朝にはこの会場が処刑場になる。舞台の裏には木製の大きな十字架や絞首台が隠してあるのだから。レナトが席を立てば、異端審問所の役人によってそれらが広場に組み立てられ、屍を晒す場として作り変えられる。今日のアウト・デ・フェの比ではない数の観覧人が集まることだろう。それらが座るための席造りも役人の仕事である。


幸い席のほうは既に誂えられており、このアウト・デ・フェを観覧するために集まったトレドの住人たちで埋まっている。だが、明日の処刑執行においては席はこれだけでは足りはしないだろう。この広場を見渡せる場所に住んでいる者にはいくら金を積んでもいいという酔狂な者もいる。


 レナトは小さくため息をついて飲み物を台に置き、壇上から降りた。ぐるりと見渡せば、まだ司祭は火刑を言い渡された者の傍ですすり泣いていた。司祭というのも損な役回りだ、とレナトは目を伏せた。彼らは今日まで凄惨な拷問を味わいながらも、教義を捨てなかった人物たちだ。今更泣きながら教えを説かれたところで、その言葉が胸に響くことは無いだろう。


 ならば最初から改宗したと嘘などつかなければ、こんなことにはならなかったのに。──愚かだ。レナトは小さく呟く。その声は微かなもので、秋のまだ熱い風に吹き攫われ、誰の耳にも届くことはなかった。


 

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