5:わからない感情と知らない目

 先日、お弁当箱を買いに行きました。


家を離れて出かけるというのは初めてで、ボクはお兄さんに着いて行くのでいっぱいいっぱいでした。


 切符も、電車も、人や車がたくさん居る所も、動く階段も。売ってない物があるのか分からなくなる程の大きなお店も。

 目がチカチカして、何を見たらいいのかよく分かりませんでした。

何もかもが初めてで戸惑うボクに合わせて、お兄さんは歩いてくれました。

 危ない所や人が多い所は、手を繋いでくれました。


 お兄さんの手は大きくてひんやりとしていていたのを覚えています。


それから、れぞれのお弁当箱を探しました。

 お兄さんは細長くて四角い、二段になる物を。

 ボクは赤くて丸い、蓋に小さな兎が居る物を。

 お弁当箱とお揃いのお箸も買いました。

 

 朝。目が覚めたら着替えてお弁当を作ります。

 お日様は昇っていますが、お兄さんはまだ眠っています。目覚まし時計もまだ鳴っていません。リビングでかちこちと動いている時計の音だけが響いています。ボクの物音で起こさないようにそっと冷蔵庫を開けて、準備しておいたおかずを並べます。


 小さな塩鮭。卵。少し残っていた昨日の肉じゃがとサラダ。油揚げ。お魚のソーセージに、プチトマト。


 お兄さんは和食が好きだと言っていました。この肉じゃがも、お兄さんが昨日作ってくれたものです。

「日本はご飯がおいしくていいね。洋食の方が長く食べてたし嫌いじゃないけど、なんて言えば良いのかな……和食ってなんかほっとする」


 いつかの晩ご飯でそのような事を言っていました。

 お兄さんが買ってきてくれるお弁当の材料も、パンではなくご飯に合うものが多いです。だから、お弁当にもき魚や煮物などを入れる事が多くなります。

 だからといって、同じ物ばかりではいけません。今日はどうしましょう、と取り出したおかずをじっと見ます。


 油揚げに肉じゃがを詰めて、フライパンで焼いてみます。

 焼いたソーセージはプチトマトと一緒に爪楊枝で刺しました。レタスをお皿代わりにして、お弁当箱に詰めていきます。


 空っぽの箱がどんどん賑やかになっていくのは。とても好きです。

 お弁当作りは、ボクの朝の楽しみになっていました。


 こういう時、台所を見ていて良かった、と思う事があります。

 包丁の持ち方や焼き加減、煮込んだりする時間をずっと見ていました。


 だからといって上手に使える訳ではないのですが、全然知らないよりはきっと良いです。

 でも同時に、母様に料理を教えてもらいたかった、と思ったりもします。

 けれども、あの頃のボクはとても小さくて、そんな事考えることもありませんでした。

 小さいと言ってみましたが、昔のボクも今のボクも背は変わりません。お皿は大きいですし、流し台は高いです。


 それから、まだまだ知らないことが多いです。見たことはあっても、さわったことがない物もたくさんありました。包丁も。フライパンも。テレビも。電話も。お弁当も。この家に来て初めてさわって、使ってみるものばかりでした。


 お兄さんは、突然居座ったボクにたくさんの物をくれました。たくさんの事を教えてくれました。

 ボクはそれに返せるような物を持っていません。

 できるのは、お兄さんを不幸にさせないこと、お手伝いをすること。

 それから。こうしてお弁当を作ること。


 塩鮭も焼いて、卵焼きを作ります。いつかはテレビで見たようなオムレツを作ってみたいな、と思いながら卵をくるくると巻きます。

 これをお弁当箱に入れたら、朝ご飯のお味噌汁を作ります。

 それができあがる頃には、お兄さんの部屋の目覚ましが鳴るはずです。

 

 ――ピッ。

 アラームが鳴るのと、ぱしん、とそれを叩く音。どっちが早かったでしょう。


 お兄さんは朝がとても苦手だと言っていました。学校での課題や予習もありますが、吸血鬼だから夜の方が過ごし易いのだそうです。でも、学校には行きたいから絶対起きるのだとも言っていました。だから、毎朝布団の中で目覚まし時計と戦うのだそうです。


 今日はお兄さんが勝ったようでした。二つ目の目覚ましが鳴る前に、お兄さんが部屋から出てきました。

 長袖の薄いシャツにズボン。髪の毛はまだ寝癖がついています。


「おはようございます」

「うん……おはよ……」


 ふわわ、とあくびをしながら答えるお兄さんの目は、まだ半分くらい眠っていそうです。

 最近は目覚ましに勝つ事が多いのですが、やっぱり眠いらしいお兄さんは、たまに眠そうな目をしたまま朝ご飯を食べたりもします。今日はもしかしたらそんな日なのかもしれません。

 お兄さんはふらふらと台所を通り過ぎて洗面所へ向かう……と、思ったのですが、ぴたりと台所で足を止めました。


 水切り籠のお茶碗を取ろうとしたボクは、思わずお兄さんの方を見ました。

「お水。飲みますか?」

 お茶碗からコップに手を動かしながら聞くと、お兄さんは何も言わずにボクをじっと見ています。


 体調が悪いのでしょうか?

 それともまだ夢の中なのでしょうか。

 ボクは分からないままお水をついだコップをお兄さんに差し出します。


「お兄さん。お水、どうぞ」

「――」


 お兄さんの口から、何か言葉が零れました。でも、なんと言ったのか、ボクには届きません。

 眠そうなお兄さんの目が、なにか違うものを見ているように――なんだか笑っているように見えました。

 お兄さんの手がボクの方へ伸びて、コップを通り過ぎ。ボクの髪の毛に触れる直前。


 ぴた、とその手が止まりました。


 少しだけ手に気を取られていたボクがもう一度見上げたお兄さんは、いつも通りの眠そうな目をしていました。

「あ……ああ、ごめん。水、ね」


 そう言ってコップを受け取り、ごくごくと飲んでしまいます。

 空っぽになったコップを受け取ろうと手を伸ばしたら、小さく首を横に振られてしまいました。


 お兄さんは自分でコップを流しで軽く洗って、籠の中にことんと置き。

「しきちゃん」

 置いたコップに視線を落としたまま、ボクの名前を呼びました。

「はい」

「いつも、ありがとうね」

「……?」

 いきなりどうしてそんな事を言うのか分からなくて、ボクは思わず返事を忘れてしまいました。


 ボクがそれに気付くよりも早く、お兄さんはいつも通り笑って「顔洗ってくる」と台所を後にしました。

 

 □ ■ □

 

「……なにしてんだ。僕」

 ぱたん。と洗面所のドアを閉め、僕は思わず頭を抱えた。


 寝ぼけていた、なんて事は言わない。

 確かに眠気はがっつり臨戦態勢で防御一方だけど、それとはまた違う感覚。

 彼女が、しきちゃんが。なんか違って見えた。


 喉が渇いた時、誰かが美味しそうに見えるのとも違う。

 彼女が喚起させる庇護欲……それも違う。


 なんと言うか。それらの欲……気持ちの一端に触れつつも、それを強く諌める衝動がごちゃ混ぜになっているような。

 いや、感情や欲はどうでもいい。


 今一番の問題は。さっきの行動が、僕の意志とは全く関係ない事だ。

 気がついたら彼女の髪に手を伸ばしていた。慌てて手を引っ込めたけれども、あれは僕の意志ではない。なのになんで。


 呪い。という単語を思い出した。


「ああもう……!」

 頭を振ってその考えを追い出す。

 身体を、意識を乗っ取られかけたとでも言うのか。馬鹿馬鹿しいことこの上ない、と頭の中の僕が僕を嘲笑するが、それを否定する材料はない。


 むしろ、それを肯定する可能性の方が鎌首をもたげてくる。


 しきちゃんが話していた呪い。僕が取り込んできた、数えきれない程の命。

 ああ馬鹿馬鹿しい話だ。僕が。


「僕が……彼らに負けるとでも言うのか」


 洗面台の鏡に映る僕自身に問いかける。鏡の僕は、笑っていた。

 僕を見下すような目で。その問いに、肯定を突きつけるように。


 その目は。その色は。


「……誰、だよ……」


 深い深い茶色。

 瞬き一つで元のブルーに戻ったけど。

 それはどう見ても、僕の眼ではなかった。

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