弐拾:ポピー

「あの小学生くらいの子、もう二時間もあの絵を見てるよ」

「……紅太。もう生者と死者の区別がつかないほど、視えるようになったんだね」

「え、え?」

「ほら、よく見てごらんよ」

 エレクトラムの忠告通りよくよく見ていると、何人もの人間が男の子を通過している。

「……本当だ」

慈琅じろうさんは今日いないの?」

「あとから来るよ」

「もしかして……、待ち合わせのために入館料払ってるの?」

「うん。だって、エリーがいるから安全なんだもん」

「まぁ、そうかもしれないけど……」

 紅太はつい最近霊能力者としての力を強制的に開花させられた〈人間〉。

 雇い主は〈鬼〉の慈琅。

 二人は魂魄を繋いでいる〈糸〉を結い直したり、さ迷う幽霊を保護したりする〈結弥屋むすびや〉という職業に就いている。

「最近さ、幽霊むこうも僕が視えていることを認識しだしたみたいで。近づいてくるんだよ。それで普通に話してると、道行く人たちが怪訝な顔するんだ。そりゃそうだよね。普通の〈人間〉からしたら、僕は虚空に向かって独り言を話す変な奴だもん。だから、疲れた心を休めるためにエリーに会いに来てるんだよ」

「大変だねぇ。仕事上、無視するわけにもいかないもんね」

「そうなの。だからどんどん働く時間がずれこんでいって……。夜になっちゃった」

「いいんじゃない? 幽霊といえば夜って感じだし」

「そうだけど……。はぁ……。やっと就けた仕事なのになぁ」

「まぁ、ゆっくり慣れていこう」

「それもそうだね」

 二人で話していると、慈琅が今日も胡散臭い笑顔を浮かべて「遅くなってごめんね!」と言いながら近づいてきた。

「今日はどこに行くんですか?」

「樹海だよ」

「あ……。なるほど」

 慈琅は「珈琲飲みながら作戦立てようか。エリーくんもどう?」と誘ってきたが、エレクトラムは丁重に断った。

 二人を喫茶室へ見送ると、エレクトラムは絵の前に立つ少年に話しかけた。

「この絵が好きなの?」

 花畑の左側に立つ美しい女性。

 その視線の先にあるのは煌めく朝陽と切ない夕陽が混ざる不思議な空。

「うん。ママの血が使われているんだ」

「あ……。そうなの?」

「そう。殺されたのに、誰も探してくれない。僕のことも」

「……どうやってここまで来たの?」

 エレクトラムが訊ねると、少年はいくつかの花を指さした。

「このポピーは僕の血で描かれてるんだ。だから、いつでもここに出て来られるんだよ」

 少年はニコリと微笑んだ。

「わたしが君とママを探しに行くよ。何か覚えていることはある?」

「犯人はパパ。ここのオーナーさんのお友達だよ。絵を売る仕事をしているんだ。僕も一回だけついてきたことがあるの」

「……わかった。じゃぁ、先にママのところへ行って待っていてくれる?」

 少年はゆっくりと考えて意味が分かったのか、少し寂しそうにうなずいた。

「ばいばい。星になってくる」

 そう言うと、少年はすっと光の粒となって消えていった。

 エレクトラムは手を振りながら見送った後、すぐに四月朔日の元へ向かった。

「オーナー……」

 休憩室の中、四月朔日は目に涙をためて拳を握り締めていた。

「どうして相談してくれなかったんだ」

 声が震えている。

 その先にいるのは、ソファにもたれかかるように腰かけた、すでに意識が朦朧としている男性。

 清潔感のある凛々しいスーツ姿とは裏腹に、ひどく疲労しているようだ。

「まだ三十代という若さで、妻が寝たきりになった。美しい盛りなのに、自分で排泄のコントロールすら出来ず、彼女は心が壊れていった。そしていつしか僕と目が合うたびに、人工呼吸器で出なくなった声の代わりに口を動かして言うんだ。『あなたが私を綺麗だと思える姿のまま、殺してください』って」

 四月朔日の頬を、大粒の涙が伝った。

「尿道に繋がる管のせいで、好きな服も着られず、彼女はただただ体重を維持するためだけに栄養を鼻から摂取する日々。震える手のせいで、自分で口紅すらつけられなくなった日、彼女は心を殺した。笑わなくなったんだ。ただ一言、口だけを動かして『生きている意味が解らなくなった』と」

 男性は大きく息を吸うと、涙を流しながら笑った。

「だから、望みをかなえた。僕もすぐに後を追うつもりで。頼む、四月朔日さん。妻と息子の葬儀をしてくれないか。簡単な防腐処理をして、ベッドに寝かせてあるんだ。僕のことは自殺ほう助と殺人で警察に通報してくれ。警察がつくころには……、もう……」

 男性は意識を手放し、次第に弱くなる鼓動と呼吸。

 数分後には、完全に生命活動を停止した。

「馬鹿野郎。本当に……」

 四月朔日は親友の遺体を前に泣き崩れ、それでも、必死で机にしがみつきながら、受話器を取った。

「オーナー、あの」

「あ、ああ……。もしかして……」

「息子さんの幽霊に会いました」

「彼の息子さんも脳の病でね。余命宣告されていたんだ。彼は……、奥さんの言葉で自分が壊れていることに気付かなかったんだろう。こうすることが正しいと、思いこんでしまったんだ。私に話してくれていれば、救えたかもしれないのに……」

 四月朔日は警察に連絡し、力が抜けたように床に座り込んだ。

「生きていてくれるだけでいい。愛していればそう思うのは必然だ。でも、その言葉が時に、相手から生きがいを奪ってしまうこともある。『生きているだけの状況に、何の意味があるのか』って。だから、言葉は難しい。根気よく伝えていくしかないんだ。愛しているってことをね」

 サイレンの音が聞こえ、警察官が鑑識と共にやってきた。

 指紋採取の粉が舞う。

 事情聴取や現場検証。

 淡々と進む感情の無い作業。

 でも、担当の刑事が言った言葉が、四月朔日の心を救った。

「彼はきっと、一欠片ひとかけらだけ残っていた勇気を、ここに来るために使ったんでしょう。世界で唯一、あなたに直接『さよなら』を言うために」

 現場の状況から見て、男性はあらかじめ毒を飲んでから来たようだ、と鑑識が言っていた。

 下着の代わりにおむつを身に着け、亡くなった後に排泄してもその場を汚さないよう配慮までしていたという。

 エレクトラムはただ現場に居合わせただけだということが証明され、仕事に戻っていいと言われた。

 四月朔日は調書の作成に警察署へと行くらしい。

 「数時間で帰ってくる」と、力なく微笑んだ四月朔日は、警察の車両で博物館を後にした。

 問題の絵画は、後日警察が証拠品として引き取りに来るという。

 エレクトラムは自然と足がその絵画へと向いていた。

「怖かっただろうな。父親に命を奪われる瞬間……」

 ただ、父親の気持ちが感じ取れないわけではない。

 妻と息子が明日も無事に目覚めてくれるだろうかと思いながら過ごす毎日。

 人工呼吸器は外れるとけたたましいアラームが鳴る。

 命を繋ぐ大事な装置だから。

 介護士も訪問看護師も帰ってしまった夜、寝たきりの家族が頼れるのは自分一人。

 その状況で、心を強く保ち続ける力。

(孤独で、過酷で、哀しくて、苦しくて、それでも生きていてほしいと強く願い祈り続ける。壊れない方が難しいのかもしれない)

 その時、絵画から強い風が吹いた。

 豊かな花の香り。

 エレクトラムの隣に、絵画の中の女性が立っていた。

「望みは全て叶ったんですね」

「勘のいい子ね」

 女性はとても美しい顔で微笑むと、絵画に触れた。

「あの人も、あの子も、私のものよ。誰にも渡さない」

「旦那さんの良心と愛、それに、罪悪感に付け込んだんですね」

「それの何が悪いの? 私が死んだら、あの人はきっと浮気相手と再婚して、私の大事な子を看取って、新しい家庭を作るつもりだったのよ。そんな悪夢、叶えさせるわけないじゃない」

「そのために自分の命と子供の命を奪わせるなんて、正気じゃありませんよ」

 女性は絵画の中に戻りながら、ポピーを一輪摘むと、大事そうに抱きしめた。

「君にはまだわからないでしょうね。これが私の正しい愛のカタチなのよ。ふふ」

 血のにおいが混ざる空気の揺らぎの後、絵画は元通りになっていた。

 ただ一つ違うのは、女性が完全にこちらを向いているということ。

 勝ち誇ったような、笑顔を浮かべながら。

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