ふたご星変奏曲

蜜蝋文庫

Ⅰ.三角の海と真っ赤な舌、消えたイチジクのアイスクリーム

 ぼくの前世はねこだったんだ。

 ウメくんがそのひみつをわたしに打ち明けてくれたのは、小学二年生の五月、よく晴れた初夏の午後、水曜日のできごと。どうして水曜日だなんて、そんな細かいことを覚えているのかというと、わたしたちがちょうどそのとき、いちぢく屋さんの店先で、アイスクリームを食べていたから。

 いちぢく屋さんというのは『甘味処かんみどころいちぢく』という名の小さな甘味屋さんの通称で、だけど近所の人たちで『甘味処いちぢく』なんていちいち呼ぶ人は一人もいない。いちぢく屋さん、と言えば、たいていの人は、ああ、あそこね、とわかってくれる。

 毎週、水曜日がやってくると、わたしたちの足でも家から五分とかからない、うす暗い店舗に出向いては、暑い時期にはアイスクリームやかき氷、寒い時期にはおしるこなんかを食べることは、わたしたちのもっとも大切な決まりごとのひとつである。おかげでわたしとウメくんは、まるいほっぺたをしたいちぢく屋さんのおばさんに、すっかり顔を覚えられてしまっていたし、それだけにはとどまらず、舌の具合までしっかり把握されてしまっている。たとえば好きなアイスクリームのフレーバーであるとか、あんこはつぶあんとこしあんどっちがいいだとか、そういったこと。かき氷だけはそのときどきの気分で、好きな色味いろあじを選ぶということも。

 地につかない足をぶらつかせて、遠くの空を眺めて、きんと冷たいアイスクリームを無心に舐めていたわたしは、ふと手を止めてウメくんをふり向いた。あ、海が見える。と、ウメくんの顔を見るより先にわたしは思う。三角の海が、坂の向こうにかすかにきらめいている。今日は天気がいいから、海も青い宝石のように、ぴかりぴかりと笑っている。わたしは空を眺めていたけど、ウメくんはたぶん、あの三角の海を眺めている。ウメくんは海が好きだ。

 古ぼけた白木のベンチは、プラタナスの並木を取り囲むようにして、円弧状に作られている。わたしたちは三分の二くらい、背を向け合ってベンチに座る。いつも、同じ。日なたはちょっぴり暑いけれど、プラタナスの木陰は涼しくて、気持ちがいい。風が吹くたび、白い葉裏がさわさわと囁き合って、『甘味処いちぢく』のあずき色ののれんと、『氷』の赤文字に紺色のしぶきが描かれた旗が、はためく。かき氷の季節にはまだ少し早いんじゃないかしら、と思うけれど、わたしたちだってアイスクリームを食べているのだから、かき氷を食べる人だって、きっとこの町のどこかにはいるんだろう。

 ウメくんはふり向かない。黙々とアイスクリームを食べる横顔が、ちらりと見える。まっすぐなまつげが、よく見える角度だ。うす紅色とクリーム色のマーブル模様がきれいなアイスクリームを、真っ赤な舌がぺろりとなめる。以前に星のずかんで見たどこかの惑星に、それはちょっぴり似ている。ウメくん、星を食べている。うっすらと日に焼けた首筋は細く、汗ばみもせずさらりとかわいている。木漏れ日が、わたしたちの上で、下で、揺れる。

「ウメくんは、たまにおかしなこと言うね」

 わたしは感じたありのままの、感想を述べた。

「本当だよ」

 だけど間髪入れずにウメくんが言うので、すぐにまた、口をつぐまざるを得ない。

 ウメくんは、まじめな顔をしている。大まじめに、きれいな色のアイスクリームを食べる。それはいちぢく屋の名前にちなんだイチジクのアイスクリームで、ウメくんはイチジクのアイスクリームがとても好き。わたしはウメくんが何か食べているところを眺めるのがとても好き。中でもイチジクのアイスクリームを食べているウメくんは、うんとすてきだと思う。だけどわたしはイチジクの、どっちつかずの味はあまり好きじゃない。だからわたしが頼むのは、いつもオーソドックスなミルクフレーバーのアイスクリームだ。イチジクのアイスクリームの、色はとても好みなんだけど。

「ねこのときも、男の子だった?」

 ウメくんの言っていることはおかしくて、へんてこなことだと思う。だけどわたしは頭ごなしにそれを否定するような真似はしない。だってそれってとても野暮だし、ウメくんは一風変わった男の子だけれど、わけもなくうそをつくような人じゃないってことだけは、断言できるから。だからひとまずわたしは、ウメくんの言い分が一字一句、たとえそれがどんなにへんてこなことであったとしても、まぎれもない真実であると、そう仮定して問いかける。

「ううん、メスのねこ」

 ウメくんの答えは短くて、端的で、正確。首のあたりで、ウメくんの短い髪も、プラタナスの葉っぱや『甘味処いちぢく』ののれんといっしょに風に吹かれて、そよそよ肌をくすぐっている。ウメくんの短くてやわらかな髪も、わたしは大好き。こういう髪のこと、そういえば、ねこっ毛っていうんだっけ。

「へえ、メスのねこ」

 わたしはやっぱり困惑してしまう。ウメくんがオスのねこだと答えていたとしても、たぶんわたしの反応は似たり寄ったりのものになっていたと思う。ウメくんは尋ねられたから答えただけで、何も間違ってないし何も悪くない。だけどわたしはそれに対してどんな反応を返したらいいものかわからない。結果、わたしの返事はウメくんの言葉を反芻するだけの、なんともまぬけなものとなる。

 困り果てていたのと、ウメくんが相変わらずこっちを見ようとしないのとで、わたしは居心地の悪さをごまかすように前を向き、ミルクフレーバーのアイスクリームを申しわけ程度に舐め、ふやけた編み目のコーンに歯を立てた。溶けたアイスクリームが、舌の上にじゅわっとしみ出す。三角の海が見えなくなってしまったことにも、わたしは気づいていない。

 そうして今は人間の男の子のウメくんが、かつてはメスのねこであった事実に思いを馳せる。オスのねこではなく、メスのねこであった、という点に関しては、ウメくんらしいな、とも思うし、意外なことのような気もする。ウメくんは昔から、女の子のような言葉づかいをすることが本当にときたまだけれどあったし、ウメくんを除いた男の子という生き物はひとり残らず、そのころのわたしにとっては不可解で、異質な生き物だった。男の子と女の子というもののあいだには、決して埋めることのできない深いみぞが、いつだって脈々と横たわっているのだと、幼いながらにわたしは強く感じ取っていた。

 だけどウメくんはつまり、たぶん両方知っている。今は人間の男の子だけれどかつてはメスのねこで、そのころの記憶を、どのくらいの明瞭さでかはわからないけれど、今でも覚えているのだと言う。

「男の子の気分と女の子の気分って、やっぱり、違うもの?」

 無意識のうちに、アイスクリームをひっきりなしに口へと運びながら、わたしは尋ねた。小難しい顔をしていたと思う。その質問にはちょっぴり考え込んでから、ウメくんは答えた。

「うーん。それはちょっと、なんとも言えない。女の子っていっても、ねこだったし。人間でいるのとはまた、勝手が違っていたっていうか」

「そっか。ねこだもんね」

「うん。ねこだったから」

 ウメくんの答えは、わたしは納得させるのに十分な説得力を持っている。遠い昔、ウメくんがねこだったという事実には、もうこれっぽっちも疑問を抱いてはいない。ウメくんがそう言うのなら、確かに彼はかつて、メスの、ねこだったのだ。それはもうわたしの中でまぎれもない真実であって、ほかならないのだった。

 わたしたちはそれきり互いに押し黙り、それぞれアイスクリームを食べた。そのあいだじゅう、わたしはウメくんが人間の男の子として生まれる前の姿について、思いを馳せた。どんな毛並みをしていたのかとか、野良ねこだったのか家ねこだったのかとか、人間のウメくんはイチジクのアイスクリームとお母さんのハンバーグが好きだけれど、ねこのウメくんはどんな食べ物が好きだったのかとか。

 でも、そのどれをも、わたしは口にはしなかった。今日の話は、これでおしまい。そういった暗黙のルールや、音のない言語のようなものを、わたしたちは自然と、共有することができた。ウメくんとのあいだに訪れる沈黙の心地よさも、わたしは好きだった。

「帰ろっか、ナナコ」

 ウメくんがそう言って立ちあがるころには、イチジクのアイスクリームはいつのまにか、ウメくんの真っ赤な舌に吸い込まれて、おなかの中に消えている。わたしは急いで残っていたコーンの先っぽを口の中に放り込むと、ベンチから飛びおりる。

「うん、帰ろう」

 ぴかりぴかりと笑う、青い宝石みたいな海を背景に、ウメくんはこの日はじめてまっすぐにわたしを見つめる。それでわたしはようやく、三角の海のことを思い出す。

 ウメくんはほほ笑んでいる。ほほ笑んで、わたしに手を差しのべる。たとえばけんかをしていたとしても、水曜日にいちぢく屋さんでおやつを食べたあとには、手を繋いで帰るのが、わたしたちの決まりごとだったから。わたしは異国のお姫さまにでもなったような気分で、差し伸べられたウメくんの手をうやうやしく取る。繋いだ手の向こう側には、まるで鏡のようにわたしとそっくりおんなじ顔が、ある。

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