第7話 ずっと彼女のターン。


 それからの瑞帆は間違いなくこの数か月間で、一番頭を使っていた。


 「そしたら…弥刀代さんは、普段は外国の研究所で人の感情について研究していて、今はそのフィールドワークのために日本に来ていて、表向きには探偵事務所として恋愛がらみの相談を主に受けている…ということで合ってますか…?」


あの後ユウ…ではなく紅亜が語った話はよくわからない専門用語やら英語やらが多すぎて、瑞帆にはその内容の半分も理解できなかった。なんなら瑞帆が頭に「?」を浮かべて聞いているのを面白がり、紅亜がわざとそうしていたのではと思ったくらいだ。

それでもどうにか理解しようと頭を抱えながら必死に食らいついた結果が、瑞帆が先ほどまとめた内容だった。

すると紅亜は、少し予想外といった様子で頷いた。


「大体そんな感じね。正確には私の専門は神経科学で、研究テーマは人の好意的感情の操作可能性についてだけど…って、もうそんな細かく話す必要はないわね。時間もないし」


飽きてくれたのか、それとも喋るのに疲れたのか。紅亜が難しい話を止めてくれたことが、正直瑞帆にはありがたかった。ただでさえ情報の多さに混乱しているし、何より瑞帆が一番知りたいのは、小難しい学問の話ではないのだ。

しかし――


「じゃあ、私の話はこれで終わり。最後に何か聞きたいことは?質問は1分以内でね」

「い、1分!?」


先手を打たれてしまった。

聞きたいことは山ほどあったはずなのに、「じゃあ、スタート」という紅亜の言葉に焦ったせいで、全部どこかに飛んで行ってしまった。

完全に遊ばれている。


「えっとそしたらその、弥刀代さんは僕よりずっと年上?」


何でもいいから訊かないと、慌てた結果そんなことを訊いてしまった。紅亜が眉をひそめる。


「最初から随分失礼な質問ね。私はまだ18歳だけど、そんなに老けて見えた?」

「全然そんなことないですすみませんごめんなさい。でも研究ってことは、かなり年上なのかなって思って」

「アメリカで飛び級して、去年博士号とったから。あっちでは別に珍しいことじゃないけど」

「へ?普通にすごくないですか…」

「どうもありがとう。あと30秒」

「えええそれじゃあ、こっちで高校は?」

「なんで通う必要があるのよ。くだらない質問で時間を無駄にしたわね。あと20秒」

「あ、えっと、じゃあ仕事っていつもどんなことを…?」

カウンセリング面接フィールドワーク調整。『両想いになりたい』とか『彼氏・彼女とよりを戻したい』とかいった要望を最短で達成するためのプランを提案したり、時には直接相談者と対象との関係にテコ入れしたりするの。例えば今回、私があのクズ男に近づいたみたいにね」

「それって今回みたいなことをいつもしてるってことですか!?」

「だったら何?」

「だってそんな…危ないこととか、」

「仕事はちゃんと選んでるし、そもそも私の研究に有益な案件しか受けてないからご心配なく」

「でも…」

「はい、1分経過。質問はこれで終わり」


手元の時計を見て、紅亜は瑞帆の言葉をバッサリ切り捨てた。


(そんな、全然足りない。聞きたいことも話したいこともまだたくさんあるのに――)


そう思った瑞帆だが、口には出せなかった。紅亜には、相手に有無を言わせない強引な雰囲気というか、逆らい難い威圧感がある。にもかかわらず、全く不快でないのだから不思議だ。

それに――


「……と、いうわけで。あなたにも事の重大さが十分わかったところで、今回の仕事についての話だけど。さぁて、どう責任を取ってもらうのがいいかしらね」


そう、これだ。このために自分はここに連れてこられたのだから、「もう少し聞きたいことが…」なんて図々しいことが言えるわけがない。

とはいえ。


「でも今更だけど、あなたに何かできそうなことがあると思えないのよね」


紅亜があっさりとそう言い放った。

しかし、実際その通りだ。自分が邪魔をしてしまったことで、紅亜がかなりの損失を被ったらしいことは理解した。けれど彼女の仕事で、自分に何か手伝えることがあるとは到底思えない。

かといって、「お金で解決」なんて話になっても困る。バイトはしていないから自由になるお金は少ないし、こんなこと絶対に親には言えない。出したくても出せるものが何もない。


「あの、雑用とかなら…なんでもやります」


ゆえに、瑞帆にはそれしか言えることがなかった。

するとそれまで静かにしていたなゆたが、待ってましたと言わんばかりに「ハッ」と嘲るように笑った。


「師匠、無駄ですよ。これは自分から『何もできない』って言ったようなもんです。こいつはここに要りません今すぐ追い出しましょう」

「あなたの意見は聞いていないの。でもそうね…雑用はなゆた1人で間に合ってるし」

「その通りです!使えないやつにわざわざ仕事つくるよりも、オレ1人に全部――」

「でも、きっと何か面白い使い道があると思うのよね」


紅亜はきゃんきゃんと吠えているなゆたを無視して、瑞帆の顔をじっと見始めた。

突然無言で見つめられると、目のやり場に困ってしまう。顔がだんだんと赤くなっていくのを感じ、瑞帆は耐え切れなくなって目を逸らした。

しかしそれとほとんど同時に、紅亜もデスクを降りて瑞帆の目の前にしゃがみこんだ。そして顔にかかっていた瑞帆の前髪を、さっと手ですくいあげる。

瑞帆の息が止まった。距離が近すぎる。前髪を上げられたせいで紅亜の顔がさらによく見えて、心臓に悪い。

髪を切りに行くのが面倒で、いつもギリギリまで先延ばしにしてしまっていた。だから最近は前髪がほとんど目にかかるくらいまで伸びてきてしまっていたのだが、それが良くなかった…いや、良かったのだろうか。こんな近くに紅亜がいるなんて。

瞬きで揺れる長いまつ毛と、魅惑的な茶色い瞳。吐息が漏れる艶めいた唇。そしてどこからかふわっと漂ってくる、どこかエキゾチックな甘い香り…


供給過剰によるキャパオーバーで、完全にフリーズする瑞帆。

しかし一方の紅亜には、何か思うところがあったようだ。


「ふーん…なるほど?」


少し意外そうな、それでいて楽しそうな声が聞こえた。

何が『なるほど』なんだろう…顔が赤くなっているのをからかわれているのだろうか。そうだとしたら恥ずかしすぎるし辛すぎる。


『勘弁してください…』。その言葉が瑞帆の喉元まで出かかった時、事務所のドアが2回、遠慮がちにノックされる音が響いた。


「あの…失礼します。予約してた井原です」


ゆっくりドアが開かれる。入ってきたのは、瑞帆と同い年くらいの大人しそうな女の子だった。



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