二十一時の博物館
智郷めぐる
壱:キンコンカンコン
トイレが流れる音。
扉から出てすぐ目に入った時計の針は、いささか急ぐべき時間を示していた。
「あ、もう二十時だ。そろそろ向かわないと」
エレクトラムはまだ眠さの残る目をこすり、ソファから降りて洗面台へ向かうと、冷たい水で顔を洗った。
「ぷはぁ。昨日は疲れてそのまま寝ちゃったからなぁ……。お風呂入ろ」
着替えとタオルを用意してから、シャツとズボン、下着を脱ぎ、洗濯機に放り込むと、すぐ隣にある扉を開けてお風呂場へと入って行った。
十五分くらい経っただろうか。
エレクトラムは身体を拭いて着替えを済ませ、洗濯機に洗剤と柔軟剤を入れて時間をセットし、スイッチを押した。
ゴウンゴウンと動き、洗濯機が洗濯物の量を計算している。
大雑把な性格故に、表示される数字を見たことはない。
洗剤も柔軟剤も、適当だ。
「帰ってくる頃には終わってるでしょ」
エレクトラムは艶やかな黒髪をさっとタオルドライすると、杏油を少しつけ、櫛で整えてから、一本の三つ編みに結った。
鏡に映る自身の耳には、琥珀色の目と同様、いくつかのピアスが煌めいている。
「これでよしっと」
もうすぐ、出勤の用意が整う。
制服のようなものは特にはない。
ただ、首から入館証を下げ、腕章を左腕につけるだけだ。
今は十月。しかも夜。
外に出れば、息は白くなり、身が縮こまるほど寒い。
これから出勤する場所はあまり暖房が効いたところではないため、薄着にコートよりも、厚着にブルゾン、マフラーをするほうがいい。
エレクトラムは白いシャツに黄色のカーディガンを着ると、その上にお気に入りの黒いブルゾンを羽織った。
マフラーはモフモフとした白とグレーのチェック。
ズボンは裾が少し窄まっているベージュのカーゴパンツ。
茶色の撥水ブーツに合わせるのは黒い長めのソックス。
今日は深夜から雨が降るらしい。
休憩の時に外に出るかもしれないから、雨用の靴を履いて行くのが無難だろう。
焦げ茶色の革鞄に空のタンブラーや文庫本、タブレット端末や鍵などを入れ、ズボンのポケットにハンカチ代わりのバンダナとスマホを入れれば準備は完了。
「じゃぁ、行こうかな」
玄関でブーツを履き、扉を開けて外へ出ると、頬に冷たい風が当たった。
「さむーい」
職場まではゆっくり歩いても徒歩で十分。
鍵を閉め、外階段を二階分降り、エントランスを出た。
五十年という築年数を感じる茶色いタイルのレトロな外観は、エレクトラムのお気に入りポイントだ。
その分、家賃も安い。
借り手がつくようにと、水回りが綺麗にリノベーションされているというのも素晴らしいところ。
「……仕事に行くのはわたしだけか」
今の時間は残業を終えて帰宅の途に就く大人や、予備校の授業終わりの高校生が多く歩いている。
それもそのはず。二十時過ぎといえば、本来ならば家に帰る時間。
人の波に逆らうように、エレクトラムは歩いて行く。
エレクトラムが働いているところは、二十一時から開館する不思議な博物館。
帰れない人、帰りたくない人、一人になりたいけれど独りは不安な人、一時的な居場所が欲しい人、ただ始発までの時間をつぶしたい人など、様々な人が来館する。
博物館内には喫茶店もあり、美味しい珈琲や紅茶、果物のジュース、軽食が楽しめる。
そんな博物館でのエレクトラムの仕事は発掘現場における〈魔法魔術技能士〉だ。
現代では珍しい魔法使いであるエレクトラムは、世界各地に赴き、普通の人間では発掘不可能な遺物や文献を探し出す仕事をしている。
持ち帰った特殊遺物は博物館で分類され、研究され、その過程で保管されたり、展示されたりする。
発掘の仕事がないときは、プロの学芸員に混ざって博物館で働いている。
大抵は館内の見回りが主な仕事だが。
「着いた着いた」
真っ白な外壁にお城のような飾り窓。
屋根は青銅色だが、夜は暗くて少しわかりにくい。
博物館のオーナーは古いもの好きというか、アンティークが好きで、博物館の敷地内にあるライトは十八世紀ごろのガス灯を電球でも使えるようにリメイクしたもの。
そのような感じで、調度品のほとんどは丁寧に修復されたアンティークでそろえられている。
エレクトラムはあたたかなオレンジ色の光の下を歩き、門から入って従業員用入口へ回り、そこから中へと入った。
「おはようございます」
「おお、おはよう。ラブラドル君」
まるで古い洋館の図書室のような休憩室は、従業員からの評判も高い。
その中でも特に重厚な机に向かって書類仕事をしているのが、オーナーの
母親がイギリス人らしく、東洋風の顔立ちに緑色の目と薄い髪色がかっこいい、いわゆる
着ているグレンチェックのスーツが良く似合っている。
「今日は先生も来てくれるらしいから、よろしくね」
「あ、
七五三先生とは、近くの大学病院の精神科で教授をしていて、ボランティアでカウンセリングもしているとてもいい人だ。
ここ、〈二十一時の博物館〉には、様々な問題を抱えた来館者も居場所を求めて多く来る。
開館している平日の二十一時から最寄り駅の始発の時間まで、来館者が途絶えたことはない。
そんな人たちのために、
三年前から週一回、七五三先生がボランティアで来てくれるようになったのだ。
「来館者へのチラシ配りよろしく」
「任せてください。全員に配ります」
「さすがはうちのエース職員!」
「ふふふふふ」
「ちょっと、オーナー! いつもラブラドルだけ甘やかしすぎですよ!」
扉を開けて出勤してきたのは、博物館の本物のエース職員にして敏腕学芸員の星山 梓。
専門は古生物学で、都内でも一番有名な名門大学で博士号を取得した女傑だ。
「え、そ、そうかなぁ……」
四月朔日が困ったように微笑んでいるのも無視して、星山はエレクトラムをじとっと睨みつけた。
「あのねぇ、ラブラドル。昨日あんたが書いてた遺物の所見、字が汚すぎる」
「す、すみません……」
「タブレット持ってるんならタイプしなさいよ」
「そうします……」
星山は仕事に厳しくとてもきっちりしている。
口調は怖いが、普段はとても優しく、来館者からの人気も高い素敵な人なのだ。
怒らせるエレクトラムが悪い。
「じゃぁ、私は今日研究日なので、地下にこもってますね。何かあったら呼んでください」
「いつもありがとう星山君」
「いえいえ」
三人が雑談していると、続々と学芸員やその他従業員が出勤し、賑わってきた。
「じゃぁ、それぞれ清掃員さんに挨拶してから仕事を始めようか」
「はいっ!」
この博物館の清掃員は特殊な資格と技術を持っている人で構成されている。プロ中のプロ。
なぜならば、展示物の中にはエレクトラムが発掘してきた呪物なども多く、霊感の無い普通の清掃員では太刀打ちできないからだ。
来館者が安心して見学できるよう、清掃員は開館の直前まで結界の確認をしてくれている。
清掃以外にも、来館者の命に係わる大事な役割があるのだ。
「さぁ、今日も開館だ!」
館内にキンコンカンコンとチャイムの音が流れた。
そのあとは、
来館者に緊張することなくリラックスして過ごしてもらえるようにとの配慮だ。
「さぁ、配るぞぉ!」
エレクトラムは黄色いカーディガンを腕まくりし、いつものように笑顔で館内へ向かっていった。
最初に行くのは休憩室から一番近い、西洋絵画の展示室だ。
「……袖まくると寒いな」
するすると袖を降ろし、しっかりと腕章をつけ、首から下げた入館証を警備員に見えるように表向きにして歩く。
開館して十分もすると、ちらほらと来館者の姿が見え始める。
先ほど、全員にチラシを配ると言ったが、それには少し言葉の綾がある。
(あの赤いコートのお姉さん、絵を見てるっていうよりも、絵の中の物語に魅入っているって感じだ……。共感しているのかも)
エレクトラムは女性に近づき、チラシを渡しながら言った。
「二十二時から喫茶店でカウンセリング体験ができますので、もしお時間あったらご参加ください」
すると、女性は目にうっすらと涙を浮かべ、頷いた。
「なんでも……、なんでも話していいんでしょうか」
「もちろんです。珈琲や紅茶を楽しみながら参加できますよ」
「……ありがとうございます。行ってみます」
女性は少しだけ微笑むと、喫茶店がある方へと歩いて行った。
「悩み、少しは晴れると良いな」
女性が立っていたのは、
川岸に立ち、遠くの星空を眺める女性の姿が俯瞰で描かれているこの絵。
作者はこの絵を描き終えたあと、病死した恋人の後を追って自殺している。
そのような背景を知らずとも、この絵には重く辛い悩みを抱えている人を惹きつけてしまう魅力のようなものがあるらしい。
エレクトラムはこの絵の前で佇む人には必ずチラシを渡すことにしている。
それくらいしか、出来ることはないから。
次にエレクトラムが向かったのは呪物が展示してある部屋。
ここにあるものはすべてエレクトラムが発掘してきたものだ。
人間は恐ろしいものに好奇心が動くのか、人気の展示となっている。
ただ、聞こえてくる来館者のつぶやきの方が猟奇的なことが多い。
「部長に使いてぇ……」とか、「あのお局、これで辞めさせられないかな」とか、「家族もろとも不幸にしてやりたい……。ひひひひひ」とか。
大変特殊な人間観察を楽しめる展示でもある。
大体の人はそういった会話や発言でストレスを発散出来ているのだが、そうでもなさそうな人にはチラシを渡すことにしている。
友人や家族には言えないことでも、カウンセリングでなら話せることも多いからだ。
次に向かったのは宝飾品の展示室。ここは警備員が常時四名立っている。
オーナーの
価値ははかりしれないという。
もちろん、中にはいわくつきのものもある。
だから家ではなく博物館に収蔵しているのだ。
十五カラットのピジョンブラッドルビーがついたダイヤのネックレスは、「目の前に立つと幽霊の声が聞こえてくる」と噂があり、人気がある。
(まぁ、実際この展示室だけやたらと浮遊霊は多いけど)
もちろん、来館者に憑りつかないよう、清掃員たちが張った結界が護っている。
次は日本画や浮世絵を含んだ東洋絵画の展示室だ。
ここは正直言って、エレクトラムでもとても怖いと感じる。
なぜなら、四月朔日が買いそろえた作品のすべてが、幽霊や妖怪の
もちろん、滑稽な描き方をされている可愛らしいものもあるが、作者の血液が混ぜられた墨で描かれた幽霊画もある。
気のせいではなく、この展示室には画に憑りついている霊が住んでいるので、室温は他の部屋よりも二度は低い。
「あとは二階。化石の展示室と動物の剥製がある展示室、武器防具の展示室か」
エレクトラムはゆっくりと歩きながら全展示室を回って行った。
今は企画展示をやっていないので、三階に行かなくて済む。
階段の上り下りを一日に何往復もするのは良い運動にはなるが、帰るころには足がパンパンに疲れてしまう。
(休憩時間になったらすぐに珈琲貰いに行こう。食べ物は、コンビニで何か買うか、マスターにサンドイッチ作ってもらうか……)
従業員はいつでも喫茶店で好きな飲み物をもらうことが出来る。会計は
喫茶店のマスターは五つ星ホテルのバリスタをしていた人で、
なんでも、奥さんと始めた珈琲豆農場の経営が上手くいきすぎて、お金を稼ぐことに興味を失ったらしい。
農場がある国との時差が十二時間あるため、奥さんも超夜型の生活をしているから時間的にもちょうどいいんだとよく話している。
エレクトラムが何人かにチラシを渡し、階段を降りていると、ちょうど館内放送が一分間だけとあるゲームの戦闘音をクラシックに編曲したものが流れた。
「行かなきゃ」
この曲は、チケット売り場からの
夜中に運営している施設なら、どこでも経験したことはあるだろう。
そう。厄介な部類の酔っぱらいの襲来だ。
エレクトラムが急いで向かうと、四人のサラリーマンらしき男性たちがチケット売り場の従業員に絡んでいた。
「なんで俺らは入れないんだよぉ!」
「お客様は神様だろ⁉」
従業員も慣れているので、「こちらの案内板に書いてあります通り、過度に飲酒している方のご入館はご遠慮いただいております」と笑顔で応えている。
「はあ⁉ そんなの、見ただけで分かんのかよ!」
「金は払うって言ってんだろ!」
一人の男性がチケット売り場のアクリル板を殴ろうとしたその時、男性の身体が後方に吹き飛んで二メートル上昇した。
「え! えええ! え⁉」
他の三人は口を大きく開け、唖然として固まっている。
「お客様、乱暴はおやめください。このまま交番にご案内してもいいんですよ」
エレクトラムは身長ほどもある杖を持ち、男性たちの前に立ちはだかった。
「ま……、魔法使い⁉」
「そんな……」
「か、帰るぞ! おろせよ! 帰ればいいんだろ!」
「ひぇえ……」
エレクトラムは浮かばせていた男性を降ろすと、四人は逃げるように走り去って行った。
「大丈夫でした?」
すぐに振り返り、チケット売り場の人々に駆け寄る。
「いつもありがとう、エリー」
「月島さん、エリーって呼ぶのやめてくださいってば……」
「あはははは」
月島
専門は四月朔日がどうしても来てほしかったという、東洋宗教美術。
貴重な人材をあんな酔っぱらいたちのせいで失うわけにはいかないのだ。
「また何かあったら呼んでください」
「うん。そうするよ」
エレクトラムは一度周囲を見回してから館内へと戻って行った。
(他にチケット売り場に並んでいる人がいなくてよかった)
この〈二十一時の博物館〉は、居場所を求める人のために開かれている場所。
そういう人が入りにくくなってしまうのは困る。
「そろそろ休憩の時間だ。喫茶店行こうっと」
休憩室へ寄り、タンブラーを持って喫茶店へ向かうと、先ほど絵画の前で佇んでいた女性とすれ違った。
その顔はどこか安心したように血色が戻っており、手には名刺を大事そうに持っていた。
(
もちろん、すべての人がカウンセリングで心が晴れるとは限らないけれど、誰かに話せる余力があるうちに行動することは大事だ。
何事にも、きっかけは必要だ。
「マスター、珈琲ください!」
「お、エリー。お疲れ」
エレクトラムはタンブラーを渡し、カウンターの空いている席に座った。
今も七五三先生の前の席には人が座って話を聞いてもらっている。
珈琲のいい香りとジャズの優しいメロディで満たされた空間は、きっと誰かの救いになるだろう。
エレクトラムはあたたかい珈琲が入ったタンブラーを受け取ると、外へと出ることにした。
コンビニは横断歩道を渡ってすぐそこ。
冷たい風を頬に感じながら、小走りで向かった。
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