Episode3:お姫様でも人魚でも妖精でもない
目が覚めると私はフカフカのベッドの中で横になっていた。口の中には嘔吐の際に味わった酸味がほのかに残っている。そっと腰を起こして周りを見渡すと、ベッドのすぐ隣に椅子に腰を掛けている父が静かに居眠りをしていた。時計を見る限り時間は深夜2時、先ほどまで居た暗い部屋には時計がなかったため、自分がいつ倒れて、どれほどの時間が経ったかなどは分かるはずもなかった。
「起きたのかい!体はもう大丈夫かい?」
私が起きたことに気がついた父は突然立ち上がって私の方に駆け寄りながら聞いてくる。その言葉を受けて私は自身の体を見渡した。体全体には疲労感が残っているが、針が刺さって傷があった腕には包帯が綺麗に巻かれていたため、特に痛みというのはなかった。
「大丈夫だよお父さん!でも少し体が重い感じがする……」
「それは疲れからくるものだろう、今日はもう寝なさい」
「寝るって言われても、さっきまで寝むってたからあんまり眠くないよー」
少し自分の体を左右に振って駄々をこねてみる。
「まぁ、それもそうだね‥‥。それじゃあ眠くなるまでお話しでも読んであげようか。何を読んで欲しい?」
そう言うと父は部屋にある本棚からあるだけの絵本を抱えて持ってきた。ベッドの上に広げられた絵本を私は一つ一つ吟味していく。そして選ばれた一冊を父の手元に置いた。
「またこの本を読むのかい?この前にも読んだ気がするだけど…」
「やっぱり私のお気に入りはこれなの!他のもいいけど私はこれが大好きなの!」
そこまで言うならと父は渋々絵本の扉をそっと開いた。
『おとな』という絵本らしからぬ題名がその本にはついていた。
物語は主人公の物心ついたばかりの少年が空から落ちてくる何かを観測するところから始まった。その何かが落ちた後の世界は子供に伝染する病が流行り、外を大人しか出歩けないまでに朽ちていった。青年は大人になるのを待ち焦がれていた。早く外の世界を知りたいという好奇心に常に駆られていた。そして待ちに待った瞬間が訪れる。少年は大きなカバンを背に背負い家の扉を開け、外の世界への境界線を超える。これが少年が大人になる瞬間であった。
それから彼は多くの場所を旅して行く。そして最後に彼が辿り着いたのが、あの何かの根源だった。好奇心に駆られるままに彼は何かへと近づいていきその物語は終わる。物語ではその根源がどういうものだったのか、彼は一体どうなったのかなどは何も言及されなかった。
父が絵本を読み終えると少女は満足気な顔を見せていた。そして父は疑問に思ったことを口にする。
「なぜこの絵本が好きなんだい?あまりに現実的でハッピーエンドという訳でもないと思うけれど」
「お父さんはそう思うかもしれないけど、私にとってはハッピーエンドかどうかなんてどうでもいいの!」
「それじゃあ、どんなところがいいんだい?」
「それはね!この絵本の主人公がどの絵本の主人公よりも共感できるところ!お姫様でもなく人魚とかでもなければ妖精とかでもない。私たち子供と同じで彼も外の世界に広がる病気のせいで外に出られなかった。そんな私と似ているところが大好きなの!」
そう目を輝かせながら意気揚々と少女は語った。そして気づいた頃には少女は父の腕の中で抱きしめられていた。
「どうしたのお父さん?」
単純な疑問が口からぽっとこぼれ出る。
「ごめん……外に行かせてあげられなくて……」
「どうしてお父さんが謝るの?子供が外に出られないのは当たり前のことなんだからお父さんは何も悪くないよ…?」
「それでも…………」
言葉をかみしめると同時に少女を抱きしめる力が一層強くなる。
「私が今こうして幸せに暮らせてるのは全部お父さんのお陰なんだよ。だから自分をそんなに責めないで」
父は昔から責任感を感じやすい性格だった。だから私は時々思う。父が私を支えてくれるように、私も父を支えていかなければならないと。だから私は父の頭を優しく撫でた。
「いつもありがとね。お父さん」
少女とその父が家族の愛を育む一方で、場面は変わり、ある男は憎悪を育んでいた。それは自分に向けられたものでもあり、他者に向けられたものでもあった。その男は日々、突きつけられる辛い現実に耐えてきた。いや、それは今思い返せば、ただ逃げてきただけだったのかもしれない。男の心はもう既に壊れかけていた。
「いい加減、自分を騙すのも限界か――――。そうだ。理解するんだ。今までの子供たちを地獄に運んだのは全部自分なんだ」
深い深い憎悪の中で赤い瞳が覚悟を決める。男の名はラーカス・フロイト。悪魔に首輪をつけられた、ただの臆病者である。
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