一章(5)ポンコツメイドの発見

 イーディスは真っ先にメイド長を探しに走った。まずは彼女に聞くべきだ、と思ったからだ。

──なぜグレイスフィールお嬢様は取り乱したのか?

「メイド長。お時間をいただいても?」

「またお前ですか!」

 メイド長は書庫にいた。本のひとつひとつに丁寧にハタキをかけながら、イーディスをジロリと睨みつける。

「お嬢様の御付きはどうしたのです。旦那様の前であんな大見得を切っておいて……」

 ああ、この世界には歌舞伎のようなものもあるらしい。大見得を切る、が慣用句として浸透するくらい昔から。

――中国知識といい、キリスト教っぽい何かといい、歌舞伎知識といい……まるで日本みたいだわ。

「そもそも! 何をやらせても半人前以下のお前がお嬢様のお付きだなんて何かしでかすんじゃないかと私は──」

「あの、メイド長! お嬢様のことについてお伺いしたいのです。同じあやまちを繰り返して、お嬢様に不愉快な思いをさせないために。……メイド長も、何がお嬢様を不快にさせたのか、知りたくありませんか?」

 イーディスは無理やりメイド長の小言を遮った。このまま聞いていれば日が暮れる。

「あ、ああ、」

 メイド長はイーディスの勢いに目を白黒させながら、もごもごと言った。

「……良いでしょう。許します。手短にすませなさい」

 許しを得たイーディスは、ようやく尋ねることができる。

「お嬢様は、メイド長がお嬢様のお部屋に入室なさった時には、まだ眠っていらっしゃったのですよね?」

 あの時。朝の四時半過ぎだったろうか。メイド長の悲鳴が聞こえたのは、そんな早朝だったと思う。朝の早いヴィンセント様とそのボーイが騒ぎを聞きつけて出てくるならまだわかる。でも、お嬢様はどうだろう。起こすには早い。

「ああ……」

メイド長は遠い目をした。

「ここ数日のお嬢様は、起きていらっしゃる間だと、私どもがお部屋に入るのを拒まれるから。お嬢様がお目覚めになるよりも先に、カーテンを開けて、朝のミルクを準備しておこうと思ったの。そうしないと、ご朝食もお召し上がりにならないから」

 なるほど。早すぎる入室はそういうわけだ。彼女はあの時の言葉通り、お嬢様の世話をするためにあの場にいたのだ。

「……でも、お嬢様は、起きていらっしゃったわ。まるで待ち構えていたようだった。カーテンを開けようとした私を部屋の外に追い出して……あの有様よ」

「何がお嬢様の気に障ったのか、メイド長、お心あたりは?」

「わからない」

 即答だ。覇気のない声。そして彼女は、困惑したようにイーディスを見返した。

 その姿は、あまりにも、メイド長らしくなかった。ありとあらゆる棚の鍵を管理し、メイドたちを指導し導く立場にある彼女が、項垂れていた。

「本当に、本当にわからないのです。……あんな……あんなグレイス様はみたことがないわ。まるで本当に悪魔が憑いたようなのです。恐ろしかった」

「……悪魔」

 イーディスは呟いた。メイド長はイーディスから目を逸らし、用はすんだとばかりにハタキをかけ始める。イーディスは一礼して、書庫をあとにしようとした。その時。

「悪魔祓いを呼ぶべきだと、私も思うわ」

 後ろからメイド長の声が追いかけてきた。イーディスは、その言葉を振り切るように駆け出した。

 メイド長の言葉に応えるにはまだ早い。

 イーディスには、まだ知らなければならないことがある。


「え? お嬢様の様子がおかしくなった時のこと?」

 エミリーは険のある声音でイーディスを威圧した。

「どうして貴女に、そんなことを教えなきゃいけないのよ」

「どうせ三日後に辞めるんでしょう?」ジェーンが声高に言う。

「辞めるって決まったわけではないのよ」イーディスは言った。「できないと思われてるだけ……多分」

「お嬢様は悪魔に憑かれているらしいわよ。悪魔祓いを呼べばおしまいじゃない。なぜ貴女がそんなことを聞いて回っているわけ?」

メアリーがうんざりしたように首を回した。

「イーディス、ひょっとして暇なの? ……まあ、あのお嬢様はいつもそうだけれど」

 だるそうにティーカップを磨く三人娘。完全にナメられている。

 そもそも、お嬢様の御付きも、旦那様のボーイも、そこそこゆとりのある中流家庭から奉公に出された者たちなのだ。学校にも通っていたから読み書きも難なくできるし、奉公のための作法も教え込まれている。つまり、彼女たちは仕事内容から何から何まで、イーディスのような孤児こじとは区別されているのだ。本来、イーディスはお嬢様の御付きになど

 その上イーディスは、メイドたちの間でも悪い意味で名が知れているものだから、嫌味にも拍車がかかる。

「貴女がお嬢様の御付きだなんて、ほんとうに、おしまいよね」

「金皿十枚よ、金皿十枚のイーディス」

「よくお暇を出されなかったわよね」

「帰る家がないからでしょ」

 散々な言われようだが、これまでのことを思えば仕方がないこと。イーディスはそう思って笑って受け流した。

「あはは……」

「きっとお嬢様の部屋に入ったら、お皿なんかじゃ済まないわよ」

「悪魔に憑かれたお嬢様に殺されちゃうかも」

「感情的になっちゃったお嬢様にインク瓶を投げつけられておしまいね。ガッシャーン! ……無事で済むといいけど」

それから乙女たちは笑った。イーディスは静かに拳を握りこんで、三人の整った横顔を見た。

……不敬だ。こんな人たちが今までお嬢様のお世話を?

イーディスへの悪口ならなんでも受け止められる。けれど、お嬢様までどうして悪く言えるのだろう? どうして、そんな風に笑えるのだろう?

「作業の邪魔だから、行ってちょうだいよ」

 返す言葉もなく黙っていれば、笑い声は大きくなる。

「行ってってば、ねーえ、聞いてる?」「それとも公用語もわからなくなっちゃったの?イーディス」「学がないと大変ね」「メアリー、言っても無駄よ、わかりゃしないわよ。もっと簡単な言葉で言わなくっちゃ」「聞こえてますか? イーディス。仕事の邪魔だから、あっちへ行って?」

イーディスはニッコリ笑った。

「大丈夫よ、大きい声で言ってくれてるから、ちゃんと聞こえてるわ。でも大きすぎるかも――そうね、貴女たちに聞いても答えてくれないのなら、貴女たちの何が気に障ったのか、お嬢様に直接伺うことにするわね!」

 三人娘の顔色は面白いくらい青くなった。言外に「お嬢様にチクるぞ」と言ったのだから当然。

 以前のイーディスなら走り去るか、そのまま黙ってしまうか。多分そんなところだ。彼女たちもそうなると思ったのだろう。ポンコツイーディス、怒られてばかりのイーディス、失敗してばかりのイーディス……。でも、残念なことに、イーディスはもう以前とは違ってしまっている。

 労基があったら駆け込みたいし、嫌味に言い返すだけの頭もメンタルもあるのだ。

「じゃあね。お仕事の邪魔をしてごめんなさい! 邪魔者はいなくなるから、しっかりやってね」

「待って!待ってよ!」

足早に厨房を出るイーディスに追い縋るジェーンの手。しかしイーディスはそれをやんわり跳ね除けた。満面の笑顔で振り返る。

「邪魔しちゃ悪いものね! 邪魔者はいなくなるから」

「ご、ごめん、ごめんなさい! 許して! 話すから!」

「結構よ。お仕事の邪魔をしてごめんなさいね。ごゆっくり!」

 暗に「許すわけないじゃない」と言いながら、イーディスは彼女たちを振り切った。後ろからは徐々に罵りに変わっていく女の悲鳴が聞こえてきたけれど、無視した。

 時計を見ると、もうすぐ昼時だ。メイド長の言葉が本当なら、お嬢様は朝のミルクも召し上がっていない。お腹を空かせていらっしゃるかもしれない。部屋から出たくないのなら、こちらからお伺いを立てるほかない。イーディスはすっと背筋を伸ばした。

「さて……お伺いしましょうか」


階段上アップステアへ上がり、お嬢様の部屋をノックする。規則正しく、三回。ノックの回数は三回と決まっている。前世の記憶がそう言っていた。

「お嬢様。イーディスが参りました」

 しかし、返事がない。イーディスはもう一度ノックをした。やはり、反応がなかった。

「お嬢様?」

 何かあったのだろうか? おそるおそるドアノブをひねると、開いている。鍵はかかっていないようだ。ドアを開けるか否か、迷うイーディスの耳元に、グレイスフィールの言葉が蘇る。

『私の許しなしに部屋に入ってこないでと言ったはずだわ』

『部屋に入ってこないで』

 ……そういえば。

『わたくしどもも部屋から締め出されてしまって。二度と入ってくるなとキツく言いつけられてしまい……何が何だかわからないのです』

 三人娘たちも確かそういっていた。二度と「入ってくるな」。お嬢様がそう言ったと。

 入ってくるな?

 イーディスははたと思い当たった。イーディスが記憶を引き継いでいる前世の「私」が、と言い換えてもいいかも知れない。瞼の裏を、ぐるぐると情報が駆け巡っていた。イーディスが当たり前だと思っていたこと。そして「私」が当然だと思っていたこと……それらの齟齬に、ようやく辿り着いた。衝撃で、頭がくらくらした。

 ああ。そんなことが。盲点だった。もしかして。もしかしたら。

 イーディスは「お嬢様、ごめんなさい」と呟いた。捻ったノブを押し、わずかに扉を開ける。

 部屋の中は暗く、カーテンは締め切られている。少し湿っぽいにおいがする。グレイスフィールはうとうと眠っているようだった。ひょっとしたら、誰かに入られることを恐れて、慣れない早起きをしたのかもしれなかった。

 イーディスは、そんな部屋の中の様子は努めて見ないように、ドアの内側を……厳密には、ドアノブの下側をまさぐった。

──ない。

今度は少しだけドアを開けて、顔だけを部屋に差し入れる。目でも確認した。

──やっぱり、ない。

 内鍵がない。綺麗に、ないのだ。これでは内から鍵をかけられない。「鍵をかける」なんて選択肢は、最初から彼女になかった。

 扱いは下級ハウスメイドのイーディスと一緒だ。「鍵持ちの執事」に管理されている、ハウスメイドと、一緒だ。

知らなかった。お嬢様の部屋など無縁の働き方をしてきたから、全然、知らなかった……。

 グレイスフィールお嬢様はただ、「私室に勝手に入ってくるな」と、そう仰っているだけなのだ。

 イーディスはそっと、扉を閉めた。


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