やあ 表白

彼にとっては塵芥の一粒にも満たず、大河の一滴にも満たなかった私の存在が、一夜の内に激変した訳です。私は部屋に帰った後もその快感が残留していてワクワクするような、ときめくような気持ちになっていましたが、次第に『人格ある個人』としての自覚がふっと波紋を広げ出して、ドキドキするような、腹を包丁で突き刺したくなるような感情になりました。よく考えると馬鹿なことをしたものです。彼は間違いなく教育委員会にチクるでしょうし、そうなると私の教師人生はその日をもって終わるわけです。そうなると、彼が卒業した後に入ってくるであろう美少年たちにも会えなくなるわけですから、それを彼一人で終わらせてしまったのは本当にもったいないことです。「仕方のないことだ」と私は思うことにしました。彼に対する嫉妬、恋慕、激情があんなにも高まっている時にあんなものを見せられては我慢出来るわけがないではありませんか。お腹に手を置きながらそう思うと全てに諦めがついてすぐに寝ることができました。その次の日も例のカップルはいちゃついています。女は彼の髪の毛なんかを整えて『寝癖ついてるよ、昨日髪乾かさなかったでしょ』なんて言ったときには笑ってしまいそうになりましたが、なんとか我慢しました。さて、これからが大事な話ですが、、、彼はチクりませんでした。当然、彼が親や教育委員会に告発をし、それをもって私の教師人生は幕を閉じるものだと信じて疑いませんでしたが、いつまで待っても彼の親から抗議の電話の一本も無ければ、校長から呼び出しを食らうこともありません。いくらかの日が経った時、私は理解しました。彼はその底のない優しさ故か、私の職を奪ってしまうことにある一定以上の罪悪感を感じてなんの行動も起こさなかったようです。ああなんと、私はこの時ほど神に感謝したことはありません。一体、こんなことがありますか。私などは感情が高ぶりすぎてその週末にお寺と神社と教会に行って「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、神に感謝いたします」といったぐらいでした。まあ確かに、あの日以来、目が合う回数も世間話をする回数などもほとんど絶無になってしまいましたし、「精神と肉体と二元論」について授業をしていた時もまったく無視といった感じでしたが、それでも得たものの方が大きいという結論になりました。ある日のことです。文化祭の片づけをしていた時だったでしょうか。私と彼はたまたま体育館の物置で二人きりになりました。あの日以来に二人きりになれたのです。私が何とかものにしようと思っていると、「僕はあの日のことを忘れることにします。ですから、先生もあの日のことは忘れてください」と言います。高圧的でなく、懇願するような、弱みを握られているような言い方でした。どうやら彼は―――私には今になっても理解出来ないことですが――――彼女を持ちながら不貞行為をしてしまったという罪悪感を持っているようなのです。そしてそのことがばれたくない。だから、「先生もあの日のことは忘れるようにしてください」、こう言ったのでしょう。私は聞きました。一夜を共にした関係ですからこの質問で十分でした。「どうして?」「ばれたら彼女が可哀そうだから」、私は感動しました。彼は美人の彼女を失いたくないからでもなく、自分の不貞行為を世間にばらされたくないためでもなく、一途に自分の恋人のことを思っていたのです。私は彼を押し倒しました。「もう一度私と肉体的に愛し合いましょう」彼はどこで身に着けたのか深沈な顔をしてこう言います。「それはなりません。僕にはすでに精神的に愛し合っている方がいますので」「なら大丈夫ね、肉体と精神は別個のものだと教えたはずだけど」「それはそうですけども精神は肉体よりも高等なものだとも教わりました」ここまで言い負けると言葉で何かすることはできないと悟りました。「ペンは剣よりも強し」などと言いますが、それは「ペンが剣で守られている条件下では」です。どんな賢者がああだこうだ言っても銃弾一発には負けるそんな世界です。しかし、彼は思うようにはなりませんでした。修学旅行の時よりは力も強くて、できる限りの力を使って抵抗してきます。しまいには「大声を出して人を呼びますよ!」などと言います。つい力を弱めますとさらに形勢が悪くなり、最終的に逆に組み倒れました。私は頭をフル回転させてこんなことを言います。「抵抗するとあの子に修学旅行でのことを言います、どんな顔をするかしら」すると彼はハッとしたような顔をして私を押し倒していた手の力を抜いて悔しそうに下唇を噛んで「女性の中にもこんなに恐ろしい人がいるとはわからなかった」と言います。まあそんなことは私にとってどうでもいいことだったので、結局は再度押し倒してするべきことをしました。文化祭の季節ですから、少し肌寒いくらいでしたが、次第に人間の体温によって体育館倉庫も熱気に包まれました。「熱いな」そう思った直後でした。体育館倉庫のドアがガラッと開くと同時に吐き気のするほど美人な顔がにょっと顔をのぞかせます。その顔ったら。彼女は裸の私と彼を見るや否や「きゃあ」と叫んで、その場にべたんと倒れこんでしまいました。「違うんだ」と彼が言います。「どこが違うってのよ」彼女は怒っています。「話を聞いてくれ」彼は懇願するように言いましたが、彼女は全て聞くこともなく、目に宝石のような水をためてどこかへ去っていきました。彼は絶望の表情を浮かべていました。私は憤りました。彼女に憤りました。何か公のものと言ってよい美少年を何か自分のものであるかのように錯覚して、彼にあんな態度を取ったのですから、それはおかしいと思って憤ったのです。私は服を着ると彼女を追いかけました。屋上に行くと、彼女は崖に立って今にも飛び降りそうな、そんな状況でした。「あなた!」と私は叫びました。私は元もと、精神年齢も幼い人間なのです。私の心はもう女子中学生そのもので、彼女の恋敵のつもりでした。「あなた、傲慢だわ」私が言いました。すると彼女は「いつから彼とそんな関係だったのですか」「最初からよ、」「最初から・・」風が吹いて彼女の若い髪が揺れます。その美しさったら、彼女は片足を宙に浮かべました。「あなた、傲慢だわ」彼女はもう片方の足も宙に置きました。すなわち、身を重力に委ねました。私はするするすると前に行って覗き込みました。彼女が肉塊になったのを眺めながら、若い体を若い人が持っているという矛盾を考えました。

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