第2話 ハウスメイドは人生2周目?

 長い、長い夢を見たような気がするのだが、イーディスはそのほとんどを覚えていなかった。覚えているのは、「夢の中で好きだったもの」だけだ。


 漫画。アニメ。ゲーム。日本が誇るカルチャーだ。

 二次創作の同人にも手を出したことがある。でも、周りの人ほどの才能はなかった。だから「見る専」だった。

 インターネットを眺めて、隣人の才能を羨んだこともあったけれど、身の丈に合わないとわかってかえって諦めがついた。「私」はできることを、向いていることを職にすべきだ。そう、たとえば。


たとえば……?



 はっと目覚めた時、イーディスは何かが違っていることに気づいた。気づいたけれど、何が違っているのか、どう違っているのかまではわからなかった。

 何度思い返して確かめても、自分はイーディス・アンダント。アンダント救貧院からオルタンツィア家にやってきて2年目の、へっぽこハウスメイドだ。仕事で荒れた手のひらも、丸い爪の先も、間違いなく自分のものなのに、どうしてか、変なのだ。


 まるで夢の中でだけ、別の人として生きていたかのような。それでいて、身体だけ「イーディス」になってしまったかのような。たましいと体が、別々になってしまったみたいだ。

 拭えない感覚を胸に、枕元の時計を見やる。もう朝の5時だ。イーディスはベッドから跳ね起きた。





 ハウスメイドたちの朝は早い。


「またお前なのねイーディス」


 何十回目かになる「メイド長」のお決まりのセリフ。ドスのきいた低い声に、イーディスはすくみ上がった。


「申し訳ございません」

「昨日のことはトーマスから聞いています。お前はいつになったらこの屋敷のハウスメイドである自覚をもてるのかしら」


「申し訳ございませ……」

「聞き飽きたわ」


 イーディスは口をつぐんだ。

 他のハウスメイドたちはイーディスに気もかけず、慣れた様子で掃除を始めている。主人おつきのボーイはそろそろヴィンセント様を起こしに行った頃だろうか。


「だいたいお前は仕事もろくにできない、時間通りにも来れない、言いつけは守れない、何ならできるの」


「それは……」


「口ごたえはおよし」


 厳しい顔をしたメイド長は、俯くイーディスに説教を続けようとする。イーディスはただこの嵐が過ぎるのを待った。彼女の気がおさまるか、彼女のもとに何か面倒ごとが舞い込まなければ、彼女は「このまま」だ。イーディスは痛いほどよくわかっていた。

 たしかに全体的にイーディスに非があるのは明らかなのだが……メイド長は、こうして必要以上に長々と説教をすることでストレスを発散するのだ。彼女の吐け口になるのは、イーディスと決まっていた。


「……メイド長!」


 救いの手が差し伸べられたのは、その時だ。お嬢様お付きのメイド達数名が、揃いも揃ってこちらへ走ってくるところだった。

「何?」

「お嬢様が、いたくご機嫌を損ねていらっしゃるようで」

「一体何があったの」

「それが……わたくしどもも部屋から締め出されてしまって。二度と入ってくるなとキツく言いつけられてしまい……何が何だかわからないのです」

「いいわ。私が行ってお話をお聞きします。……イーディス。お前は屋敷の窓でも拭いていなさい」

「は、はい!」

「全部よ。全部。終わるまで階段下ベロウステアには降りてこないで」

「……はい」

屋敷の窓は大きいし、気になったこともないから数えたこともなかった。一体何時までかかるやら。イーディスはメイド長の背を見送ってから、がっくりと項垂れた。


「やると決めたら、やるしかないのよね……」


 水を入れたバケツと雑巾、それから脚立を携えて、言いつけられた通りに外へ向かった。玄関先のカーペットを箒で掃いているハウスメイド、アニーを見ながら、「ルンバがあれば楽なんだろうな」などとイーディスは考える。ルンバ。あの丸い形状。勝手に掃除をしてくれるロボット……。


「……っていうか、なによ、“ルンバ”って」


 イーディスは呟いた。


「どうしたのよイーディス。またやらかしたんでしょ?早く行かないと就寝時間に間に合わないんじゃないの」

 アニーが不審そうにこちらを見ていた。イーディスはそそくさと外へ向かう。


 やっぱり何かが変だ。





 ここ数年で産業が爆発的に進歩したアーガスティンの街は、急速に栄えていたが、公害にも悩まされていた。それが、新しい工場群の煙突からもくもくと出る、真っ黒な煙だ。

 煙の中に混じっている煤が窓に付着すると黒く汚れて、たいそうメイドたちの手を煩わせた。産業の発展は人々に潤いをもたらした。けれども、こうしたところで「しわよせ」がきていたのだ。

 イーディスは雑巾を固く絞ると、脚立を上って背伸びをした。一拭きすると、雑巾はたちまち煤まみれになってしまう。

「……そもそもあの煙、地球に優しくないわ」

窓を拭きながら、イーディスは呟く。つぶやいたところで、あれ、地球って何だっけ?と考える。


 イーディスがいるここは、レスティア大陸の端にある臨海都市で、アーガスティンはその中でもほとんど港と言ってよい。またの名を「水の都アーガスティン」である。主な貿易国はオーガル海を挟んだ向こうにある島国、モンテナ島。今は産業の発達で、貿易の品がくるくると変わっているけれど……


「地球……?」

 誰も聞かない呟きで、イーディスは頭の中を整理していく。

「地球の六大陸は、ユーラシア、アメリカ、南アメリカ、アフリカ、オーストラリア、あと……南極。じゃあ、レスティア大陸はどこに? ここはどこ?地球じゃないなら……」

窓の上の部分が綺麗に磨き上げられた。下の部分を磨くために脚立を降りる。作業は順調だが、イーディスの頭の中はしっちゃかめっちゃかだ。

「待って、地球って何?私と何の関係があるの?」

問いに答えるように、耳元で言葉が鳴った。

──日本。

誰かが囁いたようにも思えた。それくらい自然なひらめきだった。イーディスは手を止めて、呟いた。


「日本……東京?」


 言葉が引き金となって、瞼の裏に火花が散った。地面に座り込む。バケツの水を派手にこぼし、メイド服を汚す。けれどもイーディスは衝撃を逃す方法を知らなかった。頭を抱え、目を見開いた。瞼がけいれんして、視野がぐらぐらと揺れた。


 私は、以前地球にいたことがある。かつて、地球の、東京にいたことがある……。

 そこで私は生きて、生活をして。

……じゃあ今は?今はここでハウスメイドを……なぜ?

 

 頭が沸騰しそうだ。──実際に昨日の無茶で高熱を出してしまっていることを知ったのは、全ての一階の窓を拭きおえて倒れてしまったあとだった。

 すぐさま仲が良い(と思われている)アニーが呼ばれ、イーディスは引き取られ、引きずられるように部屋に運び込まれた。

「イーディス!ひどい熱よ、イーディス!」

アニーが呼ぶ。けれども実感が湧かない。それは本当に自分なんだろうか? 

 朦朧とする頭の中で、ずっと、東京……日本のことを考えていた。


異なる世界。異世界。

ここが異世界なのか、それとも「地球」が異世界なのか。

「私」は何なのか。「イーディス」とは何なのか。

そんな哲学めいた問いを繰り返しながら、イーディスは深く眠りに落ちた。


──全く同じ悩みを抱えて苦しんでいる、もう一人の少女の存在に気づかないまま。








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