第三話 5月8日

5月8日




 僕は鳴り響く時計のボタンを、身体を拗らせて手のひらで押し込んだ。


 まだ少しだけ眠気が残中、上半身を起こし、数回瞬きをして体に目覚めたことを伝えた。


洗面台で歯を磨いた後に部屋に戻り、タンスの引き出しから服を取り出す。


「今何度だ?」


 取り出す服に迷い、口にした。


 そういえば、ベッドの頭上部分に置いている目覚まし時計は気温と湿度が表示されるんだと思い出した。


 僕はタンスの前からベッドのほうに移動し、また目覚まし時計に触れる。


「今は……16℃か」


 目覚まし時計には5時13分の表示と、16℃、64%の文字が表示されていた。


 昼間は暖かくなるだろうが、まだ日が出てきたばかりの朝だ。少し暖かい服にしよう。




 僕はタンスから白のトレーナーと黒のチノパンを引っ張り出した。


 服を体に纏い、デニムの膝上くらいまで長さがあるアウターを羽織った。


 時計は5時25分を表す。


 家を出るにはまだ早い。なにをしようか。いつもは空いた時間にスマホを見ないが、今日はロックを解除し、ホーム画面を覗いてみた。


「あ、忘れてた」


 ぽつりと呟いた。


 僕は大地からのメッセージに返事をするのを忘れていたことに気が付いた。


【そうなんだ。いつなの?】


 僕は断りの連絡をしたかったが、すぐに断るのはさすがに申し訳ないと思った。


 日にちを訊いて、ありきたりな理由で断ろう。 


 僕は嘘が入り混じったメッセージを送ると、スマホをベッドの上に投げ置いた。


 時間が余る。




 僕は再びスマホに手を伸ばし、ベッドの上に座って検索エンジンを開いた。


“四時の空”と検索し、出てきた曲の再生ボタンを押し、3曲ほど流したところで停止した。


 どの曲も、ありきたりで胸に響かなかった。


 やはり自分はつまらない人間なのだと、それだけがわかった。


 僕はスマホの画面に小さく表示された時刻に気づいてベッドを立ち上がる。


「行かなきゃ」


 あの人が誰だったのか、あの場所は何だったのか。


 空はなぜ青いのか、海はなぜしょっぱいのか、そんな疑問を持つ子供のように僕は昨日の光景が気になっていた。


 玄関の扉を開け外へ踏み出した。


「え、雨……」




 今日の天気のことなど考えていなかった。


 僕は家の中に一歩戻り、傘立てからビニール傘を引き出した。


 傘を開き、雨の降り滴る神社へと自分を運んだ。


 行き道、僕は透明な傘を盾に、向かい落ち続ける雨を眺めた。


 強いとも弱いとも言えない雨が、僕の傘と地面を叩く音だけが響く。


 世界から雨の音以外が消えたようだった。稀に遠くからタイヤが水を弾き飛ばす音が聞こえたりした。


 雨の音に耳を澄ませ、歩き続けるとだんだんと神社のあるあの小さな山が見えてきた。


 心臓が大きく動き出したのを感じ取り、僕は神社に続く階段の前で足を止めた。


 この先に、昨日出会った人は誰だったのか、あの空間は何だったのか。その答えがわかるだろう。


 僕は止めていた足を右から一歩、踏み入った。


 雨が降り続け、滑りそうなのが怖い。


 僕は崩れ落ちそうな石段を一歩一歩、ゆっくりと上がり続けた。


 雨がだんだんと弱くなっている気がした。木の葉に溜まった雨が大粒になって僕の傘を叩く。


 階段を上り切り、鳥居の前で足を止めた。鼓動が強く、心臓の存在感を知らせる。階段を上ったからなのか、それとも緊張なのだろうか。


 僕は鳥居に向かって一礼し、一歩、足を踏み入れ中へ入る。


 水溜まりを避け、本殿の右側から後ろへ回り、大きな穴がある事を確認した。




「やっぱりある……。入って大丈夫だよな……」


 昨日とは違い、中へ入るのに躊躇った。


 僕は背筋を伸ばして大きく一度深呼吸をし、意を決して傘を畳み、もう一度本殿の中へと入った。


 中へ入ると、右側から温かみのあるオレンジ掛かった光が僕の目に差し込んだ。


 反射で光の方へ視線を向ける。


 光が漏れだす店の前から複数人がワイワイと談笑をしているのがわかった。テラス席でこちらに背を向けている。


 僕が遠くからその姿を確認すると、どうぞこちらへ、と耳から頭へスッと声が入り込んできた。この声は昨日聞いた声と同じだとすぐにわかった。


 僕は声と光の元へと踏みより、会話をしていたグループの人々を確認すると足が止まった。


 えっ、と息を漏らすように言葉が出た。


 僕が勝手に人と認識していたグループは、一人の女性と紛れもなく本物の動物だった。




「驚くお気持ちはわかりますが、まずはこちらへ」


 僕は逃げ出してしまおうかと迷った。


 夢なのかもしれない。はたまたテレビ番組のドッキリなのかもしれない。色々な思考が頭の中で浮かび上がり、恐怖すらあった。


「チッ、人間かよ……」


 立ち尽くしていると少しだけ高い声が僕を拒まれた。


「やめなさいモカ。失礼ですよ」


 僕は唾を飲み込み、恐る恐る近寄る。


 そこにはテラス席であるが、カウンターのように横並びのテーブルと、いくつかの椅子があった。


「うちの弟がすみません」


 左から2番目に座っているイノシシが僕に頭を軽く下げて謝った。その左側にいるのが弟のイノシシだろう。


 弟はそっぽを向いて謝る気はないのが伝わる。


 兄イノシシの右側には狸だろうか。そしてその横に真っ白な猫、一席空けて、女性が座っている。


 僕は状況を掴めず、席の前で足を止める。


「どうぞ、お座りになって下さい」




 この頭へ入り込んでくる声の主は店主であり、体は白色、顔は薄く灰色掛かった猫であった。そしてその瞳は、とても猫とは思えない様々な青色が混ざり合っていた。空色、群青、白群、藍色、まるでビー玉のような瞳の中に一つの宇宙が広がっているようだった。


 僕は店主の小さな手の平が指す席に着く。白猫と女性の間の席だった。


 僕が緊張で委縮していると、店主が続けて口を開く。


「大丈夫ですよ、あなたを攻める方はいらっしゃいません。モカも、本当は歓迎していますよ」


 その言葉に返す言葉が見つからず、小さくコクリと頷いた。


「申し遅れました。私、当店『時節カフェ』のオーナーをしております。マスターとお呼びください」


 マスターと名乗る、人並みに身長のある猫は黒いエプロンの前に右手を添え、真摯に腰を折る。


「時節カフェ……」


 僕がポツリと声を漏らすと、今度は隣の女性が口を開く。


「マスター、これとてもおいしいです」


 僕はその言葉に引っ張られるように女性に目を向けた。




 肩下まで伸びる茶色を帯びたすらりと伸びる髪型に、アーモンド型の二重、まっすぐな鼻筋、薄紅梅の唇。


 まさにその人は美しさそのものだった。それ以上の言葉が見つからなかった。僕は初めて、人に対して美しいと感じた。


 衝撃を隠すように目を逸らすと、女性は一口右手に持つ黒いマグカップを口に運んだ。


「お飲み物をお持ちしてよろしいでしょうか?」


 マスターと呼ばれていた猫は体を傾けて、僕の顔を少しだけ覗き込んで訊いた。


 反射的に、はいと答え、それと同時に店とは別の光が、僕と僕の周りを照らした。


 うわぁと右側から言葉が漏れる音が聞こえた。


 女性を見ると、僕の頭のてっぺんを、目をキラキラ輝かせながら見つめていた。


「すみません、何かついてますか?」


 僕は頭を触りながら女性に尋ねた。


 女性はふふっと口に手を添えて笑いながら答えた。




「君じゃないよ、ほら」


 女性の指方向を見上げた。


 その時、僕の瞳に光が差し込んだ。


 雨が降っていた空には、数えることができないほどの星、そして月が天の中に沈んでいたのだ。


 言葉が見つからなかった。こんな良い月を、僕は見たことがなかった。


 街灯のいらない夜をこの時初めて知った。


 僕はその月をどのくらい見つめていたのだろうか。何秒、何分、あるいは何年も経っているような気さえした。


「天気に恵まれて良かったです。ただ、満月でないのが少々残念です」


 声が聞こえて僕はふと我に返り、店の方へ顔を向けた。


 飲み物を持ってきたマスターが、僕の前にコトっと音を立てて空っぽのグラスを置いた。




「あれは、満月ではないのですか?」


「満月は昨日でしたので、残念ながら少しばかり欠けてしまっています」


 目を凝らさないとわからないほどに小さく欠けていたのが、マスターに言われて初めて気づいた。


「なんだ、満月じゃなかったのね。」


 肩の力がストンと抜けた女性は、また体をテーブルへと向け直す。


「あれもあれで奇麗じゃないですか?」


「確かに奇麗だけれど、ほら、なんていうんだろ。白は真っ白だから美しいじゃない?」


 絞りだしたような例えに、妙に納得してしまった。


「まあ実際見惚れていたから、本当に奇麗だとは思うよ」


 女性はニコリと笑う。


 笑顔の絶えない人だなと思った。


「ところでマスター、この子に何を持ってきたの?」


「入道雲と通り雨のレモン水です」


「入道雲と通り雨?」


 


 僕は不思議に思い、首を傾げると隣の白い猫が口元に小さな手を添えてクスっと笑った。


「最初は驚くわよね」


 猫は話を続ける。


「私プチと言います。マスターに名前を付けてもらったの。ここにいるあなた達以外はみんなマスターから名前を貰っているの」


「あなたたち?」


 再び首をかしげると、猫はまたクスっと笑った。


「あなたの隣の女の子よ」


 ああ、と僕は納得すると猫はグラスに目を向けた。


「そろそろかな?」


 僕は猫の視線を追うと、グラスの上に何かが創られ始めた。




 グラスの上に現れたそれは、もくもくとだんだん大きくなり、ふたをするように手のひらサイズの柔らかな空色の雲ができた。


 僕は言葉も放たずに見惚れていた。


 雲を見ていると、グラスの中からぽちゃぽちゃと音が聞こえ始めた。


 僕は頭を低くし、グラスを横から眺めると、雲から水が滴っているのが確認できた。


「……雨だ」


 僕は驚きから言葉が漏れ、両隣にふふっと笑われた。


 グラスに7割ほど水が溜まると、雨は止み、じわじわと消えていく雲の中から丸く切り分けられたレモンが現れた。まさに入道雲と通り雨のレモン水だと納得できた。


「どうぞ召し上がって下さい」


 マスターはニコッと笑い、僕はグラスに手を伸ばした。


 一口、レモン水を口の中に流し込む。




「……おいしい! すごくおいしいです! これどうやって作ったんですか!」


 わずかな酸味とほんのりと口の中に広がる甘みがとても飲みやすかった。


「それはよかったです」


 マスターがニコッと笑う。


「ですが、作り方は企業秘密なので」


 続けて話すと、左手の短い人差し指を口元に添えた。


「そうですよね、すみません」


 僕が謝るとマスターはいえいえと答えた。


「ところで、どうして雲が青かったんですか?」


 雲は普通白であり、このグラスに現れた雲の色に疑問を持った。


「それはあなた方が住んでいる場所と、この場所では、色や季節などが反転してしまうのです」


「……どうしてですか?」


「空は青い、雲は白い、海はしょっぱいなど、そんな世界があるなら、逆の世界もあるものですよ。この世界ではあなたの今まで生きてきた中での固定概念は、あまりないとお考え下さい」


 ポカンとする僕は更に質問をした。




「だから今は夜なんですね……。ではどうしてこの場所の夜は、僕の世界の夜と変わらないんですか?」


 それはですね、とマスターが話しかけると、僕の左側からはぁーという大きな溜息とともに、グラスで机を叩く音が聞こえた。


「いちいちめんどくさい奴だな。マスター、なんでこんなやつを招いたんだよ」


「こら! やめなさい!」


 イノシシの兄弟だった。


 僕は何か気に障ることをしてしまったのだろうか。


「モカ、ここにいる者たちはみな、同じく悲しみの悩みを持つ者なのですから、あまり種で差別せず、まずは受け入れてみましょう」


 マスターはまっすぐモカを見つめていた。


 モカはチッと舌打ちをし、席を立ちあがってどこかへ歩き始めた。


「どこへ行くのですか」


 兄が問うと、モカは今日は帰るとだけ言い、僕が入ってきた入り口とは違う方向へと去った。


「大変申し訳ありませんでした。私の方から後で叱っておきますので」


 イノシシの兄は僕の前へと歩み寄り、頭を下げて謝罪をした。




「いえいえ、全然お気になさらずに……」


 僕は両手と顔を横に振り、気にしていないことを伝えた。


 しかしどうして僕の事をあそこまで拒絶するのかは疑問に思った。


「あの子も昔はあんな風ではなかったんです」


 心が読まれたのかと思うくらいのタイミングで、兄は昔話を始めた。


「すみません、申し遅れました。私、ラテと申します。他の皆さん同様にマスターから名を頂きました。そして弟、モカは昔いろいろなものに興味を持っていました。そこで人間の畑に踏み入ってしまい、そのことが人間にばれてしまい。後日、複数の人間たちが私達の母と他の兄弟を殺してしまいました。私とモカはなんとか捕まらずにすんだのですが、その日以来、モカは人間に恨みを持って生きるようになってしまい……」


 マシンガンのように話すラテに、僕は同情と罪悪感が生まれる。


「すみません、嫌なことを思い出させてしまって」


 僕が謝るとラテはまた申し訳なさそうにして頭を下げた。




「いえいえ、こちらこそこんな話をしてしまってすみません。もちろん、あなた方のような優しい方もいるとわかっておりますので、お気になさらないでください」


「ところで君は何の悩みを持っているの?」


 ラテが席へ戻ると、少し重い空気を換えてくれるように横から声が聞こえた。


「あ、ごめんね、自己紹介がまだだったね。私はミドリ。羽に卒業の卒で、みどり


 改まって体を僕に向け、膝の上に手を置いて大きな目を細めて僕に話してくれた。ユラユラと足元で優しく揺れるベージュのスカートが印象的だった。


「羽に……卒……」


 僕の反応に翠さんは首を傾げた。


「どうかなさいましたか?」


 マスターが口を挟む。


「……いえ、どこかでその字を昔見たことがある気がして……」


「……そうですか。思い出というものは引き出しのようなものです。今はきっとどの棚の、どの段にしまったか、手探りで探している状態なのでしょう。きっといつか思い出せますよ」


 はぁ、と軽くうなずくと、あなたは? と翠さんに問われた。


 あっはい、と返事をして、僕も翠さんの方へ体を向けた。




「僕ははやてです。立つ辺に、風です」


「颯君ね、よろしく。あと敬語じゃなくていいよ。なんか話しにくくなっちゃう」


 翠さんは長い髪の毛を耳にかけながら微笑んだ。


「あ、はい。わかり……わかった」


「で、颯君の悩みとは?」


 少しだけ前かがみになって興味津々で訊いてきた。


「悩み……正直、特に悩みなんてないのですが……」


 僕はうーんと唸って、顎に手を添えて考えた。しかし答えは出なかった。


「僕は今特に困っていることもないし、誰かに相談したいこともないし」


 そもそも質問の意図はなんなのだろうか。


 モカもマスターにどうして招いたんだ、と言っていたし、悩みのある人が集っているのだろうか。


「もしかして悩みを抱えている人達だけがここに招かれるのですか?」


 僕は顔を横に向け、疑問をそのままマスターにぶつけた。


「ご名答です。そして招いたのも私です。招いた理由ですが、あるコーヒー店つながりで貴方を知り、是非この店にもご来店していただきたいなと思いました」




 確かに僕は昨日、この場所でマスターに明日お待ちしています、と言われた。しかしこの場所を知ったのはたまたまだ。招いたとはどういうことだろう。僕が疑問に思うと、見抜いたかのようにマスターは続けた。


「直感を頼りに歩いていると、この場所を見つけた。合っていますか?」


 マスターの質問に少し驚きつつ、はいと答えると更に続けた。


「すべての出会いは偶然の連続であり、偶然が運命である。出会いとはそうではないでしょうか。私が招いたのは、あなたの気まぐれな偶然ですよ」


 マスターの言葉が僕には少し難しかった。しかしそれを聴いていた他の人はうんうんと頷いていた。


「ところで颯君は不思議に思わないの?」


 また翠さんから問われた。


「何が?」


 僕は首を少し傾けて問い返した。


「ここに来るときの入り口、どうしてここに繋がっているのかとか……」


 翠さんは羽織っていた藍色のジージャンが肩から落ちそうになっていたのをかけなおす。


「あ! そうだ、それも不思議に思ってたんだった!」


 僕が目を大きく開くと、翠さんはあははと口元を隠しながら笑い出す。


「この世界にはどうやって移動できたんですか? ……というよりも、ここはどこなんですか?」


 僕は両眉を近づけ、マスターに向かって疑問をぶつけた。


「そうですねぇ、ここは地球の中にある宇宙、といったところでしょうか


「地球の中の宇宙?」




 マスターがまた難しい話をしようとすると、翠さんが横で飲み物を一口喉に流し込む。


「あなたたちは普通、地球という星の上を歩きますが、逆もしかりで、ここは地球の下側に当たります。地底とはまた異なりますが、裏世界のような存在です」


 マスターの話す内容が小難しく、首を傾げたが、マスターは続けた。


「また、通常の地球の反対側に位置しているので季節感、色、空などもあなた方の世界とは異なります」


「季節感……?」


 マスターの言葉を一部復唱した。


「ええ、今あなたは何月を生きていますか?」


「えっと、5月です」


「ならばその反対、今この世界は11月の季節となります」


 マスターは僕から中央の大きな木へ目を移し、続けた。


「あの中央の大木、あちらがこの世界の季節を表してくれています。11月なので、今あの木には葉がないのです。そしてあなた方の季節で言う春と秋には見ものですよ」




 マスターはまるで大木に話しかけるように語った。


 その姿は凛としていて、真っ直ぐな目をしていた。


「そろそろ何かお食事をお持ちいたしますね。皆さま少々お待ちを」


 ニコッと笑い、一礼した後に店内へとマスターは一度姿を消した。


「そうだプチ、またあのおじいさんのところに行ったんだって?」


 どこかか弱い声の持ち主は、プチの横に座っていた狸だった。


「そうよ、悪い?」


 プチは胸を張って口元をクイっとあげ、どこか少しだけ不機嫌になった。


「ううん、いつまでも感謝の気持ちを忘れない君が素敵だなと思ったんだ」


 狸は、か弱そうな声とはギャップに、自分の意思をはっきりと伝えた。


「あら、ダッチちゃんったら、いいこと言うじゃない」


「だから僕は男だってば!」


 たわいも無い会話に、翠さんもラテもフフッと笑っていた。


 僕が何のことか分からなかったのを察したのか、翠さんが口を開く。


「プチはね、前にカラスに襲われていた所をおじいさんに助けてもらったんだって。で、その人に今でもお礼をし続けてるんだって」




 僕はゆっくりと頷きへぇと声を漏らす。


 翠さんの話を続けるようにダッチが話を繋げる。


「で、今でもここから4駅も離れた場所に花を届けに行ってるんだよ」


「4駅も!?」


 僕は驚きが声となった。


「余計なことを言わないでよダッチ!」


 怒ったプチがダッチの背中を鈍い音を立てて叩いた。


「まあまあ、ダッチの言う通り、素敵ですよ」


 ラテがプチを宥めるように両手を小さく仰いだ。


「伝えられない想いって、無惨だわ」


 頬杖をついて、ため息を漏らすプチに僕は疑問を吐いた。


「というか、どうして僕たち違う生き物なのに話が通じるの?」


「この空間は不思議なことばかりなんだ。こうして話せるのも、不思議なパワーってやつなんだよ」




 ダッチが両手をめいっぱい広げて話していると、マスターが円盤の形をした木製のトレイを持って戻ってきた。その上には白い小皿が人数分乗せられていた。


「はい、ここは皆さまが生まれた環境とは大きく異なります。どのような力なのかは私も詳しくは存じ上げませんが、心で会話していることは知っています」


「心で?」


 僕が言葉をぶつけると、マスターは小皿を配りながら続けた。


「はい、会話というのは言葉だけでは成り立ちません。視線、表情、態度、他にもさまざまなものが関係しますが、特に大切なのは心なのです」


 小皿と小さなスプーンを配り終えると、短い人差し指をピンと立てて続ける。


「言葉は心が原動力として現れます。つまり会話を成立させる言葉は元を辿ると心に辿り着くということです。この世界では、外の世界とは違い、言葉ではなく心で会話しているのです。そのため言葉が異なっていようと、会話が成立してしまうのです」


 ぽかんとして口が少しだけ開いている翠さんを見て僕は口を挟んだ。


「つまりは、僕らは言葉ではなく心をぶつけ合っている。テレパシーのようなものですか?」


「ご簡易していただきありがとうございます。イメージとしてはそのように捉えていただいて結構です。それぞれ心の声をプチには猫の形、ダッチには狸の形、ラテとモカにはイノシシの形、そしてお二人には人間の形として変換され、聴こえるのです」


「難しいなぁ。けどすごいのは伝わりました」




 頬杖を立てながら翠さんは目を細めた。


「そして皆様にお配りしたこちら、星屑と満月のフルーツゼリーでございます」


 小さな透明な小皿に入れられたのは、奇麗なネイビー色をしたゼリーに、金箔が混ざり、それを囲うようにリンゴ、ミカン、桃やブドウなどの様々な果物が入っている。そして一番綺麗に輝いていたのは、空に浮かぶ月がゼリーに反射していて、まるで月がゼリーの中に紛れているようだ。


 そのゼリーはまるで僕達の頭上にある夜空だった。


「あ、すみません、僕お財布を今日持っていなくて……」


 手ぶらできたことを思いだし、突然出された商品に焦りを隠せなかった。


「ご心配は無用ですよ」


 ニコリと笑うマスターに、言葉を繋ぐようにダッチが口を開いた。


「この店、対価ないから大丈夫だよ」


「え!?」


 そんなはずはないだろうと、僕は思わず目を見開く。


「まあ、マスターがいいって言うならいいじゃない」




 でも、と僕が受け取りを断ろうとするとマスターはニコリと微笑んだ。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 僕がスプーンに手を差し伸べようとすると、翠さんはスプーンを両手の親指に挟み手を合わせ、いただきますとつぶやいた。


 僕も手を合わせ、いただきますと言い、スプーンをゼリーの中に差し込んだ。


 味はサイダーのような味がした。しかし甘すぎず、口の中がさっぱりとするような、とても食べやすいものだった。


 深い青色をしており、その割には苦みや食べにくさなどがない。初めての味だった。


 全員がゼリーを食べ終えるとマスターは左手首に着けている時計の針を確認し、そろそろお開きにいたしましょうと話した。


「本当に何も払わなくていいんですか?」


「皆様とお話ができて楽しい時間を過ごすことができました。それだけで充分です。またいつでもお越しください」


 マスターは再びニコリと笑った。


「あれは渡さないの?」


 


 テーブルに乗せた腕に体重をかけるプチが口を開いた。


「あ、そうそう、ありがとうございますプチ」


 マスターが店内に戻り、再び戻ってきたと思うと、何やらガラスの容器を持ってきた。中には何かが詰まっている。


「これは?」


 僕が問うと、コトッと音を立てて僕のテーブルの前に置いた。


「こちらがあなたの『月の鉢』になります」


まん丸の、まるで満月がイメージされたような形だった。


「鉢?」


 僕が首を傾げるとマスターは続ける。


「あなたの悩みを解決してくれる花が咲きます。直接は解決してくれなくとも、いずれは役に立つことでしょう。しかしご安心を。皆様に馴染みがあるよう、花の色はそちらの世界と同じものが咲きますので」


 疑問を作る暇もなく続けられる情報に少し頭が追い付かなかった。


「えっと……どうしてここに咲く花は色が逆にならないのですか?」


ふり絞って出した質問にマスターが答える。


「そちらの世界の土を混ぜてありますので……この鉢と土は言わば二つの世界の組み合わせのようなものです」


 へー、と声を漏らすとマスターが鉢に添えていた手を離した。


「では、よく見ておいてくださいね」


 


 僕は少しだけ顔を近づけた。


「わっ!!」


 翠さんが僕の肩を叩いて驚かし、反射でビクンと体を震わせた僕を見て、あははと笑う。


「びっくりしたぁ……」


「あ! ほら、観て!」


 プチが声を上げた。


 鉢に目を戻すと、小さな芽が出てきた。僕から見て鉢の12時の位置だ。


 芽はみるみるうちに大きくなる。


「成長が早い……」


 驚きが言葉となって表れた。


 1分もしないうちに芽は大きな葉を創り、小さな花を複数咲かせた。ピンク、赤、オレンジ、黄、白など、一度に多く彩った。


「ほう、これは珍しい」


 マスターが顎に手を添えて花を覗き込んだ。


「何が珍しいんですか?」


「この鉢には大体、様々な花が咲くのですが、一むらの中でこのように多くの色を咲かすのは私もほとんど見ません」


 へーと声を漏らすと、あなたは愛されてるわね、とプチが呟いた。


 どこか寂しそうな顔をしていて、どういった意図で言われたのか僕には何もわからなかった。


「そしてこちらは、カランコエ、ですね」


「カランコエ?」


「ええ、この花の名ですよ」




 初めて聞く名前の花だ。


「こちらは私が責任を持って見守ります。ご安心ください」


 マスターは体を横に向け、翠さん側のテーブルの端に手を伸ばす。


 手の向き先にはいくつもの鉢が置かれている棚がある。


「あちらに皆さまのものとご一緒に飾って下さい」


 僕は言われるがままに立ち上がり、鉢を棚の三段あるうちの上段、半月のような、円を半分に切った形の鉢の隣に置いた。


 半月のような鉢に花は咲いていない。


 他にも月の形をイメージしたような鉢がいくつかある。


 きっとみんなのものなのだろう。


「じゃあまたねだね、颯君。あ、ID交換しようよ」


 ポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開こうとする翠さんに申し訳なく、遺憾だった。


「ごめんなさい、スマホは普段持ち歩かなくて……」


「そっか、じゃあ次いつここに来る?」


「次……ですか?」




 僕は今日限りのことだと考えていたので、次にここに来ることなど考えてもいなかった。


「そう! 次! またここで会おうよ!」


 無邪気な笑顔で言う翠さんに僕は戸惑ってしまう。


「じゃあ、梅雨に入った日にここで会おうよ」


 梅雨入りがいつになるかわからず、また僕は戸惑う。その日に予定が入ってしまったら、行く事ができない。


 うーんと僕が唸っていると、翠さんがまた口を開く。


「もし来られなくてもいいよ。そしたらまた考えるから」


 優しい声だった。


「ありがとう。できるだけ行けるようにはするよ」


 僕が浅く頭を下げると翠さんは少し前かがみになって僕の顔を覗き込むように訊いた。


「というか颯君って、何年生?」


「えっと、高2です」


「お、じゃあ後輩君だね」


「え? 翠さんは何年生?」


「高校3年生です! 敬いなさい!」




 自慢気に指を三本立てた翠さんに僕は少し驚いた。


「ええ! 一個差! あんまり変わらないじゃん!」


「生まれて一年の差は大きいぞー」


 にやにやと笑みを浮かべていた。


「いえ、そうではなくて、もっと大人な方というか、大学生くらいの方かと思ってました……」


「え! 私そんなに若く見えない……?」


 眉同士を近寄せ、悲しげな表情を見せられた僕は慌てて弁解した。


「そうではなくて、とても雰囲気が大人だなと感じて……」


 そういうと翠さんは大人かぁと呟き、どこか満足したような表情になった。


「まあ許して差し上げよう後輩君」


 胸の前で腕を組み、先輩感を出す翠さんはどこか無邪気で、子どもな雰囲気を出していた。


「あ、ありがとうございます」


 その姿に思わず微笑してしまった。


「じゃあ私はそろそろお先に行きますね」




 翠さんとの会話に夢中になっていると、ラテが帰ろうと席を立った。


 じゃあまたねと、ダッチも続くように席を後にする。


 プチはまだ席から離れず、僕と翠さんの会話を食べるように見ていた。


 ということで、と翠さんがパンっと音を作って手のひらを体の前で合わせながら話の続きを始めた。


「梅雨入りの日、放課後ここに集合ね! あ、学校ない日だったらお昼の12時に集合しよ!」


 テンポ良く進む話に僕ははいと承認するしかなさそうだった。


「じゃあ私も、そろそろ行くね」


 テーブルに手をついて立ち上がる翠さんを見上げると、翠さんは月を一度だけ見上げて、大木の反対側へ歩いていく。


 木を過ぎたあたりで一度立ち止まり、振り返った。


「じゃあ約束、忘れないでね」


 小さな黒い鞄を片手に、空いた方の手をこちらに振っていた。




 僕が会釈すると、前を向いて建物の隙間へと歩き始め、暗闇に姿を消していく。


 ゆらゆらと揺れた、サラサラな長い髪が、どこか寂しさを演出していたように見えた。


「では僕も行きますね」


 マスターとプチに伝えると、プチが頬杖をついて話し始めた。


「あなたとはなんだか少しだけ長い付き合いになりそう」


 首を傾げてどうしてですかと尋ねると、プチは少しだけ目を細めた。


「そんな気がするだけよ。さ、私も行くわ。出口まで一緒に行きましょう」


 マスターにお礼を言い、傘を持って帰りの出口へと向かうと、プチも僕の隣を歩いて着いてきた。


「私もこっちなの」


 真っ直ぐ前を見て足音も立てずに4本の短い脚で歩くプチを、僕はただ見下ろしていた。


「またいつか会いましょう」


 プチは歩きながら僕を見上げている。


「え? 梅雨入りの日には……」




 少し驚きつつ、僕が答え切る前にプチはまた口を開く。


「ううん、基本的にカフェには夜の時間帯……私たちの世界の朝の時間帯にしか来ないの」


「どうして?」


「あっちの昼はこっちの夜だから、時間帯を間違えるとお店閉まってるからよ」


 あ、そうかと僕は右手をグーにして、左手のひらに軽く叩いた。


「この場所は素敵な場所だし、またあの月も見たいな」


「あっちの世界にはないものが沢山あるものね。」


 出口から外へ戻ると、雨はまだ降り続いていた。


 プチは振り返り、一度だけミャーと鳴いて山へ走り去っていった。


 僕も帰ろうと思い、鳥居に一礼してから階段を下った。


 帰り道に、翠さんの横顔が頭をよぎった。


 あの表情……気のせいか。




 店から漂っていたコーヒーの匂いがまだ鼻に残る。


 帰り道、僕は朝ご飯のことを考えていた。


 少しお腹が空いた。


 鼻に残るコーヒーの匂いと雨の匂いが混ざる。


 雨音が鼓膜を震わせる。


 帰り道で、靴が少し濡れた。


 僕はこの日、何かを得た気がする。何かはわからない。何か、得た気がした。

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