第41話 春の芽吹き

 雪が止んだ。

 雲の隙間から太陽の光が降り注ぎ、降り積もった雪の表面がかすかに溶け、キラキラと光を反射する。

 雪の完全に溶けた場所からは、ほんの僅かに小さな緑が芽吹く。

 吹き付ける風にはどことなく温かみが感じられ、空は鳥が列をなして横切っていく。

 冬が過ぎ、春が来た。


 エイジは伸びをしながら、家を出た。

 数日の大雪が信じられないほどの快晴だ。

 まだまだ空気は冷たいが、陽の光がどことなく温かい。


「うぉおおお! 冬が終わったぞ、春だ! もう篭もらなくていいぞ!」

「あんたはいつまで経っても子どもだねえ」


 マイクが元気よく家を飛び出す。

 その後をジェーンが苦笑とともに続くが、その表情もすぐに笑顔に変わる。

 誰もが待ち望んだ春だ。

 風が、空気が、光が。目に映る若葉の青々しさが、すべて心を高揚させる。


「マイクさん、元気でたみたいですね」

「一時は本気で落ち込んでたから、心配でしたよね。私あんなに暗いマイクさん、初めて見ました」

「まあ、何よりです」

「本当に」


 エイジとタニアはお互いに頷き合う。

 エイジは、アルコール消毒液を思いついていたら、また違う結末があったんじゃないかと気になっていた。

 今はその悩みがふっと軽くなるのを感じる。


 視界の先、マイクの後に続いて飛び出す影がある。

 素早い。小さく、草の影に隠れてすぐに見えなくなる。

 だが、また姿を表す。それを繰り返している。

 その小さな影に向かって、マイクが楽しそうに声をかける。


「ほら、お前らついてこーい!」

「あんた、あんまり遠く行くんじゃないよ」

「分かってるよ、母ちゃん!」


 それはまだ生後一年も経っていない、子犬だった。

 綺麗な毛の色や、遠目に分かる姿形から、シベリアンハスキーだとわかる。

 子犬はマイクについていこうと必死に走るが、まだあまりにも体が小さく、追いつくことができない。


「あれがジェロの子どもですかね」

「これから少しずつ狩りの仕事を覚えさせるんでしょうねえ。あっ。見てくださいエイジさん、一匹がこっちに走ってきましたよ。小さくて可愛いですよ」

「こんな小さな犬が、成長したら人よりも大きくなるんだから、不思議というか、スゴイというか」


 子犬は全部で四匹いた。三匹はマイクの後を必死に追っている。

 そのうちの一匹だけが、マイクを追わず、こちらに気づいてチョコチョコと小走り寄ってくる。

 子犬特有の可愛らしい顔をしている。

 タニアが近寄ってきた子犬を抱きかかえて、頬ずりをしている。


「かーわいい!」


 一気に走ったからだろう、子犬はハッハッと息を弾ませながらも、されるがままにされている。

 つぶらな瞳が可愛らしいな。

 タニアさんが満喫したら、次は私も抱かせてもらおう。

 順番を待っていると、一匹だけついてきていないことに気づいたのだろう。

 マイクがこちらに寄ってきた。

 そのすぐ後ろをチョコチョコと残りの三匹が続いている。

 皆、少しでもマイクの後を追いつこうと脚を忙しく動かしている。


「おはよーさん。ようやく春が来たな」

「お久しぶりです」

「おう。初めての冬ごもりはどうだった。退屈だっただろう。それとも新婚だから、お楽しみだったか」

「いやあ、家にこもってもやることは結構ありましたからね」


 あえて下の質問にはさらりと答えると、マイクは苦笑を浮かべる。

 ムキになって反論すれば、かえって楽しめることになる。こんな時は流すのが一番だ。

 そういう対処に、エイジはこの頃になってようやく慣れ始めた。


「お前は相変わらずスゲエな。またなんか新しいの作ってるのかい」

「少しお酒を使って」

「お、酒か。美味しい酒があるんなら、教えてくれよ」

「まあ、それはまた改めて。マイクさんはどうやって過ごしていたんですか?」

「俺なんてジェーンとオセロばっかりやってたぜ」

「少しは強くなったんですか?」

「おうよ。今なら賭けてもきっと勝てるぜ」

「ボーナさんに聞かれて怒られても知りませんよ」

「おいおい、冗談だよ。……マジで言うんじゃねーぞ」

「分かってます」


 エイジとマイクが話している間も、三匹の子犬たちは、じゃれあって草むらを転げまわっている。

 タニアはいまだ、抱きかかえたままの一匹を離すつもりはないらしい。


「ジェロの子どもですか」

「そうだ。早く大きくなって、使えるようにしなくちゃならないからな」

「やっぱり小さいと可愛らしいですね」

「そーかぁ? まあ、可愛いのは認めるけどよ、俺はデカイ奴のほうが格好良くていいけどな」

「こんなに可愛いのに。エイジさん、一匹もらって育てましょうか」


 タニアが抱えた子犬を、エイジの眼前に突き出す。

 きゅーん、と弱々しい鳴き声を上げる子犬に、庇護欲がくすぐられる。

 ふわふわの毛につぶらな瞳。同じシベリアンハスキーでも、表情は一匹一匹違う。顔立ちは結構男前だ。

 だが、家で飼うわけにはいかない。

 我が家には牛に豚にイノシシにと、もとよりたくさんの家畜に囲まれているからだ。


「うちにはボタンがいるでしょうに」

「おお、あの猪の子供か」

「良い名前でしょう。私がつけたんですよ」

「いや、食う気満々じゃねえか」

「情が移ると、食べられなくなりますからね。それならいっそ名前なしか、ボタンのほうがいいかなって、エイジさんが言うから」

「変わったやつだなあ。まあいい、今日は集会と畜舎の工事再開だぜ」

「わかってます。ほら、タニアさん、子犬を返してください」

「ああ! 私の子犬!」

「私のじゃありませんから」


 すっかり夢中になっているタニアの手から、子犬を引き離す。

 子犬はタニアの指をちろちろと舐めると、マイクの後ろについていく。

 落ち込んだタニアをなだめるのに、エイジは随分と苦労した。


「私も子犬が飼いたい!」






 春が始まれば、やるべきことはいくらでもあった。

 川の水を引いてくる溝を掘ったり、麦畑の雑草を刈ったりと、仕事はどんどん忙しくなる。

 だから、まだ雪が残る今のうちに畜舎を完成させる必要があった。

 男たちは全身から湯気のように汗を立ち上らせる。

 綺麗な木板を屋根に葺かせるとその上を洋瓦で敷き詰めていく。

 勝手の分からない村の男衆は、エイジとフェルナンドの作業を見て、最初恐る恐ると、しかし段々と慣れて、素早く作業を続けていく。

 木板の茶色の屋根が、少しずつ赤や焦げ茶の洋瓦で染められていく。

 午前中に始まった仕事は、昼食に休憩をはさみ、そして夕方に近づくに連れ、屋根は瓦で敷き詰められていく。


 畜舎は大きかった。

 縦に四〇メートル、横一五メートルほどもある。

 完成した畜舎を前に、フェルナンドは腕を組んで、誇らしげな表情で眺めた。


「畜舎もようやく完成だな」

「ええ、村中総出で四ヶ月ですか。長かったですね」

「まあ、いい勉強になったよ。最後のほうじゃ、皆ようやく鋸の扱いとかにも慣れてさ。僕も次からはもう少し楽できそうだし」

「いやあ、それは難しくないですか」

「もちろん全部が任せられるわけじゃないけどな。一つでも仕事を振れるんだ。大違いだよ」


 大きな建造物を建てるときは、今回の畜舎のように村の男衆の力を借りる必要がある。

 だから、一人ひとりの技術の習熟は、非常に大きな差になって現れる。


「中の造りを紹介してやるよ」

「いえ、私も作ったんで、知ってるんですけどね」

「君の知識と合わせて、改善するべき点があるかどうか、計画通りに進行しているか、確認してくれってことだよ」

「なるほど。そういうことでしたら」


 獣除けだろう、分厚い扉を開いて中に入れば、中央は通路になっていた。

 通路を挟むようにして左右、幾つもの柵でブース分けがされている。

 鶏糞は外で飼ってさえかなり臭うため、壁には引き戸が幾つもつけられて、換気の良い作りになっていた。

 ブース内の地面は、すでに麦藁が敷かれている。鶏糞と混ざると臭いが抑えられるし、そのまま堆肥の準備もできる。

 セメントや石造りにすると、鶏はストレスが溜まる。

 地面を蹴って、ストレスの解消をしたり、土中のミミズを探したりする習性があるからだ。

 そのため下は土のままだ。


 畜舎をぐるっと見渡して、フェルナンドはエイジの顔を見た。


「なにか問題はあるかい?」

「ブースに餌と飲み水を溜める長方形の容れ物を作ろうって言ったやつ、出来ていませんよね」

「あっ……あちゃー。忘れてた。早速作るわ。今日中にできるから、入れる鶏の選別、頼んでもいいかな」

「はい。大変ですけど、頑張ってください」

「自分のミスだからな。何とかするさ」


 頭を掻きながら、苦笑を浮かべフェルナンドが小走りに畜舎を出る。

 一つだけならともかく、ブース全てとなるとかなりの仕事量だろう。

 だれか、助けられる人はいるんだろうか。


 自分もまた畜舎を出て、鶏を貰う順番はどうすれば良いか考えながら、そんなことを思った。

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