7

 良樹たちが建物から出てくると、友作と加奈の姿がなかった。少し気持ち悪くなったという友作を、加奈が送っていったらしい。


「大丈夫だった?」


 そう尋ねる美雪に写真を見せ、


「特に問題はなかった」


 と答えたけれど、脳裏には一瞬あの大量の黒猫たちのことが過ぎった。


「これでいいな?」


 誠一郎は「ああ」と短く頷き、その写真を受け取る。噴水の上には二枚のポラロイド写真が置かれた。


「じゃあ、これ。頼む」


 そう言うと、誠一郎は良樹にストップウォッチを渡し、美雪の方を振り返る。彼女は小さく頷くと、一度良樹の目を見てから微笑を浮かべた。それに対して「大丈夫だ」と安堵させるように同じく笑顔を返すと、彼女は誠一郎の隣に付く。


「ああ。始める前に一つだけ謝罪しておかないといけないんだ」


 ストップウォッチのボタンに指を掛けたところで、誠一郎が突然そんな告白をした。


「実は、その黒電話。偽物だ」


 彼なりの冗談だったのだろうか。


「知ってるよ」


 良樹がそう答えると、彼も笑顔になり、それから右手を振った。歩き出す。

 二秒ほど遅れて「あ、スタート」とストップウォッチを押したが、特に気に掛けた様子もなく、誠一郎はいつもの自信ありげな歩調で玄関へと向かった。そのまま躊躇することなくドアに手を掛けると、自宅にでも入るかのように軽く開け、中へと入っていった。美雪の方は一瞬足を止めたが、ドアが閉まりそうになるので慌てて続く。

 その様子を、良樹も足立里沙も黙って見つめていた。

 それから何分が経過しただろう。虫の音が響いているな、と良樹が思っていると、不意に彼女が発言した。


「肝試しって、何の為にするんだろうね」

「何って、それは涼を得たいとか」

「男女のペアにするのは明らかに意図があるでしょう。そういうイベントを否定はしないけれど、場所によっては入ってはならない領域を犯している、ということに、もっと留意すべきだと思う」


 あの大量の黒猫たちのことを言いたいのだろうか。確かにここは今では彼らの住処になっている。彼らからすれば良樹たちは不法侵入者でしかない。猫たちの世界で人間のような法律がある訳ではないだろうが、それでも気分の良いものではないだろう。


「だから、何かが起こってもおかしくない、と?」

「そこまでは言わない。ただね、感じない?」


 彼女は視線を黒猫館に投げる。それに釣られるようにして、良樹もじっと建物を見つめる。何度か風が頬を撫でた。首筋を撫でた。けれど「何か」と言葉にするまでのものは感じない。

 そもそも霊感めいたものは良樹にはなかった。


「足立さんはそっち系の能力が強いの?」

「そっち系?」

「霊感とか、オカルト的なもの」

「よく分からないけど、幽霊は見たことはないわ。ただ、勘が悪い方だとは思わない」


 足立里沙の切れ長の瞳が、じっと良樹を捉えていた。彼女はモデルのスカウトが声を掛けるくらいには、容姿の造形が優れている。美雪とはまた異なるタイプだけれど、男子からの人気もある、と聞く。

 そんな彼女がじっと見つめている。恐怖感とは別の意味で鼓動が早くなったが、顔に出てないといいなと思いつつ、良樹は彼女から視線を逸し、ストップウォッチを見る。まだ二人が入って五分。特に問題がなければゆっくり回っても十分程度で外に出てこられるだろう。


「ところであの二人。付き合っているの?」

「急に何だよ」


 沈黙を破りたい訳ではないのだろうが、足立里沙の唐突な問いかけの方がよほど心臓に悪かった。


「いつも一緒にいるみたいだし、外から見ていても良い雰囲気じゃない? 当然そう考える人が多いと思う」

「ああ、そうだね」

「でも、本当は付き合っていない。そうでしょう?」

「知ってるなら最初から聞かないでくれ」

「ちょっと確かめておきたかったの」

「そういう足立さんは彼氏はいないの? 好きな人とか」


 聞いてよかったのだろうか、という勇み足もあったが、思い切って良樹は尋ねてみた。


「そういう雰囲気になったり、告白してきた人はいる。でも、感覚が合わない人ばかりだったから」

「じゃあ安斉なら、誠一郎なら、合うのか?」


 それとなく足立里沙が彼を目で追っているのは分かっていた。ただそれがどういう気持ちなのかは良樹にはやはり分からず、きっと恋でも愛でもないのだろうなと感じながらそう口にする。


「彼は特別なのよ。少しだけ、知っているから」


 何を、という問いは声にならなかった。中で悲鳴が聞こえたからだ。


「今の?」

「たぶん」


 大丈夫だろう、という気持ちと、何かあったんじゃないだろうか、という気持ちが天秤に掛けられる。足立里沙の表情は秒を追って険しくなるが、それ以上の悲鳴は聞こえてこない。


「大丈夫なんじゃないか」


 自分に言い聞かせるようにそう声に出したが、足立里沙は玄関を睨んだままだ。

 と、そこのドアが勢い良く開けられ、転がり出るようにして美雪が出てきた。その表情は何を見たのか知らないが、真っ青で震えている。


「美雪!」


 里沙が彼女に駆け寄り、そのまま抱き締めた。


「どうしたの?」

「安斉君が……安斉君が!」

「誠一郎がどうしたの?」

「分からない! 分からないの!」

「何があったの? ねえ、美雪。混乱しているのは分かるけど、話して。お願い」

「ちょっと中を見てくる」


 美雪のことは足立里沙に任せ、良樹は単身、懐中電灯と携帯電話を手にし、中に入った。けれど、呼びかけても返事はなく、どの部屋を覗いても彼の姿は見つからなかった。


 それから一月後、安斉誠一郎のものと思しきスニーカーを履いた右足首が、黒猫館から一キロほど離れた茂みの中で見つかった。警察は事件性が高いとして行方不明者を公表し、捜索を行ったが、半年経っても一年経っても、彼の行方は知れなかった。当然黒猫館の中も捜索が行われたが、何かが見つかったという報告はなされていない。

 そのことについて話すのはサークル仲間でも禁忌となり、やがて誰もが誠一郎について思い出すことはなくなった。

 あれから十年。また、夏がやってきた。

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