東浪紀
國優
第1話(序章)
ーー兄さんが忽然と姿を消してから今日で半年になるーー
まだ薄暗い住宅街。天川
6年前まで、そこには2階建ての住宅が建っていた。朝焼けの光の中に燈夜はその幻影を見る。けれど幻影はぼんやりとしていて屋根の色やドアの形も思い出せない。
脳裏に蘇るのは何もかもを焼き尽くそうと生き物のように襲い来る炎の色、部屋の中で燃え落ちて黒く燻る物体、鼻の奥を突き刺す焦げのきな臭い匂い、喘息の持病があるのに自分に覆い被さり守ってくれた兄が発する苦しそうな咳音。
あの夜、幸せな四人家族のうち、二人がいなくなり、そして生き残った二人のうちの一人が半年前に消えた。
兄の
警察が家までの道のり沿いの監視カメラを調査してくれたが、迂回する道もないのに途中からカメラに映る事なく、その時間に通った車に連れ去られた形跡もなかった。周りの人たちが神隠しだと噂したが、まさにそんな状況で消えたのだ。
燈夜は一つため息をつくと、自転車のペダルを漕ぎその場を後にした。
◆◆◆◆
新聞を全て配り終える頃にはだいぶ陽も高くなりジリジリと肌を射し始めた。9月に入ったとはいえ、まだまだ夏の延長戦だ。
燈夜は和風家屋の軒先に自転車を停めると玄関引戸をできるだけ静かに開けた。寝ているかもしれない家主への配慮だったが、すぐに奥から「お疲れさん」と少ししゃがれた声がかけられた。
「おはようございます」
「おはよう。朝飯できてるぞ」
「ありがとうございます」
靴を脱いで台所を覗くと食卓には目玉焼きとベーコン、シラスや海苔、湯気を立てるご飯と味噌汁が並べられていた。
似合わないエプロンをして燈夜に食卓につくよう促すしゃがれた声の主は、昨年40年勤務した消防署を定年退職し早起きなど必要ない身でありながら、毎朝こうして燈夜のアルバイトが終わる時間に合わせて出来立ての朝食を用意してくれる。
一緒に暮らし始めたのは朔夜が失踪した直後からだが、6年前の火事の後から残された兄弟を何かと気にかけ世話を焼いてくれた人だった。何よりもあの炎の中から救い出してくれた命の恩人である。
「あの、磯崎さん、今日放課後遅くなります」
燈夜は箸を持ち上げたまま、食事に手をつける前に思い出したように言った。
「あれか?」
磯崎は壁に貼ってあるビラに目をやった。兄、朔夜の顔写真と失踪当日の服装が描かれた行方不明者を探すためのビラだ。
「はい」
「あんま無理すんなよ。まだ中坊なんだから。来年は受験だしな」
「はい。でも、大丈夫ですよ」
「俺もビラ配り手伝いたいとこだがな、今日は夕方から寄り合いなんだわ。夕飯は作って置いとくからな」
「ありがとうございます」
燈夜は軽く頭を下げて味噌汁を啜り、掛け時計を見て登校までの時間を逆算した。
◆◆◆◆
夕方の日差しは朝のそれより幾分柔らかい。それでもアスファルトに温められた気温はなかなか下がらない。
燈夜はビルの窓が反射する西日を避けようと翳した手の甲で額の汗を拭った。ビラを配る手には汗が滲み紙に湿り気が移る。
『この人を探しています』
駅前のロータリーに面した街頭で人通りは多いが、時間的に皆家路を急いでいるのか目も合わせずに足早に通り過ぎて行く人がほとんどだ。
事件の直後は立ち止まってくれる人も多かったが、時間が経つほど人々は無関心になっていく。最近ではなかなかビラを受け取ってもらえないせいか、寄せられる情報もめっきりと減った。情報と言っても真偽のわからないものが数件で悪戯と思われるものもあった。
それでも死体が見つかったわけではない以上、探し続けることが唯一自分にできる事だと街頭に立ち続け「お願いします」と声をあげるのだった。
磯崎からは進学の費用は自分が責任を持つから絶対に高校には行け。と言われているが、本来なら有難い申し出も燈夜にとっては正直なところ、現実味がない。兄がいなくなってからというもの出口のない迷路に迷い込んだような状態で、自分がどちらを向いて立っているのかさえもわからない気持ちでいる。
6年前に何もかも焼け落ちたあの場所にたった二人生き残り、互いの存在だけを支えとして生きてきた。「生きていこうな。俺たちは」という兄の言葉と愛情だけを頼りに生きてきた。ただただ会いたい。今はそれしかなかった。
突如、そんな感傷を切り裂くように轟音が響いた。燈夜が我に返った瞬間、目の前を歩道に乗り上げた暴走車がビルの1階に突っ込み、さらに大きな衝突音が耳を劈く。
続いて突然のことに足がすくみ動けない燈夜に向かって、周りから「危ない」「逃げろ」と叫ぶ声が聞こえ、頭上から何かが軋む音が聞こえた。
見上げればビルの外壁に設置された袖看板が衝撃で傾き、グラグラと大きく揺れている。そして燈夜に狙いを定めたかのように落下してきた。燈夜には何故かそれがスローモーションのようにゆっくりと見える。
逃げようとしたのか驚いて転倒したのかわからないが、最後に見えた景色は、ビルの間に見える暗くなりかけた空とオレンジ色に染まった雲。それを埋めるように無数のビラが、はらはらと舞う
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