第5話 藤森あやめは出向する④
「ところで今後の計画についてお尋ねしたいんですけど」
あやめは昼休憩の時に実岡に問いかける。本日もレジャーシートにあやめ特製弁当を広げての昼食会だ。ご馳走になってばかりでは申し訳ないとのことで飲み物は実岡が用意することになった。実岡の家は畑のすぐ向かいにある中古の一軒家だ。近くて羨ましいなとあやめは密かに思っている。あやめの家は一時間は車を走らせないといけないので、少し不便だった。
コップを手に取りゴクリと喉を鳴らすと、疲れた体に冷たい麦茶が染み渡る。
「どんな野菜をどのくらい育てる予定なんですか?」
初めに聞かなければならないことであろうが、何分心の距離を縮めるべく作業を優先してしまっていた。というわけで、三日目にして初めてのこの質問である。
「育てるのはとうもろこし、ピーマン、なす、トマトにズッキーニ、きゅうり、かぼちゃ、ニンニク。珍しいところだとロメインレタスにルッコラ、ビーツも試そうかなと思ってるよ。年間通して育てたい作物はビニールハウスで育てる」
「たくさんありますね。まあ、農業先達者の実岡さんがいれば余裕ですよね!」
あやめが明るく言うと、実岡が力なく肩を落とした。
「それがそうも簡単にはいかないんだよな。俺が自分で頑張って育てた野菜は天候不良や害虫にやられて半分くらいがダメになった。一、二年目は土壌と堆肥作り、三年目に作った野菜はほとんど全滅、四年目はなんとか上手くいってJAS規格を取得できた。五年目は野菜づくりはともかくとして売りさばくのに苦労した。そうこうしているうちに貯金が底を尽き暮らしが立ち行かなくなって、アジーレに拾ってもらった格好だ」
実岡は肩を落とす。経験者が言うと重みが違う。実岡は本当にこの五年間苦労したんだなとぼんやりと思った。
「なるほど」
「でも今回からは販路開拓を気にしなくて良くなったから気が楽だよ。藤森さんもいるしね」
「微力ですが私も貢献できるよう、努力しますね」
宣言通りにあやめは努力を続けた。
実岡が五年かけて蓄積した知識に基づいて栽培し、あやめも野菜の世話をする。有機JAS規格というものは修得したらはいおしまいというものではなく、継続して記録をつけ続ける必要があった。
いつに種をまき、どんな栽培をしたのか。いつ収穫をしたのか。
膨大な量の野菜を育てるということは全ての記録をつけることが求められる。実岡とあやめは作業が終われば、夕方に向かいに建っている実岡の家に上がり込んでPCに向かって記録管理をつけ続けた。
日々が過ぎていくうちにあやめも何が大変なのかを理解していった。
農薬が散布出来ないということは、雑草駆除や害虫対策も他の手段でなんとかしなければならない。
作物ごとに寒冷紗を使ったりわらを敷いたり、ビニールのトンネルを被せたりと細々とした対応をする。
蒔いた種や芽を出し、植えた時にはほんの小さな苗だったものはニョキニョキと茎を太く長く太陽に向かって伸び、葉が青々と茂り、花蕾が出来る。
そしてそれと同時に問題が増えて行った。
「実岡さん、小さい虫がびっしりととうもろこしの葉についてるんですけど……アブラムシってやつですか?」
「ああ、アブラムシだね。駆除しないと他の苗にも移って大変なことになる」
「かぼちゃの葉っぱが白いです」
「うどんこ病だな、有機JASにも使える殺菌剤を撒こう」
「なんかきゅうりの葉っぱが虫食いだらけです。実もちょっとかじられてるみたい……アオムシいますね」
「しまった、駆除しよう」
そんなことをしているうちに日々が過ぎていく。
実岡がいくら農業経験者だと言っても、それだけで楽勝に作物が育つわけではないことをあやめは痛感した。
天候は年によって変わり、その年その年で違う問題が発生する。
長雨の年もあれば冷夏の年もある。逆に酷暑で作物が育たない年もあるのだ。地道に対策を重ね、時には天に祈り、そうして出来る限りの対策を施すしかない。
「野菜を作るってこんなにも大変なことだったんですね、私全然知りませんでした」
弁当に入っているインゲンをつまみ上げながらあやめはしみじみと言う。このインゲンにしたって、誰かが手塩にかけて育てたものなのだろう。作物の尊さを、ありがたみを、あやめは日を追うごとに実感していった。
「農家さんいつもありがとうございます」
インゲンを通じて、インゲン農家へとお礼を言うあやめ。全ての一次産業者に感謝だ。
口に含めばポリッともカリッともシャキッとも言えない独特な歯ごたえのインゲン、そしておかか醤油の絶妙な味わい。作業で汗とともに流れ出た塩分が体に補給されていく。
「今日も藤森さんのお弁当は美味しいな」
実岡も笑顔であやめの作った弁当をつついている。
「豚肉のアスパラ巻き貰うよ」
「どうぞどうぞ、それは自信作です」
「いつもありがとう。いつも麦茶しか持って来ていなくて申し訳ないから今日は焼きまんじゅうを用意してみたよ」
言いながら実岡は紙の箱を取り出した。ふたを開けるとそこには串に刺さったのっぺりとした丸い饅頭に味噌を塗りたくった、群馬名物味焼きまんじゅうが顔を覗かせる。
ここで女子受け確実なスイーツではなく焼きまんじゅうを用意するあたりに実岡の不器用さが窺い知れるというものだが、彼は焼きまんじゅうが好きなのでこれは彼なりの親切心からくるチョイスだった。
「焼きまんじゅう食べたことある?」
「無いです、これってどうなってるんですか?」
「中身が入ってない肉まんみたいなものに甘じょっぱい味噌が塗ってあるんだ」
「へえー、面白いですね」
興味津々と言った様子であやめが手を伸ばして串を一本手に取った。
ためらわずにパクリとかじりつく。
「んん、美味しい!」
「よかった」
「おまんじゅうがフカフカですね。お味噌が焦げたところも美味しい」
見ているこちらまで幸せになりそうな笑顔を浮かべ、焼きまんじゅうを食べるあやめ。実岡もつられて笑顔になる。
平和だ。
私、ここに異動になってよかったとあやめは心から思う。
何かを、具体的には過去の失恋を忘れるために仕事に没頭してきていたが、ここではそんな邪な気持ちは洗い流されていく。日々育つ植物を見ていると心が浄化され、陽の下で体を動かしていると余計なことは考えなくて済む。疲れているから夜だってぐっすりだ。
農業、最高!
「あ」
と、あやめは一台の車が近づいてくるのを見つけた。この辺りでは滅多にお目にかからない黒塗りの高級車は否が応でも目立つ。
「こんなところにポルシェ?」
「あれはうちの社長の車ですね」
「え、俺があった時にはアウディに乗ってたけど」
「最近買い替えたらしいですよ。社長、車が好きなんです」
社長の車に関してはともかく、なんの連絡もなく社長が来るなど一体何事だろう。
そう思っていると、車からはスーツを着込んだ社長といつも一緒にいる専務が降りてきた。
「やあ、藤森くん……って、藤森くんかい?」
「はい。こんな格好ですみません」
「いやいや、いやぁ、随分と変わったね」
全身を泥にまみれた農作業着姿のあやめを見て社長と専務が驚く。
「現場のことを知るには自分でやってみるのが一番かと思いまして」
「ああ、実に君らしい発想だね」
「それで、作業の進捗はどうなんだ?」
キビキビと問いかけて来るのは専務の方だ。パリッとスーツを着込み、メガネをかけ、タブレットを手に持っている。相変わらず頭頂部が寂しげであり、全体の雰囲気としてはお洒落なOLに顧客ターゲットを絞っているトラットリア アジーレに似つかわしい人物とは言えない。
さもありなん。社長も専務も別にお洒落OLに人気のイタリアンレストランに興味があるわけではなく、あくまでビジネスの道具として捉えている。それは経営に回る人間としては正しいことだろう。この世には熱意だけで全てをやってのけるあやめのような人間と、冷静に数字で判断する人間の二種類が存在しているのだ。
「今はどの作物も育てているところで、順調に行けば七月には収穫の予定です」
「もっと早くに収穫することはできんのかね」
「作物の育成は早めることは難しいかと……」
「そこをなんとかするのが君の仕事では?」
専務の無茶な要求にあやめはああー、と思った。店舗開発部の時から無理難題を言われてはそれに応え続けていたわけなのだが、今回はわけが違う。作物の生育を人間がコントロールすることは不可能だ。
「なんとかできるよう努力しておりますが、天候や土壌の状態、作物の持つ個々の成長度合いなどいろいろな要因が絡んできますので」
「君の口からできない言い訳が出て来るとはね」
専務はタブレットをタップしながら苛立たしげに言う。社長も口を開いた。
「藤森くん、私たちは君に期待をしてこのプロジェクトを任せたんだ。なるべく早くに収穫できるようよろしく頼むよ」
「はい」
「ではくれぐれも、早めの収穫をお願いする」
「わかりました」
「では帰るとしよう。ここにいると車に泥がつくからね」
ポルシェに乗り込み、来た時と同じくらい唐突に去っていく社長と専務。見送るあやめと実岡は農道を走り去り小さくなっていく車を見送り、ポツリとつぶやいた。
「何しに来たんでしょうね」
「さあ……」
少なくとも会社がさっさと実岡農園製の野菜に切り替えたがっていると言うことだけはわかった。
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