竜族取締機関―文月班― 一話(修正版)




 かつてこの地には、二種類の竜と呼ばれる種が棲んでいたのだという。


 一方の種は、ドラゴン。頭部に角、背には翼を生やす、大きな体躯を持つ存在。

 もう一方は龍と言い、こちらは、細長くしなやかな体躯を持つ存在だった。


 竜はそれぞれ、共に全身は鱗で覆われており、ドラゴンは蜥蜴のような、龍は蛇のような容姿をしていた。



 この二種の竜が昔、まだ国とも呼べない小さな土地に降り立った。そして、その地で暮らしていた民たちを先導し、国の土台を作ったのだ。

 彼らが、何の因果でそんなことをしたのかは定かではない。けれど史実上、ドラゴンと龍は互いに協力し合い、人々を導き、繁栄させ、最後には立派な国家を作った。――――これが、この『竜の国』のはじまりとされている。


 その恩恵に国民は、はじまりの二柱である竜を導きの神として崇めた。加えて、最初の二柱に引き寄せられるよう、住み着き始めた竜たちに対しても同様に。


 至って順風満帆だった。……それがある時、竜たちの間に亀裂が走った。

 理由は分からない。数多くの文献にも、その時のことは詳しく載っていないから。けれど、これだけは明確だ。


 その時からこの国は、国内で二つに分断する一途を辿る。


 西側をドラゴンの派閥が、東側を龍の派閥が治めることとなり、結果、当然ながら国は大混乱に陥った。いつしか、ドラゴンや龍と呼べる存在が国内にいなくなってからも、竜の血を受け継いでしまったが故か、両派の国民の間で諍いは絶えず。結果として、西と東の間では、長い内戦が続くこととなった。



 けれど、それがつい二百年ほど前のことだ。ある当主の娘と青年が起こした事件をきっかけに、長く続いていた派閥争いは終息に向かう。



 以来、政治だのなんだのは、両派の当主が話し合いの末、取り決めることになった。おかげで、今や両派の子供が隣り合った席に座る学校も設立されるくらいには、両派間の関係は、かつての頃に比べたら良好になった。――――国が、ようやく一つに纏まったのだ。


 実に良いことだ、平和万歳。……まぁ、などとは言っていられないのが実際の所なのだが。


 人生なんて、そう簡単に上手くいきはしない。それが現実だ。平気で争いは起こるし、簡単に人も死ぬ。いつの時代でも、それが真理だ。


 そう、そんなことは、痛いほど分かっている。




***




「――――兄さん、そんなにゆっくりしてたら遅れるよ」

「ん……おお?」


 不意に掛けられた声に視線を上げれば、机上の時計が示す時刻が目に映る。


 午前七時二十五分。いつもの出勤時間の十分前だ。まだ片付けが途中だというのに、ぼんやりしていたら遅刻してしまう。


「ああなんだ、もうこんな時間か。悪いそら、ぼーっとしてた」

「……なに、考え事?」


 いつもなら仕事にはシビアな自分が、出勤前にそうやってぼんやりしていたものだから気になったのだろう。日常的に口数の少ない弟からそう問われ、俺は咄嗟に首を振った。


「ああいや、大丈夫。多分、最近少し忙しくなってきたから、疲れかな? でも全然平気」

「……ふぅん。それなら良いけど」


 そう返した自分の言葉に、空はそう素っ気なく返事はしたものの、やはり気になるのだろう。じとりとした探るような視線が痛い。本当になんともないのだが、流石にぼんやりしていた手前信じろという方が難しいのかもしれない。


 けれど、その視線の裏に、確かに感じる温かい思いに気付いているから。俺の表情は、自然とふわりと和らぐ。


「ありがとな、心配してくれて」


 くしゃり、と、自分の髪質と違ってさらさらの頭を撫でてやれば、空は少し煩わしそうに、心配なんてしてないと抗議の声を漏らした。素直じゃないその言葉に、また頬が緩む。


 心優しい弟がいてくれて、俺は幸せ者だな。


「ほら、お前もそろそろ家出る時間だろ。片付けはやっておくから、早く学校行ってこい」

「……はぁ、分かった」


 はっきりそう言ってしまうと機嫌を損ねてしまう為、その言葉は胸に秘めそれだけを告げる。すると、途端空は嫌そうに顔を顰めたものの、次の瞬間には素直に席を立ち、鞄を手に取った。

 その背を見送りながら、ふと思い出したことがあって、空へ声を掛ける。


「ああそうだ、今日は多分早く帰って来れるから、空の好きな物作るよ。何が良い?」


 尋ねながら、まぁ大体予想が付くけど、なんて思う。

 すると空は、ピタリと動きを止め、少しだけ口をまごつかせた。それから数秒の間を置いた後、くるりと背を向け、ぼそりと小さく呟いた。


「あの、手羽先の……なんか甘辛いやつ」


 あれがいい。そう続けられた、やっぱり予想通りの回答に、ニッと笑みを浮かべて大きく頷き返す。


「りょーかい。じゃ、いってらっしゃい」

「……ん」


 そうしてそのまま俺は、改めて弟の背中を見送った。

 さて、と声が口から溢れ出る。


「俺も、ちゃっちゃと用意しないとな」


 一人となった部屋の中で俺は、ふぅ、と息を吐き出し、すぐに後片付けに取り掛かった。





 ここは、龍とドラゴン、二組の当主たちによって治世される君主国、竜の国。建国の歴史は古く、おかげで建国当初は、いろいろ……本当にいろいろあったらしいけれど、ここ二百年ほど前からは比較的平和な国家だ。


 とはいえ、そうは言ってもここは、同じ国民同士で長く対立し合っていた国。なので、いくら平和になったといえど、他所の国とほんの少し比較しただけでも、この国が小競り合いの絶えない国であることは一目瞭然。


 だからこそ、国内がもっと平和で安全になるよう、二百年前の当時、国を治めていた二組の当主は、こんな状態が長く続かないようにと、立ち上がった。


 ――――そうして設立されたのが、『竜族取締機関』。竜の力を受け継いだ、『竜の系譜者』たちを統括する、この国の砦にして最重要機関。そこが、俺の職場だ。





 食べ終わった朝食の食器を片付け終えたあと、俺は捲っていた袖を元に戻し、椅子の背に掛けていた上着を持ち上げた。瞬間、チャリ、と金属の擦れる音が耳に届き、慌てて机と椅子の両方に触れる。けれど、その手触りからは不自然な凹凸は感じられず、それに思わずほっと安堵の息を漏らす。


 この制服、毎回どこかしらを引っ掛けちゃうから、すぐに机とか傷付けるんだよなぁ。そんなことを思いながら、さっと上着に袖を通す。


 黒を基調とした、少し堅苦しさを感じさせる、取締機関の制服。これを着ると、自然と背筋が伸びる心地がするから、個人的には気に入っているのだが……。如何せん、普段使いしている服とは勝手が異なるから、よく壁や物に傷を付けてしまう。


 もっと気を付けないと、なんてことを考えながらさっと身形を整え、俺は荷物を手に取って、急いで玄関へと向かった。


 モタモタしていると、本当に遅刻してしまう。それだけは避けないとと、俺は玄関のノブに手を掛け、後ろを振り返った。


「――――いってきます」


 しんと静まり返った室内に、自分の声だけが反響する。もう、ここには自分しかいないのだから、そもそも言う必要はないのに……それでもそう口にしてしまうのは、もはや習慣が故なのだろう。


 挨拶は大事にするべきだと、昔言われたことを思い出しながら、俺はそっと家を後にした。




***




「おはようございます、副長」


 機関に着き、自身の職務室へと続く廊下を進み、目的地である『文月』と文言が掲げられた一室の扉を開ける。すると、すぐに室内から挨拶が飛んできて、俺は咄嗟に声のした方へと目線を向けた。


「あ、おはようございます、瑠璃るりさん」


 視界に映り込んだのは、まるで背中に定規でも入ってるんじゃないか、そう思わせるくらい姿勢の良い男性、瑠璃さんだ。神経質そうに眼鏡を中指で押し上げる彼は、千草の先輩にして、実は部下でもあったりする。


 そのまま挨拶を返しながら彼の机の前を通れば、今日もまた瑠璃さんが、既に業務の準備を終えている事に気が付いた。なんなら、今にも仕事を始めてしまいそうだ。


「本当、いつも早いですね、瑠璃さんは……。まだ始業時間まで全然ありますよ?」


 それまではゆっくりしてくれてていいのに。そう言いかけた言葉は、けれど当の瑠璃さん本人によって遮られる。


「いえ、準備は早いに越したことはないですから」


 無駄は嫌いなんです、そう、スパン、と真顔で言い返されてしまえば、もう何も言えず。笑みを浮かべていた口角が、思わず引き攣る。


「うっ……た、確かに、その通りです……」


 まったく取り付く島もない言葉。それを、レンズ越しとはいえ、一切の容赦もない鋭利さを孕ませた瞳で言われてしまえば、もうそれ以上は何も言葉に出ず。俺は一つ、いつも助かります、とだけ零してその場を後にした。


 本音としては、瑠璃さんとはもう少し打ち解けたい……なんて考えてはいるのだけれど。そもそも瑠璃さんは、普段から人を必要以上に寄せ付けようとしないから、いつも上手くいった試しがない。


 今日も駄目だったか、なんて内心項垂れていると、ゆらりとした影が、自分に近付いてくるのに気が付いた。


「副長~……」


 視界に鮮やかな橙色が映り込み、次いで、情けない声が飛んでくる。すぐにパッと視線を移せば、奥の机からのったりと一人の部下が近寄ってきた。


「昨日の報告書できたんで、後でまた読んでください~」


 見るからにヨレヨレで、草臥れた様子のその男は、我が班の特攻隊長、山吹やまぶきだ。

 その姿に、俺は思わずギョッとする。


「おっまえ、これはまた随分と隈が酷いな……。また徹夜したのか?」

「はい〜……」


 普段であれば、この男は、太陽にも負けず劣らない底抜けの明るさを持っているというのに。しぱしぱと瞬きを繰り返す黄金色の目には、宿る生気が希薄で、おかげでその影は微塵もない。


「お前は……いくら報告書が苦手だからって、何も徹夜してまで仕上げなくていいんだぞ? いつも言ってるだろ」


 そんな姿に、咄嗟に『この仕事は身体が資本なんだから』、そう進言してやれば、なんとも覇気のない声ですみませんと謝罪が返ってきた。

 いや、別に謝って欲しかったわけではないんだが……そう思いつつ、流石にこの状態のまま業務をさせるわけにはいかないと、すぐに奥の扉を指し示す。


「分かったから、報告書には目を通しておくから、お前は奥で仮眠してこい」


 この職務室の隣には、備え付けの仮眠室がある。そこへ行くようにと山吹に促せば、本人は『そんなわけには……』と首を振って拒否しようとした。けれど、そこにすぐ被せるよう、後ろから『山吹』と声が掛かった。


「副長の言う通りだ」


 そうして、山吹の背後から現れたのは、山吹とまったく同じ顔をした青年だった。視界に映り込む、橙色の鮮やかな髪。山吹と違うのは、右目の下にある黒子と、錫色の少し吊り目がかった双眸だけ。


しろがね


 俺が彼の名前を口にすると、銀は一つ俺に向けて挨拶を口にした後、すぐに山吹の方へと向き直った。


「ほら、お前の好きなハーブティー入れてやったから。副長の言葉に甘えて、これ飲んで少しだけ休め」


 彼はそう言って、握っていたマグカップを山吹へと差し出した。


 銀は、山吹の双子の兄弟だ。彼もまた、我が班の班員の一人である。普段から陽気な性質の片割れを時に嗜め、時に支える、非常に頼りになる俺の部下だ。


 そんな銀の言葉に、山吹はひどく申し訳なさそうに、くしゃりと目元を歪ませた。


「うぅ……しろがね、ありがとう~……。ふくちょーも、ありがとうございます……」

「はいはい、分かったから早く隣行ってこい。必要になったら仕事してもらうから、気にせずにな」


 そう声をかけながら、俺は、しおしおと今にも萎れてしまいそうな山吹の頭を、弟にしたようにくしゃりと撫でてやる。


 自分よりは年下だからといって、既に成人している男にしてみれば、こんな子供のような扱いは嫌がるのが道理なのだろうが……。そこは山吹クオリティ。結果、眼下に映り込んだのは、へにゃりと情けない、けれど嬉しそうな顔で。おかげで、思わず此方も頬が緩んでしまった。……流石は、人を和ませる術トップクラスの男だ、末恐ろしい。


 このままだと、益々自分の気持ちが緩んでしまう。そう思い、気を取り直した俺は、すぐに『ああそれと』と付け足した。


「銀、お前も軽く寝てきていいぞ」


 そうして、山吹を引率するよう、その手を掴んでいた銀にも続けてやれば、その双眸が驚いた様子で緩く瞠った。


「えっ……?」


 どうして。正にそう言わんとするその顔に、自然、俺の口からはため息が零れ落ちた。


「なんだ、その顔は……。気付いてないと思ったのか? どうせお前も、山吹に付き合ってあんまり寝てないんだろ。顔を見れば分かる」


 だから一緒に寝てこい。そうはっきりと告げてやる。

 すると銀は、こちらの言葉を咀嚼するのに時間がかかったのか、一拍の間を置いた後、すぐにハッとした様子でいや、と首を振った。


「……った、確かに、山吹には付き添っていましたが! 一番若輩者の分際で、副長や皆にご迷惑は……!」


 そうして紡がれた否の言葉に、やっぱそうなるか、と心の内で思う。山吹が非常に素直な気質のせいか、その片割れである銀は一人で抱え込みがちで、加えてかなり頑固だ。真面目がすぎる嫌いがあるからか、相手が山吹でもない限りまったく折れてはくれない。


 こうなったらもう、無理矢理にでも休ませてしまうほうが早いか……。そんなことを思いながら、『いいから……』そう言い掛けた、その時。


「――――副長はともかくとして、今日の事務仕事であれば、俺がいれば事足りるでしょう」


 不意に後ろから、凛とした低い声が自分の声に重なったものだから、俺は咄嗟に口を噤んだ。


 パッと振り返れば、先程まで黙々と作業を進めていたはずの瑠璃さんが、目線はこちらに向けず、ふぅ、と息を吐いていた。


「……瑠璃さん」


 銀も、まさか、瑠璃さんから声が掛かるとは思ってなかったのか、驚いた様子で彼の名を口にする。すると、その一瞬だけ、レンズ越しに紺碧の瞳が銀を捉えた。


「だから、……気にせず休みなさい」


 そう告げるや、すぐに逸らされた視線。以降は、まったくこちらに一瞥もくれないけれど……。それでも、その言葉の端々に、彼の不器用ながらの優しさを確かに感じて、思わず頬が緩んだ。


 ――――やっぱり、瑠璃さんって仕事に関しては怖いけど、悪い人じゃないんだよなぁ。


 だからこそ、もう少し歩み寄りたいんだけど……。なんて思っていると、そんなこちらの考えを読んだのか、途端瑠璃さんは徐に眉間に皺を刻み、『なにか?』なんて威圧的に訊ねてきて。すぐさま、俺はなんでもないですと首を横に振った。


 挨拶を交わした時以上に鋭い、眼鏡の向こうから向けられる刺々した視線に、背中に冷や汗が流れる。


「あ、あー、ほら、な? 瑠璃さんもこう言ってることだし、休んでこい。それに、忙しくなったら遠慮なく起こさせてもらうしさ」


 不機嫌オーラ全開の瑠璃さんを視界から外し、俺は銀へと向き直り、改めて仮眠室へと先を促した。すると、流石にここまで言われてしまえば、銀も断ることはできないと理解したのか、ほんの少しはにかんだような笑みを浮かべた。


「……分かりました。それじゃあ、お言葉に甘えて……ありがとうございます」

「はい~……お二人とも、ありがとうございます~……」


 鶴の一声ならぬ、瑠璃さんの一声である。


 そのまま、奥の扉の奥に消えていく二つの背中を見つめながら、俺は『まったく、本当に手の掛かる双子だ』なんてぼやく。すると、『そうですね』と、瑠璃さんもそれについては同意を示すよう呟いたものだから、少しだけ驚いた。


 もしやこれは、親密度を上げるチャンスか……? 不意に頭に過ったそれに、ならば会話を繋げようと、口を開きかけた時。


「ですがまぁ……手の掛かる子供というのは、双子に限った話ではないですがね」


 そんな言葉を、瑠璃さんがぽつりと零したものだから、え、と声が溢れる。


「それって、どういう……?」


 何かを言い含めるような、そんな言葉。その真意を聞き出そうと、続きを促しはしたものの、それから瑠璃さんはしれっとした表情で作業を再開し始めてしまい、最後は此方に見向きもしなくなってしまった。


 案外調子の良い人だなぁ……なんて思っていると、不意に扉の方から、笑い声の混じった声が聞こえ、咄嗟に顔を上げる。

 そのまま、声のした方へと視線を向ければ、此方を見つめる淡い桃色の瞳とかち合った。


「っあ、……!」


 そこにいたのは、さらりと艶のある綺麗な長髪を揺らし、ふわふわと人の好い笑顔を浮かべる見慣れた姿。自分と同じ班に所属してる一人、ときさんだった。


「鴇さん!」

「ふふふっ。相変わらず、君たちはいい子だねぇ」


 まさか、彼がそんなところにいるとは思わず、咄嗟ながら挨拶を口にする。すると、鴇さんもまた『うん、おはよう』と柔和な笑みで返してくれた。


 そのまま彼は、カラン、と軽やかな音を立たせて、執務室へと足を一歩踏み入れた。下駄、というらしいその履き物は、この人の故郷である東部地方ではよくある物だそうだ。和装という、彼が身に纏う珍しい衣服と相まって、彼の周りには独特な雰囲気が醸し出される。


 けれど、話しかけづらいとか、そんなことは一切感じないのがこの人の不思議な所だ。


「うぅ〜、見てたんなら声をかけて下さいよ……」


 俺の言葉に、鴇さんはごめんごめんと言いながら、ころころと笑った。その、あまり反省した様子のない表情に、少し遣る瀬なさを感じたものの、とはいえそれもいつものことかと息を吐く。


「……おはようございます」


 すると、瑠璃さんもまた、一拍遅れて挨拶を口にした。仏頂面を浮かべる瑠璃に対し、けれど鴇は、なおも柔らかい笑顔のままだった。


「うん、おはよう。……ん、ああ、ごめんね。思いの外ゆっくりしてしまった。時間ギリギリだったね」


 そうやって、鴇の醸し出す空気の力で緩んでいると、不意に彼がそう呟いた。彼の視線を追うよう、中央に掛けられた時計に目を向けると、確かに、始業時刻まではあと十分といったところ。普段の鴇さんにしてみると、少しだけ遅い出勤だ。


 けれど俺は、そんな鴇さんに対し、すぐに大丈夫ですよと首を振った。


「今日は見回りとかじゃないですから、全然支障はないです」

「そうかい? それなら良かった」


 そうして向けられた、安心した様子で笑う鴇さんの姿に、再度ほっこりと胸が温まるのを感じた。ああ本当、この人と話していると安心する。


 ……けれどその時。不意に鴇さんが、ああそういえば、と何かを思い出した様子で手を叩いたことで、状況は一変した。


「どうしました?」


 首を傾げ、続きを促せば、鴇さんはうんと一度頷き口を開いた。


「うん、実はね千草くん。ついさっき、ここに来る途中、君に伝言を頼まれたんだ」

「……え、」


 そうして和んだのも束の間。鴇さんから告げられた言葉に、俺はなんとなく嫌な予感がして、瞬間、緩んだ気持ちが急速に強張った。


 なんていったって、この職場に着いた早々の朝方の伝言、となると……悲しきかな、経験則から行き着く答えは、毎回決まって一つなのだ。


「霜月班の整備員の人がね、文月班の班長が整備室に迷い込んで困っているから、連れてってくれって。どうやら、今日は反対方向に行っちゃったみたい」


 そうして続けられた内容に、俺はやっぱりか、と頭が痛くなった。

 そんな中、隣では呆れた様子のため息が落とされる。


「整備室……相変わらず、班長の迷い癖は困り物ですね。副長、もうすぐ始業時間ですので、早急にお戻りを」


 方や柔らかな笑顔に、方や気にする素振りもない冷たいお言葉。相反する表情ではあるものの、二人とも自分が出迎えに行くつもりは更々ないんだろう。そう、こちらに指示をするばかりだ。


 そんな二人に挟まれながら、俺は……頭を抱えはしたものの、最後にはふう、と一つ大きく息を吐き出し、静かに分かりましたと零した。


「彼奴のお守りも、俺の仕事ですから。迎えに行ってきます」

「うん、いってらっしゃい」


 笑顔だというのに、どことなく無慈悲なその見送りに、俺は乾いた笑いを零す。こういう時ばかりは、毎回、自分の役職って一体なんだったっけ……なんて思う。


 俺、一応ここの副長なんだけどな……。けれど、悲しきかな。連れ戻してくれと告げられた人物が人物なだけに、適任であるのは俺なのだ。であれば、行かざるを得ない。


 なにせ、相手は学生来の幼馴染だ。きっと彼奴の扱いに関していえば、自分が、班員の中に限らずこの機関中全ての職員の中で、誰よりも熟知していると我ながら理解している。



 ――――とはいえ、だからこそ、厄介極まりないのだけれど……。



 扉を開け、廊下へと足を踏み出したその時、思う。


 ふと、胸の奥にせり上がってきた感情。どろりとまとわりつくような、お世辞にも綺麗とは言えない気持ち。だというのに、どこか仄暗い愉悦を孕ませたそれを……それの名前を、俺は知っている。


「……執着心とか、独占欲とか。薄い方だと思ってたんだけどな、俺」


 誰に聴かせるでもない、そんな声をぽつり、落とした後、俺は職務室を後にした。



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