04





「殺してやりたい」

 と思った。思ったけれども、この殺意をどこに向ければ良いのか、わからなかった。手がかりがなかった。相手に心当たりはない、と言い切られてしまったので、それ以上を聞き出すことができなかった。黒々とした、鬱屈とした嫌な塊が喉元まで迫ってくるような思いがした。研究をしていても、アルバイトをしていても、その何かは離れない。怒りとよく似ているが、等しくはない。言葉として当てはめるならば、失望や徒労の感覚と近い。しかし一体何に失望しているのか、呆然としているのか。めるろが傷つけられたこと? めるろが汚されてしまったこと? こんなにも容易く一人の人間の世界を閉じてしまうほどの、人間の、男という性の、暴力性が露見したこと? わからなかった。

 めるろは、もう図書館には行かない。本も読まなくなった。部屋の隅で膝を抱えて座っているだけだ。そうして、ぼんやりと、家の中を見渡しているだけだ。恩田がコーヒーを淹れる時のみ、立ち上がって、そばで動作を見守っている。おはよう、めるろちゃん。お腹すいたね。これ食べる? そんな日常的な会話はするけれども、それ以上はしない。小さな女の子にでもなってしまったかのように、めるろは爪を噛みながら、「うん」と恩田の声に応えた。

 めるろのそばにいることが増えた。もちろんめるろの様子を見て、そうしなければいけない、というのもあった。しかしかえって恩田の方が、めるろを必要としているように、恩田には思われた。何を、めるろに求めているのか、自分に何が欠乏しているのか、わからなかった。しかし、めるろをそばに置いておかなければと思った。強く、そう思った。

 アルバイトが終わった後に、彼女を膝に乗せてぼんやりしていると、体重がとても軽いことに気がつくのだった。知らなかった。この女のまつ毛が、重力に従って、すだれのように伸びていること。瞬きをすると、上質な傘を畳む時のように、大きな弧を描くこと。形の良い唇はきっぱりと結ばれていて、時々のぞく前歯の形がとても小さいこと……。しみじみと見ていると、本当に美しい女だった。魂が投げだされた女の身体とは、こんなにも美しいものなのか。恩田は思い、一瞬でもそう感じてしまった自分を慌てて戒めた。めるろの細い腰を抱いて、彼女の眺める窓の外へ目を向ける。何も話さなかった。外はどっぷりと夜に浸かっている。

「おれは、めるろちゃんのことを何もわかっていなかったようだよ」

 そう言うと、めるろは振り向き、恩田の目を見つめ、微笑んだ。それ以上何も言わなかった。恩田はめるろを抱く力を強めた。

「軽いなあ」

 話さなくなった代わりに、めるろはよく食べた。なんでも口にした。恩田の買ってきたピザを、手作りしたハンバーグを、あんなにも嫌がっていたチェーン店の牛丼を、出店で売られた駄菓子を、回転寿司を、飴玉を、なんでも、次々に食べた。まるで何かを取り戻すかのように、物凄い勢いで食べ始めるのだった。彼女が狂ったように食べ物を摂取するたびに、恩田はあっけに取られてそれを見るのだった。こんな小さな身体に、どうしたってそのような量が入るのだろう。彼女はこれから、とんでもなく大きくなってしまうかもしれない。巨人のように大きくなるかもしれない。その時自分はどうすればいいのだろうか。めるろを動かすのも大変になってくるだろうし、健康の視点から見ても……。恩田は心配になって、彼女が食べるのを見つめた。めるろはそんな心配などお構いなし、というふうに、憮然とした顔で食べ続けた。

 寝る時も、彼女は恩田のそばに横たわり、彼の性器を頬に当て、よく眠った。恩田の勃起が治まると、手持ち無沙汰になったように、右に折れ曲がったそれをつまんだり離したりして遊んだ。いつか噛みちぎられるかもしれない。そんな思いに駆られ、ヒヤヒヤとしていたが、めるろはただその匂いを嗅いだり、それに頬擦りしたりするだけで、他には何もしなかった。恩田が射精すると、自らティッシュペーパーを使って彼の腹周りを拭き取り、もう一度しっかりと頬に固定し、眠りにつく。されるがままになっている恩田も、ときおりは彼女の服をめくり、形の良い乳房に触れたり、湿ったパンティの下を指で広げたりした。だが、今のふたりはちょうど子供が医者のまねをするように、お互いの身体を見て、相違点をそっと確認するだけに過ぎなかった。彼女の丸みをおびた乳房が重力にしたがって、衣服からまろびでているのを見ると、恩田はなんだか泣きたくなって、その重さを手のひらで感じるのだった。この女は生きている。この女はどこまでも存在している。それなのに。ちゃんとここにいるのに。どうしてかここにいないような気がしてくる。恩田がすすり泣くと、めるろはゆったりと彼を抱え込み、乳首を口に含ませた。めるろの汗と乳輪の匂いが混じって、恩田はまた泣きたくなる。そういうことを繰り返して、季節が巡ろうとしていた。

 一緒に暮らしてはいても、植物のように静かに息をしていたものだったから、少し出かけてくる、とめるろが言ったとき、恩田は驚いて顔を見上げた。

「どこに?」

 そう尋ねると、めるろは「お金を払いに行かなきゃならない」と言った。買い物をした際に、カードで引き落としがされなかったから、コンビニで払うことにするのだと。

「おれも一緒にいくよ」

「いいよ。恩田、執筆あるんでしょ。アイス買ってきてあげる」

「でも、もう暗いし」

「一人で行けるから」

 「一人で行く」めるろがやはり憮然とした表情でそう繰り返すので、恩田も黙るしかなかった。十月に入ったと言うのに、空気がベタベタとしてまとわりつくようだった。めるろと関係を持ってから、ずっと暑い。そんなわけないのに、そう思わずにはいられない。ずっと、モヤモヤとしている。満ち足りているのに、何かを忘れているような、思い出せないような。恩田はいつもそんな思いがするのだった。室内にいるのにもかかわらず、めるろは汗をかいていた。奇妙に思ってエアコンの温度を確認するが、数値が高く設定されているわけではなかった。「バナナ味のアイス食べたいなあ」めるろはそう呟きながら、恩田のキャップを深く被った。

「気をつけて行きなよ、めるろちゃん」

「うん、まかせて」

 二階建てのアパートから、暗闇に溶けていく、めるろの小さな背中を見た。窓を開けると生ぬるい風が吹いてきて、同時にいやな予感がした。これでめるろを見るのが最後になってしまうような、何か重大な事件を目撃する予兆のような、いやな予感がした。めるろが汗をかいていたのも、予兆の一つであるような気がした。恩田は少し待って、めるろの後を追った。

 思えば、恋人に、いやそれを超えて、他者にここまで深く入り込むことは、恩田にとって初めての経験だった。自分が変わり者だと言うことは自覚していた。幼い頃から学校という空間には馴染めなかったし、居心地の悪い空間に自らの身体が存在するのが気味が悪くて、何度も何度も手を洗っては、同級生から気持ちの悪い人間だとからかわれていた。中学生になると、数学の計算をするのが何よりも楽しくなった。恩田にとって数学は、小学校の系譜から有機的に結びついていたため、それらが数理哲学への興味へと変化するのには、時間はかからなかった。数学はアプリオリ的に、身体や現実に先んじて論じられるものか。いや数学的な思考はあくまでも身体の派生物であるのか。考えるのが楽しくて仕方がなかった。どちらの思考にも揺れ動いた。この揺れ動く思考自体も、恩田には新鮮で面白く思えた。大学に入って、好きだと思える恋人ができた。初めての理解者だった。美しくはないけれども、文学を愛する人だった。多くの作品を教えてもらった。吸収することが楽しかった。知識が愛しかった。彼女の身体に携えている果実のような知識を全て、手に入れたかった。そうすることで彼女を知ろうとして行った。しかし、彼女はすぐに恩田から離れて行った。「食べられてしまいそうだもの」と残して。「あなたがいい人なのは分かっている。でもこのままでは私が無くなってしまう心持ちがする」。

「あたしはなーんにも、持っていないよう」

 めるろはそう言って舌を出したものだった。あたしねえ、あんたみたいに数学もできなければ、あんたの元カノみたいな知識もない。漢字も書けないし、掛け算も危ういよ。総理大臣の名前も知らない。なぜ? 恩田は尋ねる。なぜ持とうとしないの。持とうとすれば持てるような人じゃないか。すると、彼女はいうのだった。何にも持ちたくないのよ。何かを持っていると言うのはしんどいから。大切なものがどんどんこぼれていきそうな気がするから。でも何にも持っていない人に、みんな、厳しいのよね。

 めるろが何も持っていない、とは思っていなかった。むしろ、何もないゆえに、全てを持っているような思いがした。だからめるろに恋人になろうと誘われた時、身体が燃え上がるような喜びを覚えた。自身の知的好奇心が満たされる瞬間のように、めるろという女の身体がそこに在るだけで、新しかった。愛しかった。数学も、文学も、知ろうとしない、必要としない女がどのように生きているのか。何を思い、何に心を痛め、何を愛そうとするのか。何に価値を置き、どこに救いを見出そうとするのか。恩田にとってはめるろの身体そのものが哲学であった。哲学など、文学など、必要のなかったのだ。だって彼女は学問そのものであったのだから。

 コンビニの酒棚に隠れてめるろを覗くと、彼女は二人分のカップアイスと一緒に、自身の払込票を提示しようとしていた。恩田はほっとしてその姿を見守った。しかし、めるろはなかなか動かなかった。不器用なめるろは、払込に必要な三万円の札を揃えて入れることができず、なかなか自動レジに反映されないようだった。

「そんなんじゃ全然だめだよ、もうやるから貸して」

 店員に大きな声で言われているのを、恩田は聞いた。一瞬しんとして時間が止まったように思えたが、恩田の気のせいだったのだろう。気づいたときにはめるろは大声をあげて、わあわあ泣き出してしまっていた。店内がめるろに注目するのも構わず、めるろは札を丸めて、払込書も破いて床に放り投げた。

「みんながあたしをバカにするんだ、あたしだって好きでバカなわけじゃないのに、みんながあたしをいいように使うんだ」

 恩田は素早くめるろの腰を抱くと、自身の財布から代金を取り出し、支払いを済ませた。転がったゴミやアイスを袋に入れ、集まる視線をこめかみの当たりに受けながら、外に出た。喉元が熱くなって、あの塊が再び込み上げてくる思いがした。この地を離れなければいけない、と思った。俺たちはもうここに住むことができない。この場所は、永遠にめるろを縛りつけるだろう。俺たちはもうここに存在することができない。

「おしっこしたいよ」

 歩きながら、めるろが言った。ぐずぐずと鼻をすすっていたせいか、めるろの顔は赤かった。恩田は困ったようにあたりを見渡したが、用を足せるような場所はなかった。もう少しで家だから、我慢できるか。めるろは首を横に振って

「公園でできるよ」

 と言った。ぎくりとした。恩田にとっても避けるべき場所になっていたからだ。ただ、「どこの公園?」そう返さないわけには行かなかった。

「いつもの公園、通りの」とめるろはなんの含みもなさそうに、のんびりとそう答えた。


 めるろが犯された場所は、何事もなかったかのように、しんとしてそこにあった。元々小さな公園で、汚れた、少ない遊具しかなかったものだから、普段から子供もいなかった。黄色に染まりつつある木々の葉が、音をたてて風に吹かれていた。改めて月日が流れているのを、恩田は感じた。この木も、きちんとここに存在している。姿を変えながらも、それは昔と同じものだ。

「ここでやられたんだよ」

 めるろは言って、その場にしゃがんだ。恩田もしゃがみ込む。柔らかい土だった。

「パンツ、ないなあ」

「パンツ?」

「パンツ。埋めたのにないの。汚くなったから、精液がついたから埋めたの」

 めるろはそう呟いた。返す言葉もなかった。ただめるろがこのように、具体的な言葉で説明することで乗り越えようとしていることは、痛いほど理解ができた。恩田は唇を結んだ。

「ここでするから向こう向いていて」

「うん」

 よそを向いた恩田は、雲間から月が出てきているのに気がついた。日が短くなっているのだった。まだ十八時だというのに、十五夜を過ぎた月が、どっしりとそこに浮かんでいた。影の模様まではっきり見えた。背後でめるろのさやさやとした尿の音を聞く。匂いもない。けれども長く、長く続く。聞きながら、この女の身体に、以前のように出入りすることは不可能だろう、と思った。この女はもう幼くなってしまった。あまりにも無防備になってしまった。もともとこの女はセックスが好きではなかったが、近頃は積極的に身体を重ねたものだった。事件があって、子供に戻ることで、彼女は身を守っている。自我を守っている。そこまで考えて恩田は罪悪感でいっぱいになる。問題を突き詰めることは好きだ。しかし、子供になった女とのセックスを突き詰めるほど、自分は醜悪ではない……。

「おしっこしました」

 めるろが木の根元を指さして真面目にいうので、恩田は笑った。

「花が咲いてくるかもしれないね」

 そう返すと、めるろは真面目な顔で頷いた。帰ろうか、とめるろの手を取ると、彼女はぽつりと呟いた。

「それもまた生きて、存在していくのよ」

 その瞬間、電流のような衝撃が走った。身体の力が抜けていくのがわかった。。手を繋いだまま、彼女の細い膝を凝視する。全て理解できたのだった。“これ”こそが自分に足りないものだった。“これ”を見るのをおれはずっと怖がっていた。ずっとこの女のことが知りたかった。この女の痛みを知りたかった。この女が何に苦しんでいるのか、わかりたかった。少しでも和らげてやりたくて、寄り添おうとしていた。

 でも、違う。

 論文にかまけて、自分のことしか考えられなかったこと。めるろのいてほしい時に、いることができなかったこと。そんな自分が悔しくて、苦しかった。痛かった。どうしようもなく、情けなかった。死んでしまいたいほど、情けなかった。言うまでもなく、めるろの痛みこそが、恩田の痛みと直結していた。

 おれはめるろの痛みを、遠くから見ていた。ほんとうは、この痛みはおれのものでもあったのに。おれはこれを受け止めて、一緒に向き合っていかなければならなかったのに。それを見ないようにして、めるろ一人に痛みを押し付けて、安全な場所から保護する役割を引き受けていた……。

 めるろの苦しみは、おれ自身の苦しみでもあったのに。


「……めるろちゃん、おれたち、引っ越そう。別のところで暮らそう。おれはしばらく働くし、めるろちゃんはしばらく休んでいよう。新しい町で暮らそう。誰もおれたちのことを知らないところに行こう」

 めるろは黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。それはまるで啓示のように、気高い詩ように、恩田の耳に入っていった。

「水の近くがいいと思うの」

 そうしよう。恩田は言った。


 帰り際、放尿された木の根本を、もう一度見つめた。めるろが排尿したあたりが、しっとりと黒く染まっていた。

 恩田はもう振り返らずに、彼女の右手を握って進み出した。

 



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