第4話
「私、やっぱりヒューゴと結婚したいわ」
夕食の時間、向かいの席から突然そんな声が聞こえてきた。
リコリスはスープを掬おうとしていたスプーンの動きをぴたりと止める。
向かいから発せられた双子の妹の無邪気な言葉の意味が、リコリスには理解できなかった。いや、理解したくなかっただけかもしれない。
リコリスがおずおずと顔を上げると、双子の妹のマーガレットが天使のように明るく微笑んでいた。
いや、悪魔のように……だろうか。
マーガレットのその笑みは、すぐに両親へと向けられる。
「ねぇ、いいでしょ。お父様?」
「いや、そんな……お前にはロベルトがいるじゃないか」
「私、あのひと嫌なの。いつも本を読んでばかりだし、話もつまらないし、顔も人形みたいに冷たくて不気味だもの」
マーガレットは愛らしい顔をしかめてふいとそっぽを向く。
リコリスにヒューゴが紹介されたように、マーガレットにはロベルトが紹介されていた。
家の爵位でいえば、ヒューゴよりもロベルトの方が条件が良い。だからこそ、リコリスにはヒューゴを、マーガレットにはロベルトを母は選んだはずだった。
なのに──マーガレットは突然おかしなことを言いはじめた。
「私がヒューゴと婚約して、リコリスがロベルトと婚約すればいいのよ。そうしたらなんの問題もないでしょ?」
リコリスは言葉を失う。
つい一週間前に見たヒューゴの明るい笑みが頭に思い浮かんで、先ほどのマーガレットの言葉が頭に響いて──リコリスの顔からサッと血の気が引いていく。
マーガレットがロベルトを良く思っていないことは、リコリスも知っていた。
先日リコリスがヒューゴの家から帰ったとき、ウィンター伯爵家に招かれていたらしいロベルトは客室で本を読んでいた。
なぜか、ひとりで。
驚いたリコリスは、すぐにマーガレットの元へと向かった。客人を放置しているなんて、あまりにも失礼すぎる。
だが、鏡を見ていたマーガレットは面倒くさそうな顔をしただけで、その場から動こうとしない。
「私、あのひと嫌い。そんなに気になるなら、リコリスがロベルトの相手をしてきてよ」
「そんなわけにはいかないでしょ……ロベルトはあなたの……」
「まだ婚約してるわけじゃないわ」
さらりと言って、マーガレットは鏡越しにリコリスを見て微笑んだ。
意味深なその笑みに、リコリスの背筋はぞくりとした。
けれども、客人であるロベルトをひとりにしておくわけにもいかず、その日はリコリスがロベルトをもてなした。
幼いロベルトは、マーガレットが来ないことも、代わりにリコリスがやってきたことも、どちらもどうでもよさそうだった。
間近で見ると、マーガレットが『不気味』だと言ったロベルトの顔は確かに作り物のようだ。
……けれども、リコリスはロベルトのことを不気味だとは思わなかった。あまり喋らないし、ちっとも笑わないので一緒にいるのは気まずかったが、その顔は人形みたいで綺麗だと思った。
……そう、リコリスはロベルトのことを綺麗だとは思った。別に嫌いでもない。
けれど、じゃあマーガレットと婚約者になる相手を交換してもいいかといわれると、そんなはずはない。
リコリスはヒューゴと結婚したかった。
リコリスを守ると言ってくれたあの少年と結婚したかった。
「マーガレット、ロベルトと結婚したらゆくゆくは侯爵夫人になれるのよ? あなたもそれで良いって……」
「最初はそう思ってたけど、気が変わったの。ヒューゴの方が明るくてかっこいいし、それに……私がヒューゴと結婚したら、ずっとお父様とお母様と暮らせるでしょ? 私、やっぱり大好きなふたりとずっと一緒にいたくて……」
「まぁ、マーガレット……」
マーガレットの言葉に、母は感極まったような表情を浮かべた。
リコリスが呆然としているうちに、どんどん話は良くない方向へと進んでいく。スプーンを持つリコリスの手がかすかに震えた。
(このままだと大変なことになるわ……)
青ざめたリコリスは救いを求めるよう、上座の席に腰掛ける父を見る。
父は難しい顔をしていた。顎に手を当てて、なにか考え込んでいるようだ。
「……いや、『やっぱりそっちが良い』なんて理由で、そんな簡単に覆せる話じゃない……フリーデル侯爵とテランド伯爵になんと説明したらいいのか……それに、リコリスだって……」
「わ、わたし……っ」
父の気遣うような視線を受けて、リコリスは唇を震わせる。
「……私、ヒューゴと結婚したいです……」
しぼりだすような声でリコリスは言った。
ここ最近、すべてを諦めてマーガレットと母の言うことに逆らわなくなっていたリコリスにとって、久方ぶりの自己主張だった。
すると、父はうんうんと頷く。
「そうか、そうだよな。じゃあ──」
「ッいや! 私は絶対ヒューゴがいいの! ヒューゴじゃないとダメ!」
父の言葉を遮るようにそう叫んだかと思うと、マーガレットは勢いよくテーブルに突っ伏して泣き出した。
演技じみた、大袈裟な泣き方だ。
しかし、父は途端におろおろとしはじめ、母は席を立ち上がってマーガレットの元に駆け寄り、その背中を宥めるように撫でる。
「ああ、泣かないで、マーガレット」
「ううぅ……おかあさまぁ……」
「困ったわね、どうしましょう……」
母の視線がちらりとリコリスを捉える。
いつもなら、リコリスもすぐに折れて「いいですよ」とマーガレットに譲っただろう。ドレスも、ぬいぐるみも、お菓子も、全部そうしてきた。
でも、ヒューゴだけは嫌だ。ヒューゴだけは、マーガレットに渡したくない。
リコリスはテーブルの下でギュッとドレスの布を握りしめる。
「わ、わたしは……!」
「──リコリス」
いやに甘ったるい母の声に、リコリスの背筋がぞくりとする。
母はめずらしくリコリスに笑いかけていた。ずっとリコリスが向けられたいと思っていた、優しい笑みだ。
……しかし、その青い瞳の奥はちっとも笑っていない。
「妹がこんなにも泣いているんだから、ヒューゴのこと譲れるわよね? お姉ちゃんなんだから」
頭が真っ白になった。
暗い穴底に突き落とされたような、そんな気分だ。
……いや、もうずっと前からわかっていた。
だから、リコリスは諦めたのだ。
愛されたいと思うことも。家族に期待することも。
ドレスの布を握った手から力が抜けていく。
リコリスは今までの経験からわかっていた。
例え自分がマーガレットのように泣いても、自分の望みが叶うことがないことが──ヒューゴが自分の未来からいなくなってしまうことが、痛いくらいにわかっていた。
「リコリス、いいのか?」
「いいわよね? リコリス」
両親の顔をぼんやりと見返しながら、リコリスはこくりと小さく頷いた。
途端に父は安堵したような顔をして、母はうれしそうにマーガレットを抱きしめる。
「良かったわね、マーガレット。ほら、リコリスにお礼を言いなさい」
「うん! ありがとう、リコリス」
顔を上げたマーガレットがリコリスと目を合わせてにっこりと笑う。
リコリスはなにも言わず、うっすらと微笑んでみせた。
「こらこら、まだ決まったわけじゃないぞ。フリーデル侯爵とテランド伯爵が良いって言ってくれたの話だ」
「きっと大丈夫よ。よくよく考えてみたら、マーガレットの方がヒューゴとお似合いだもの。……ああ、もちろんリコリスもロベルトとお似合いよ」
「そうよね。きっとふたりとも喜んでくださるわ」
リコリスが黙っている中、和気あいあいと話は弾んでいる。そこには和やかな家族の姿があった。
(ただ血が繋がっているだけで、私は本当の家族じゃないのね……)
きっと、生まれてくる家を間違えたのだ。
そう思うと、ロベルトと結婚してこの家から逃げ出せるのは、喜ばしいことのようにも思えた。
……ヒューゴのことさえなければ。
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