第15話 9月17日(2)
お酒で喉の焼けた声で私達を睨んでいた。突然の出来事に、私は硬直して立ち尽くす。こちらに向かってくる足取りが恐怖心を煽っていた。
私の腕を強く引っ張り、後ろに下げて彼は一言だけ放った。
「走って」
私は足に結ばれた鎖が解けるように動き出すことができた。彼の言われた通り、ただあのベンチに向かって走り続けた。
後ろの方で男がガラガラとした声で雄叫びのように叫んでいるのが耳に触れる。
乱れる呼吸が走る速度を落とさせる。疲労の残る筋肉は左右の足を絡ませ、そのまま私を地面に転倒させた。焦げ茶色のロングスカートに穴が開き、擦れた場所から血が滲み出る。痛みよりも、頭の中は彼の事でいっぱいだった。
伝えられた場所までもう少しというところで私はスマホを取り出し、電話を掛けた。早く、少しでも早く助けを呼ばなければという一心だった。
「はい、事故ですか? 事件ですか?」
足を引きずりながら私は最低限の情報を電話の向こう側に一方的に伝えきる。
屋根のあるベンチの場所が見えた。ゆっくりと痛みを堪えながら、歩くよりも遅い速度でようやくたどり着く。スカートにはじんわりと赤色が染みていた。
ただ黙ってその場にいることが正解だとは思えなかった。不安から自分が今何をするべきなのか考えるも、何も浮かばない。
瞑れそうな思いが私をひたすら焦らせた。5分ほどだろうか。苦しみが時間と共に積もっていくのがわかる。両手の指を絡ませて、ひたすらに彼の無事を祈っていた。
考えに考えていると、左肩に何かが触れた。反射で見上げると、左頬を赤くした彼が立っている。
「大丈夫? 声かけたのに、反応なかったけど……。」
腫れかけた顔を見て状況が少し理解できた。
「警察の人が来てくれて、人を待たせているからって言って後を任せたんだ」
言葉を探すも、見当たらない。
「……え! どうしたの!? 血出てるよ!」
彼は私の脚を見て、自分の鞄から何かを取り出そうとした。その姿を前に、ようやく立ち上がることができた。
「……翠さん?」
私は気が付くと、彼の胸に両手の拳を押し当てて、その上から額を被せていた。涙が胸から下瞼へ込み上り、零れた。鼻をすする音だけを私は聞かせた。
「大丈夫?」
驚いたような彼は、少しだけ後退り、体重を掛ける私を支えてくれていた。
「とりあえず足洗おう。歩ける?」
肩に手を添えて彼は私を優しく離した。
そして彼の肩に掴まり、近くの水道で汚れを洗い流した。膝をついてタオルで拭き取ってくれる彼に、花火大会の日を思い出す。
私は自分の鞄からもタオルを取り出し、水で濡らして彼の頬をそっと隠すように添えた。
「……っ!」
「ごめん、痛かった?」
苦しそうな彼の表情に、反射的にタオルを離してしまう。
「ううん、ありがとう。人に殴られるのって、結構痛いんだね」
不安にさせないようにと気遣いで笑う彼に反して私は心配が増した。
「……もうあんなことしないで」
私はぼやける視界の中から、一滴の雫を零してしまった。
「……ありがとう。とにかく翠さんがこのケガだけで済んで良かったよ」
それ以上には何も言わずに、彼は絆創膏で私の膝を隠した。
「あ、いたいた。君たち、少し話聞かせてもらっても大丈夫?」
私達に声を掛けたのは、手帳を片手に持った若めの警察官だった。
「あ、はい。大丈夫ですけど……、僕だけでいいですか?」
涙目のまま警察官と顔を向け合うと、全てを察してくれたようだった。
「うん、大丈夫だよ。じゃあ君だけこっちに来てもらえる?」
「はい、わかりました。翠さん、ちょっとベンチで待ってて」
私は言われるがままに、再び夜景の眺められるベンチへと腰かけた。気が付くと雷をちらつかせていた雲は居なくなり、何も変わっていなかったのは街並みを静かに照らす月の光だけだった。
脈が波打つ度に痛む絆創膏の下が、私に現実を知らせているようだ。
彼の話に警察はただ手帳にペン先を走らせ、私はただもう一度、待つことしかできなかった。
「ごめんね、お待たせ」
私はもう、疲労からか、笑うことができなかった。
「警察の人に話したら、駅まで送ってくれるって」
私を見つめる瞳に、何も考えられなかった。頭がぼうとする。
彼の腫れた方とは逆の頬に手を伸ばした。私は彼が大好きだ。この事実だけは紛れもない本物だった。
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