遣らずの雨

やなぎ怜

前編

「あれ? 木津きづ、どこ?」


 大学からの帰り道。運悪く雨に降られてあわてて小さな神社の境内に駆け込んだ。


 白と青のボーダーTシャツの表面から水滴を振り落とすように触って、次いでうしろで結んだ髪の房に触れる。それほど濡れてはいなかったことを確認したものの、しかしあとはマンションに帰るだけだったので、そう心配することでもないと思い直す。


 雨宿りに拝借している本殿のひさしから水滴が絶えず垂れ落ちて行くのを見やってから、きょろきょろと周囲を見回す。


 いっしょに神社に駆け込んだはずの木津がいない。


「木津ー?」


 再度名前を呼んでみれば、本殿の陰から彼の声が返ってくる。次第に激しくなって、屋根瓦にぶつかる雨音にかき消されそうなほど、木津の声は小さかった。


「なんでそんなところにいるの?」

「……下着……透けてる」

「えっ、うっそ!?」


 思わず背中に手をやるが、もちろん手に目玉はついていないから見ることは叶わない。けれども盛夏と、生来からの怠惰さを発揮して今日はキャミソールを着なかったことは事実であったので、ものぐさな数時間前の自分を呪った。


 恥ずかしさに思わずうろうろと歩きたくなるが、雨脚は強くなるばかりで、本殿の扉に身を寄せなければ、吹き込んでくる雨粒でたちまち濡れ鼠になってしまいそうだった。


「はあ……なんか、ここのところツイてないなあ」


 暗雲垂れ込む空を見ながらため息をついて、思わずそんなことを口にしていた。


「そうなの?」

「うん。ここのところっていうか……大学に進学してから? 地味に?」

「地味に」


 くすくすと木津が笑う声が聞こえたような気がした。


「そう、地味に。なーんかおかしいなあって」

「どうおかしいと思ってるの?」

「うーん……なんかさ、ひとつひとつはささいなことなんだけど。なんかぜんぜん男と縁がなくなっちゃったなあとか……変な夢ばっかり見るなあ、とか……」


 わたしが通う大学は女子大ではないから、普通に異性と知り合うことはあるはずなのだが、とんと縁がない。高校は女子高だったので、大学へ進学すれば彼氏ができるかもと期待をしていたのだが、それは今のところ見事に外れてしまっている。


「なんかさ、『川端かわばたって怖い』らしいよ。生きてて初めて言われた」


 友人から又聞きしたその言葉は、正直に言えば結構ショッキングなものだった。「顔が怖いってこと?」と友人に聞いたものの、彼女もなぜわたしがそのような評価をされたのかわからないらしく、首をひねられた。


 わたしは別に美女ではないし、可愛い系でもない。けれど目をそむけたくなるほどの恐ろしい容姿でもないはずだ。……そのはずなのだが、近頃の「怖い」という評価を聞くと、なんとはなしに不安にはなってくる。


「別に、真衣まいは怖くないよ」

「ホントー? そうだと思うんだけどさ、これだけ『怖い怖い』って言われると自信なくしちゃうよ」


 木津は男だが、別にわたしのことは怖くないようだ。その事実に、ほっと安堵する。


 けれども、じゃあ、他のひとの言う「怖い」にはどういった意味合いが含まれているのだろうかと気にはなる。態度が怖いというのには当てはまらないはずだ。わたしはどちらかと言えば引っ込み思案なタイプであるわけだし。


 なにがどう「怖い」のか。今度友人を介して聞き出してもらうのもいいかもしれないと思った。今は大学に入ったばかりだが、「怖い」と言われるような要素があるのであれば、就職活動にも差し障りがありそうだし。


「おまけに夢見も悪いし」

「……ああ」


 わたしの話を思い出したのか、木津が「あれね」というような調子の声を出した。


 わたしが立て続けに見ている悪夢の話は、結構ほうぼうで相談したりしていたので、木津が知っているのは別段おかしいことではないだろう。


 悪夢というのは、なぜか真っ白な着物――たぶん死に装束――を着せられて、見知らぬ木造の部屋に閉じ込められているというものだ。


 夢というのは起床と共に次第に輪郭を失っていくものだと思っていた。けれど、もう何度も何度も、うんざりするほど何度もその悪夢を見ているので、まぶたを閉じてその部屋を思い起こすことすら容易になってしまっている。


 その夢を「悪夢」と称しているのは、部屋の外からなにかがわたしを呼んでいるという点だ。


 声はハッキリとは聞こえるわけではないし、なんと言って呼んでいるのかもわからない。けれども「わたしを呼んでいる」という一点だけは、なぜか確信できた。


「この神社にお参りしてみたりしたんだけどさー。なんか効果はないみたい」


 わたしを怖がる異性の存在や、悪夢を見続けている話に関連性はないとは思うものの、「お祓いを受けてみれば?」などと勧められたこともあってひとまず今雨宿りしている神社にお参りしてみたりもした。しかし特に事態が好転することはなかった。


 お祓いすればと勧めてきた友人も冗談半分の言い方であったし、わたしも特に信仰心が強いわけでもなかったので、その結果は肩透かしというほどでもなかった。


 お参りひとつで事態がよくなればラッキー、くらいの気持ちだったのはたしかで、だからこそ効果がなかったのかもしれないと思った。もしわたしが神様だったら、こんな輩に力を貸したい気持ちにはならないだろうし。


「それに、森山もりやまくんに『お参りするのやめろ』って言われちゃったし」

「……なんで?」

「さあ? なんか森山くんによるとこの神社はよくないらしいよ。地元の人間が言うからなにか理由があるのかもしれないけど……別に邪悪な感じとかはしないのにね? まあわたしたぶん零感だからわかんないけど」

「ふうん……彼とは親しいの?」

「いや、全然。でも森山くんはなんかわたしのこと心配? してるっぽい……?」


 曇天の隙間で稲光が走って、ピカピカと明滅する。じきに雷が落ちて、遠くで地を震わすような音が響き渡った。


「うおー……。びっくりした」

「心配するほど真衣が好きなのかもね?」

「えー? そんなことないと思うなあ。あ、でも、森山くんって霊感があるらしいって聞いたことが……。うーん。今度相談してみようかなあ」


 少なくとも、この神社でお参りを続けることよりかは、なにかしらの効果はありそうだった。彼に相談することで主に精神面での効果はありそうな気がした。


 やったりやらなかったりの朝のランニングコースの途中にこの神社があったので、わたしは通るたびに一応……とお参りを続けていたのだ。ちなみに、これまでに神社を管理しているらしきひとや、地元のひとには会ったことはない。


 この神社は立派とは言い難いから、致し方のないことだろう。あちこち苔むしているし、ぐるりと神社を取り囲む森も枝が伸びっぱなしという印象を受ける。それでも賽銭箱の上にある鈴だけは不思議といつもピカピカだった。だから、一応ひとの手は入っているのだろうと思っている。


「あ」


 噂をすればなんとやら。森山くんの話をしていたら、彼から着信があった。テキストメッセージではないのが珍しく、また彼から連絡がくる理由がわからず、首をかしげる。


「出ないで」

「え? なんで?」

「出ないで。森山ってやつは、女にだらしがないから」

「え? それどこ情報? 初耳なんだけど……」


 なぜか硬い印象を受ける木津の言葉に戸惑う。そのあいだに、わたしの手の中ではスマートフォンがバイブレーションしていた。


 しかしやがてバイブレーションは止まり、代わって通知がポップアップする振動があった。


『今、どこ? だれといるの?』


 「束縛系彼氏かな?」などと内心で冗談を言いつつ、スマートフォンのロックを解除し、アプリを立ち上げてメッセージを打ち込んでいく。


『雨が降ってきたから神社で木津と雨宿りしてる~』


 送信すれば、すぐに既読の文字がつく。それからまたすぐスマートフォンが通知を知らせるために震えた。


『木津ってだれ?』


「……あれ?」


 あれ? と思った。森山くんに「どこそこの学部の木津だよ」というような内容のメッセージを送ろうとしたが、木津がどこに籍を置いているのか、わたしは知らなかった。


 ど忘れしたんじゃなくて、わたしは木津がどこの学部生なのか、知らなかった。


「あれ?」


 あれ? と思って、そのままそれが声に出る。次第に背中に冷や汗をかいていくのがわかった。雨に濡れたのとは違う不快感と、焦燥がわたしの中であふれていく。


 あれ? 木津ってどこの学部の人間だっけ?


 あれ? 木津ってどこで知り合ったんだっけ?


 あれ? 木津ってわたしの友人だっけ?


 あれ? 木津ってどんな顔してるっけ?


 背中に悪寒が走った。


 同時に、豪雨を降らせる雨雲の隙間から、稲光が走った。


 膝がかすかに震える。


 心臓がまるで耳の横にあるかのように、大きく拍動している。


『木津ってだれ?』


 わたしはそんなメッセージが表示されたスマートフォンを握りしめたまま、一歩、本殿へとつながっている階段を降りようとした。


「出ないで」


 木津の声が真後ろから聞こえた。


「ここから出ないで」


 絶え間なく降り続ける雨が、まるでカーテンのように周囲の景色を遮断している。


 木津がしゃべるたびに、その雨のカーテンが分厚くなっていくようだった。


 「どうしてそんなことを言うの?」……わたしは木津にそう問いかけたかったが、舌の根が異様に乾いて上手く言葉にできなかった。


 背後で木津が微笑わらうのが、気配でわかった。


「嫉妬で狂ってしまったからね」


 だれに聞かせるでもないような調子の木津の声が聞こえたと同時に、うしろで結んだ髪の房をつかまれて、ぐいと引っ張られた。


 その刹那、不意に理解した。


 夢の中でわたしが着せられていた白い着物。あれは死に装束じゃなくて――

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