第21話

 てっきり職員室か相談室にでも行くのかと思ったら、刈谷が向かったのは屋外に設えられたベンチだった。しかも初等科の校舎からはだいぶ離れている。位置的にはむしろ中等科の方に近い。


 刈谷はベンチに深く腰を掛け、黒いタイトスカートに包まれた足を高々と組むと天に向かって煙を吐いた。微かに青くてひどくいがらっぽい固まりが、寄る辺のない魂みたいにゆらゆらと昇っていく。


「もしかしてこのためにわざわざ来たんですか?」

 洋子は煙を手で払いながら目を眇めた。

「先生、お煙草吸うんですね」

 空は興味深そうに刈谷を眺める。


「美味しいわよ。逢田さんもどう?」

「ありがとうございます。じゃあ一本だけ」

「絶対駄目! 刈谷先生、洒落にならない冗談はやめてください。他の先生に見つかったら首になりますよ?」

 眉を逆立てる洋子に、刈谷は逆に目を細めた。


「そこで他の先生に告げ口しますよ、とならないのが姫木さんの美点よね。私が男の子だったら好きになってるわ」

「そんなことでごまかされませんから」

 強気に答えつつも思わず頬が熱くなる。


「だけどお嫁さんにするなら逢田さんの方がいいわね。毎日ふわふわして幸せに暮らせそうだし」

「ぎすぎすしてて悪かったですね。どうせあたしはがみがみとうるさい女です」


「そうつんつんしないの。逢田さんも何か言ってごらんなさい」

「はい……えーっと、洋子ちゃんはとってもきびきびしているので、いつものろのろしているわたしはとても助かっています。わたしは洋子ちゃんのことが大好きです。すくすくと育って大人になったら、洋子ちゃんのお婿さんになりたいです」


「よかったわね姫木さん、逢田さんがお嫁さんにしてくれるそうよ。でも人前ではあんまりいちゃいちゃしないようにね。やらしいことはこそこそとやりなさい」

「あの、もういいですから……」

 洋子は頭を抱えた。擬態語を入れ込むのはいいとして、その例文は何なのだ。


「でも空に好きって言ってもらえたのは嬉しいな」

「おめでとう逢田さん。両想いよ」

「わーい」

「あ……」

 心の声を表に出していた。恐々として横を向くと、刈谷は白けた様子で煙草をふかし、そのもう一つ隣では空の輝く瞳が洋子のことを見返した。


「洋子ちゃん大好き」

 洋子は無言のまま立ち上がると全力ダッシュで駆け出した。

 五分経過。


 一番近くにあった手洗い場で顔を洗い、気後れしつつ戻ってみると、幸か不幸か二人ともまだ元のベンチに座っていた。先坂は引き続き喫煙中だ。吸い差しが長くなっているので新しい一本を点けたのだろう。


「お帰り、洋子ちゃん」

「ただいま」

 手を振って迎えてくれた空に答え、空いている刈谷の左隣に座り直す。


「すいません先生、お待たせしました」

 きっと不機嫌になっているだろう。刈谷は煙草を携帯灰皿に押し潰した。

「先生の方こそ悪かったわ」

「いえそんな」


 茶化されていたたまれなくなったのは事実だが、教師という立場の大人から面と向かって謝罪されるほど腹を立てたわけではない。だいたいとどめを刺したのは空だし。


 もっとも、空にはからかったつもりなど毛ほどもないに違いない。だからこそ余計始末に困るのだけれど。

 刈谷は率直に自らの非を認めた。


「適当に聞き流してすぐに切り上げるつもりだったのに、下らない冗談で無駄に長引かせてしまうなんて馬鹿なことをしたと思うわ。自分に対して申し訳ない気持ちでいっぱいよ」

「じゃあ本題に入りますね」


 洋子は速やかに流した。

 空の身に起こった三つの出来事、縞パン消失事件、白衣の怪人襲撃事件、短パン蒸発事件について語る。


「で」

 口を挟まず煙草も吸わず耳を傾けていた刈谷は、洋子が説明を終えるとおもむろに尋ねた。


「先生にどうしろというのかしら、姫木さんは?」

「ワトソンをどうにかしてください」

 いきなり投げ遣りっぽい刈谷に洋子は正面から打ちかかった。


「あいつがいたら気が休まりません。取り返しのつかないことになる前に追い出すべきです。それで二度と学院に近付けないようにしてください」

「無理」

 わずか二文字だった。余りに簡素に過ぎて、頭に意味が沁み込むのにかえって時間が必要だった。


「もちろん先生一人にどうにかしてほしいなんて言いません。でも職員会議とかで取り上げてもらえれば後は簡単じゃないでしょうか」

「あんたねえ」

 刈谷は深くため息をついた。あんた呼ばわりされたことより、あからさまに呆れられてしまったらしいことに洋子は怯む。


「あなた達が気に入らないクラスメイトを仲間外れにするのとはわけが違うんだから。証拠もないのに正式に雇われてる職員を簡単に免職にできるわけないでしょう。理事長の鶴の一声でもあればどうか分らないけど、それにしたって理事長権限でどうこうっていうより、個人的に直接納得させた上で向こうから辞表を出させるって形になるでしょうね。下手に権力行使したりして後で訴訟でも起こされたら大変だもの」

「そ……」

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