2-11 午後4時のライヴ
そろそろだ。連中がやってくる。
鈴は握りしめたスティックを宙にかまえ、振り下ろすその時を待っている。弦の上にそっと置かれた響と梓の指は走り出すその時を今か今かと待ち構え、興奮に震えている。三人の視線は静佳に注がれ、その時の合図を待っている。
静佳は、わずかに開けた音楽室のドアの隙間から外の廊下を覗いている。シンと静まりかえった音楽室に鳴る音は何もない。
やがて、ペタリペタリとだらしない足音と卑しい笑い声がかすかに聞こえ始めた。梓はごくりとつばを飲みこんだ。廊下をのぞき込んでいた静佳が体を引き、ドアの隙間に両手をかけた。
三、二、一
静佳がドアを思い切り引いた。とたんに始まる鈴のドラムソロ。
ダッダッダッダッダッダッ
全開になったドアの前には、ドアを叩こうとして振り上げたこぶしを宙に浮かせたままの吉元が立っていた。叩くはずのドアが急に引き抜かれ、激しいドラムの音に襲われたものだから、だらしなく口を開け、ぽかんとしている。
静佳が走りだしたのをきっかけに、響と梓は曲のイントロを奏で始め た。リレーのバトンを受け取るかのような勢いでマイクスタンドのマイクを握り、静佳が歌い始める。
曲は「阿吽」という男女二人組のバンドの「五月蠅い」。十代に人気のバンドで、デビュー曲である「五月蠅い」は大ヒットしている。
歌いながら、静佳は吉元たちを真っすぐに見据えていた。ふいの大音量の音楽、口がきけないはずの静佳の歌声、意地悪をしてきた相手に言い返されたような歌詞。受け取る情報量があまりに多すぎて脳の処理が追い付かないのか、吉元たちは静佳の射るような強い視線と歌声を受けるばかりでその場を動けないでいる。
開け放たれたドアから漏れ出た音が階下へと流れ出、何事かと生徒たちが一人また一人とかけつけた。あっという間に音楽室の前には人だかりが出来上がり、吉元たちを取り囲んだ。生徒たちは、歌の軽快なリズムにあわせて体を揺らし始めた。たちまち音楽室がライヴ会場と化す。
曲が終わった。拍手喝采を浴びながら、マイクを手放した静佳が机をバンバンと叩き始めた。静佳に続いて梓も響も、スティックを手放した鈴も机を叩き始める。四人息のあったパーカッションセッション。生徒たちも手拍子で盛り上がる。
ダンダンダンダンダンッ……
机を叩きながら、梓たち四人の視線は吉元たちに向いていた。いたたまれなくなったのか、吉元たちは音楽室の前から立ち去ろうとしていた。しかし、大勢の生徒に取り囲まれ、身動きが取れない。生徒たちは吉元たちなど気にもかけず、手拍子に夢中だ。
頃合いを見て、梓はマイクを手に取った。
「アズキのライヴにようこそ! バンドメンバーを紹介するよ! 華麗なスティックさばき、リズムの要、ドラム、土門鈴!」
すかさずドラムセットに戻った鈴がドラムを叩きだす。長い髪を振り乱し、細い手を力いっぱいにふりあげて繰り出すリズムロールに驚愕の声があがる。
「続いては、奏でる音色はベルベッド、ベース、馬場響!」
響のベースソロ。まるでギターのようにベースを弾く響のスタイルに、生徒たちは歓声をあげ、一層の盛り上がりをみせる。
「ギターは、音を拾う魔術師、藤野梓!」
響の紹介を受け、梓はギターソロを披露する。ライヴ中に生徒たちがあげた歓声の言霊の音を拾っていく。その音は明るく、ポンポンと弾んでいた。
「そして最後は、唯一無二の歌声の持ち主、ボーカル、森川静佳!」
梓が静佳の紹介をすると、生徒たちの歓声と拍手が一段と高まった。
梓は響と鈴とに目配せした。梓の言わんとしていることが伝わったようで、二人はこくりと頷いてみせた。
梓は、最初の音をつまびいた。曲は「風の街」。イントロが流れ出すと歓声と拍手が一斉に沸き起こった。静佳の歌声が発せられると、聞き逃すまいとばかりに逆に水を打ったようにシンとなった。
のびやかで艶やかな歌声だ。路上ライヴを続けてきた成果もあって、持ち前の歌声の良さに自信が加わって繊細ななかにも強さを感じる。響も鈴も同じ感想を抱いたらしく、歌う静佳の後ろ姿に尊敬と賞賛の眼差しを注いでいる。
静佳が歌い終えるとシンとなった。静佳の歌は非の打ちどころがなかった。自分で言うのも何だが、演奏も完璧にこなした。歓声を期待していただけに沈黙という反応が不安に感じられた。
不安を感じる時ほど時間は長く流れるらしい。あれっと思った次の瞬間、拍手が嵐のように梓の耳を襲った。鳴りやまぬ拍手の音は空気を震わせ、波のように梓の耳に押し入り、梓の体をも震わせた。
静佳が深々と頭を下げた。再び上げたその顔の頬は赤く染まり、瞳には自信の光が満ちていた。
静佳が梓を見た。静佳の言わんとしていることを梓はしかと受け取った。梓はうんと頷き、ギターを置いた。梓の後に響も続き、鈴もスティックを握る手を膝の上に置いた。
静佳がマイクを机に置いた。何が始まるのかと見守る前列の生徒たちから拍手が止んでいく。
やがて拍手が途絶えた。息をのむ音すら聞こえそうなほどシンとなった時だった。
「ありがとう」
美しいメロディラインに乗り、静佳の口から感謝の言葉が踊り出た。「図書室」というバンドの「ありがとう」という曲のサビの部分だ。
言葉としては発することはできないとしても、歌としてなら言える。どうしても伝えたい静佳の気持ちは美しい音として聞いている生徒たちの耳に運ばれていった。
梓にだけは言霊が目に見えていた。静佳の魂を削ったまばゆいばかりの煌めきだ。言霊は発した人の魂のかけらをもっている。目には見えずとも、音としてきく生徒たちにも静佳の感謝の言葉が心から発せられたものだとわかったはずだ。たとえそれが他人の編んだ詞、借りた言葉だとしても。
「森川、しゃべれないんじゃなかった?」
「歌なら歌えるんだ」
「歌、めちゃくちゃ、うまいね!」
「いい声してるなあ」
生徒たちが静佳を取り囲み、口々に褒めちぎった。人の波が静佳の方に押し寄せていき、ようやく人混みから解放された吉元たちは、忌々し気に静佳を睨みつけたかと思うと、大股で音楽室の前を立ち去っていった。
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