(6)
嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。
けれど、悠長に顔面蒼白となっている場合ではない。
公爵家の未来がかかっているのだ。目覚めたばかりのこの私の手に。
多少、いやかなり荷が重い気がするけれど、そんな腑抜けたことも言っていられず、私はほぼほぼ確信に近い嫌な予感を覚えながら、顔を横へと向けた。
そこには、「お嬢様が無事にお目覚めになられて、感無量でございます」と白のハンカチーフで目頭を押さえるテール・コート姿の初老の男性。
感涙してくれているところに大変申し訳ないのだけれどと思いつつ、思い切って声をかける。
「ね、ねぇ……ムルジム。お兄様はどこにいるのかしら?」
公爵家の優秀で有能な執事であるムルジムは、忽ち涙とハンカチーフを引っ込めると、淀みなく質問に答えてくれた。
「セイリオス様なら、お嬢様のことを私たちに任された後、取るものも取り敢えず夜会へと向かわれました」
「ひぃぃぃッ!」
思わず私の口から漏れ出た公爵令嬢らしからぬ声。
その声に、ムルジムは細くとも穏やかそうに見える目を見開いた。
「お嬢様?どうなされ…………あ゛………」
『あ゛……』じゃない!と突っ込むべきか、それともさすが公爵家の優秀で有能な執事と褒め称えるべきか。正直、悩むところではあるけれど、私の引き攣り声だけで、すべてを察してくれたことに取り敢えず感謝だ。おかげで話が早くて助かる。
そう、お兄様は決して夜会を楽しむために出かけていったわけではない。ましてや遅れそうだからと、取るものも取り敢えず飛び出していったわけでもない。
夜会のどさくさに紛れて、王家お抱えの医者やら回復師やら呪術師やらを拉致…………いえ、袋詰め………もとい、丁重に我が公爵家へお連れするつもりなのだ。
できれば、お兄様が夜会に行く前に気づいて欲しかったところだけれども、私のことでそれどこではなかったはずなので、責めることはできない。というより、まさか公爵家のご継嗣さまがそんなことを考えているなんて露ほどにも思わないだろう。
いや、あの妹馬鹿な兄ならやりかねないと警戒はすべきだったかもしれない。
なんせ、私の引き攣り声だけで、この有能な執事はあっさり察したくらいなのだから…………
「お、お嬢様……」
「だ、大丈夫よ。まだきっと間に合うはずだから。とにかく今すぐ王城に早馬をやって、私が目覚めたことをお兄様にお伝えするのよ」
「直ちに」
そう返事をするやいなや、ムルジムは公爵家の執事らしくキビキビとした中にも優雅さを兼ね備えた美しい所作で私に一礼すると、颯爽と部屋を後にした。
しかし扉が丁重に閉められた瞬間、廊下から聞こえてきたのは紛れもないダッシュ音。
もしかしなくともムルジムは、普段なら絶対に乱れさせることがないロマンスグレーの髪と、執事の戦闘服であるテール・コートを振り乱し、猛スピードで駆け出したのだろう。
由緒正しき公爵家の見目麗しきご子息様の犯罪行為を未然に防ぐために。
「あんのユーフィリナ様至上主義の超過保護者があぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜……」という声がフェードアウトしながら聞こえたような気がするけれど、うん、うちの優秀な執事が心の声を駄々漏らすわけがないから気のせいよね、と自分の耳に言い聞かせる。
あぁ………あれだけ外見は麗しいのに、中身が残念無念なシスコンお兄様のために申し訳ないわね。でも今は一分一秒の遅れが命取りとなるのよ。
ムルジム……お願い、頑張って(他力本願)。
私は遠い目で、今も尚一心不乱に全力疾走していると思われるムルジムに対し、謝罪と激励の言葉を惜しみなく贈った。
それから一仕事終えたとばかりに、やれやれと息を吐きながら部屋に残っている面々へと目を向ける。不本意だけれど、依然としてベッドの上からだ。
私の気持ちとしては、そろそろベッドから起き上がりたい。けれど、打ち付けた頭がどれほど痛むのか自分でもわからないため、一人では怖くて起き上がれないのが悩ましいところだ。
そこで、私の専属侍女であるミラとラナへと、起き上がるために手を貸してくれないかしら…………という視線を送ってみる。
いつもならこれで通じるはずなのだけれど、今日はどうやら勝手が違うらしい。
稀に見る呆け顔で、二人ともムルジムが出ていった扉を見つめながら立ち尽くしている。というより、この現象はミラとラナだけに限った話ではなく、ここに残っている全員が見事に呆け顔で扉を凝視だ。
あぁ、わかったわ。なるほどね………私とムルジムのやり取りを聞いて、驚きのあまり呆けてしまったのね。
そりゃそうよね。意気揚々と夜会へ出かけていったお兄様の目的が、決して夜会を楽しむためではないと知ってしまったのだから…………
それともあれかしら。いつも執事然としているムルジムの取り乱した姿を見て……いえ、そのような幻聴が聞こえてしまったことに、衝撃を隠せないでいるのかもしれないわね。
まぁ、どちらにせよ、これは直接呼びかけて、お願いしなければ気づいてもらえなさそうだわ。
私なりにそう結論付けて、早速口を開きかける。けれども、私が声を発する前に、侍女長のアダーラが侍女長としての貫禄で、一番に自分を取り戻した。と同時に、ある重要なことを思い出したらしい。
私にとっても、公爵家にとっても、これまた頭の痛いことを…………
「お、お嬢様、お目覚めになられて本当にようございました。ただですね、大変申し上げ難いのですが、万が一にもお嬢様の身に取り返しのつかないことがあってはと思いまして、領地にいらっしゃる旦那様と奥様に早馬を…………」
「出したの⁉」
「は、はい!申し訳ございません!お嬢様が二度目に気を失われて直ぐに………」
ということは、時間にして既に二時間近く経っているということだ。
二時間も前に屋敷を出立していった早馬を止める手段なんてそう簡単にあるわけがない。たとえこの世界に魔法が存在するとしても…………
なんてことを考えている間に、「お嬢様、本当に申し訳ございません‼」と、侍女長のアダーラを皮切りに、私の専属侍女であるミラやラナ、そしてその他諸々な面々が次々と頭を下げてくる。どうやら皆揃っての呆け時間は無事終了したようだ。
しかし、この状況はまったくもってよろしくない。彼らが私に対して謝らなければならないような非は、どこにもないのだから。
「お願いだから頭を上げてちょうだい。私のことを心配してくれたのでしょう?だいたいね、二度も気を失った私が悪いのよ。だから、皆して謝らないでちょうだい」
そう、言うまでもなく、事の発端は私だ。
家の者が夜会の準備で大わらわになっている中(主に私のための支度で)、部屋で大人しくしていればいいものを、皆の邪魔になってはいけないと要らぬ気を回して散歩に出てしまったのがいけなかった。
その結果、不運にも蜂に刺され暴走した馬に蹴られそうになり、その衝撃で自分の前世を思い出し、さらには自分が乙女ゲームの悪役令嬢に転生していること知り、半日で二度も気を失ってしまった。
普通に考えても尋常ではない。
自分で言ってて、何?このぶっ飛んだ状況………と頭を抱えたくなってくる。
私だって、前世での愛読書がファンタジー小説だったからこそ、この冗談としか思えない展開を半信半疑ながらも受け入れられたのだ。
ここまでくると自分の順応性に、むしろ脱帽しかない。まさか唯一の趣味であったファンタジー小説が、このような形で役に立つ日が来ようとは夢にも思わなかった。
死んでから役に立つなんて、ちょっと複雜だけど………………
しかしだ。私の身に起こったすべてを知る由もない者たちからすれば、二度も気絶するなんて、どこか重篤な疾患があるように思えても致し方ないと思う。
だから家の者たちがお父様とお母様に、もしもの時を考え、連絡を入れようとするのは当然のことで、やっぱり責めるべきことではない。
これで責めたら鬼の所業。というか、まさに悪役令嬢の所業だ。
しかも二度目に気絶をした理由は、物理的ダメージではなく、自分が悪役令嬢であるという衝撃的事実を知ったが故の、精神的ダメージからくるもの。
さぞかしその場にいたお兄様は驚いただろうな、と今更ながらに思う。
そう思えば、お兄様の凶行も今回ばかりは仕方がないわね、と百歩譲って、いや千歩…………いやいや百万歩譲って思わなくもない。思わなくはないのだけれど……………やっぱり拉致だけは看過できないわね、と即座に打ち消す。
そして新たに浮上した問題に、私は額に手をやりながら内心で深い深いため息を吐いた。
このままではお兄様だけでなく、お父様たちまで王家の皆様に多大なるご迷惑をかけかねないわ――――――と、絶望的な気持ちになりながら。
このデウザビット王国は、王国と名が付く通り、国王陛下を君主とする国だ。
その国王陛下を宰相として支える役割を、王国に四家しかない公爵家が担っている。
そしてその治める領地の場所から、それぞれの公職家は“東の公爵”、“西の公爵”、“南の公爵”、“北の公爵”と呼ばれており、我がメリーディエース公爵家はその内の一つ“南の公爵”となる。
宰相としての任期は四年。
古からの慣習で、最初の二年は“国王の左腕”と呼ばれ、残りの二年は“国王の右腕”と呼ばれる。
つまり、南の公爵が“国王の左腕”となれば、前任の“国王の左腕”だった西の公爵が、前任の“国王の右腕”であった東の公爵から“国王の右腕”を引き継ぐ。またその二年後、南の公爵が“国王の右腕”を西の公爵から引き継げば、次の“国王の左腕”には北の公爵がなるのだ。
そのため、筆頭と名のつく公爵家は存在せず、目立った派閥争いもない。
それもそのはず。無用な権力争いなどしなくとも、望む望まないに関わらず、順々に宰相の座が巡ってくるのだから。
完全なる持ち回り制で、強いて例えるならば、学生時代の掃除当番や給食当番、日直と同じ。いや、そんなものと一緒にするな!と言われてしまいそうだけれども、当番制という観点から見れば違いはない。
したがって、公爵家同士の結束も非常に固く、有事の際には任期に関わりなく四家の公爵たちが一堂に集い、事に当たるのだ。
そして更に加えて言うと、王家と各公爵家は、それぞれ魔法とは異なる特殊能力を一族で継承し続けている。
王家は“先見”、東の公爵家は“言霊”、西の公爵家は“忘却”、北の公爵家は“読心”、そして我が南の公爵家は“幻惑”といったように―――――――
ちなみに現在、我が公爵家において“幻惑”の能力を有するのは、お父様ではなくお兄様だ。
かつてお父様も“幻惑”の能力者であったけれども、お兄様がその能力を顕現させたことにより、お父様の能力は次第に薄れ、弱まり、今や完全に失われてしまった。
それはまるで次代の能力者へとすべてを託すように、ゆっくりと穏やかに――――――って、念のために申し上げますが、お父様はまだ元気にピンピン生きていらっしゃいますからね。
それも魔法使いとしては、最強ランクの魔力量を誇るバリバリの現役として。
だからこそ今、こんな問題が持ち上がってきているわけで、私は打ち付けた痛みとはまた違う痛みを頭に感じながら、ベッドの中で自問ともとれる確認の言葉を口にする。
「――――つまりは、早馬の知らせを聞いたお父様が、有事の際のみに使用が許される王城と公爵領を繋ぐ転移魔法陣を使ってしまう恐れがあるってことね…………」
ほとんど独り言に近いその言葉を拾い上げた者たちが、一斉にコクコクと首を縦に振った。
その
むしろ一人くらい勢いよく首を横に振ってくれてもいいのではないかしらと、理不尽にもぼやきたくなってくる。
気休めでもいいから、「旦那様もさすがにそこまではされないはずですよ」とかなんとか、それなりの言葉を添えて…………
しかし、残念ながらここにいるのは、私の部屋に入ることを許されるような古参の者たちばかり。
そのためお家事情にも非常に詳しい。場合によっては、当公爵家の令嬢である私以上に。
だからこそ当然の如く皆が知っている。
お父様がその件に関して、既に前科一犯であることを。
忘れもしない。できれば前世の記憶が戻った時に、あの日の記憶も忘却の彼方へと吹き飛んでくれればよかったのにと恨めしく思うけれど、昨日のことのようにしっかりと覚えている。
そう、あれはお父様が“国王の左腕”になられた年のこと――――――――
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