第3話 音楽を聴きながら元彼との思い出に浸るのは拗らせ女の嗜みです。

 5、6年前、紗恵子は小さなステージのある神田川沿いのバーに、歳の離れた親友とよく飲みに行っていた。そのバーで、ある日、その日の出演者の出番もすっかり終わったあと、その男は弾き語りを始めていた。

 見慣れないが、店の制服を来ていたので、おそらく新人が音楽好きな常連に無茶振りをされていたのだろう。客も店員も音楽好きが集まるこの店では、珍しいことではないから、彼も大変だな…ていうかすごい綺麗な顔をした人だな…!と横目に流していたが、歌がはじまった瞬間、興味本位だった視線がそこから動かせなくなっていた。


 他のお客さんもいるから、マイクは通さずに、楽器はアコースティックギターだけ、それだけでも十分に耳に、心に刺さる歌声だった。 

 初めは少し困った顔で照れたように歌っていたのに、そのうち、乗ってきたのか、時折笑みをこぼしながら歌う姿は、野良猫みたいに、自由でしなやかで、そして美しかった。


 だから、演奏が終わった後に、ドリンクを持ってきた彼に思わず声をかけてしまった。

「あなた、すごく歌が上手いのね。」

「あなたのせいで、この子、私の恋バナ全然話聞いてくれなかったのよ。」

「ありがとう、ございます。人前で歌うのが久しぶりだったから、ちょっと緊張してたんすけど…そう言ってくれて嬉しいです」

 そう返す彼は、意外にも人懐っこくて、歌や曲を褒めるととっつきにくい美しい顔をくしゃくしゃに崩して笑っていた。


 秋というその新入りは、同い年という事もあり、話がよく弾んだから、一人で飲みにいった時はよく相手してもらうようになった。そうして、何度か店で会ううちに、一人で行くのが暇つぶしではなく楽しみになり、相手を知れば知るほど、お店だけじゃ話し足りなくなって、お店の後に飲むことも増えた。


「ねえ、最近自分ちに帰ってないけど大丈夫?」

「だって、紗恵子の家が一番居心地いいんだもん。ダメ?」

「まあ、猫を飼ってると思えばいいか。」


 猫を飼ってると思えばいい…最初の頃はそんなふうに思っていたが、 彼を知れば知るほど、歌だけじゃない彼の魅力を知れば知るほど、彼のそばが心地よくなって、「私、彼女だよね…?」「え!違ったの…?」という会話を恐る恐るした頃には、彼と些細なことで笑い合える生活が紗恵子にとってなくてはならないものになっていた。


「この曲、どんなアレンジがいいかな?」

「演歌調で聞いてみたい」

「演歌調…?こんな感じ?」

「あはは、すごい。じゃあ次はレゲエっぽく!」

「ええ…これ、バラードなんだけど…」


 バカみたいな戯れも楽しかったし、嬉しいことが起きたら二人で喜びを分かち合っていたから、良いことが二倍以上起きていた気がする。


「ねえ紗恵子!バーに来てた子がバンド誘ってくれたんだ!ちょーかっこいい曲作るやつ!」

「ええ!すごいやん!」

「他のメンバーとも会うの楽しみだなぁ、センスあるんだろうなぁ。」

「よし、お祝いにお寿司とろう!」

「マジで!?やったぁぁぁ!」


 でも彼は、あくまで野良猫のままで飼い猫にはなってくれなかった。

 紗恵子の家に、いる頻度が最も多いだけで、連絡もなくふと帰らなくなる時は全然あった。そして、そういう時は、笑顔で誤魔化して、ほとんど行き先を言ってくれなかった。初めは、そういうやつだから仕方ない、と思っていたけれど、好きになればなるほど、彼が違うシャンプーの匂いをさせたり、違う服を着て帰ってくることも、その度に不安と怒りで不安定になってしまう自分が嫌で仕方なくなっていった。


 ある時、元々忙しかった前の職場で、大型の案件が立て込んで、心身ともに疲れきったタイミングと、秋の「外泊」が重なり、帰ってきた秋にそれはもうひどく当たってしまったことがあった。

 その時は、いつも通り、やっぱり行き先は言わずに、優しく宥めてくれていたけど、そのすぐ後に行った出張から帰ってきたら、紗恵子の家からは秋がいなくなっていた。いつも脱ぎっぱなしの服が一着もないことに気づいた時、2日前にきていた「ありがとう」と言うメッセージが別れの言葉だったのだとわかった。


 好きだった笑顔も歌声も、何もかもが急に生活から無くなってしまったのはとても辛かったけど、あの日秋に投げてしまった言葉は我ながら酷いもんだったし、心当たりが無いわけではなかった。それに、野良猫に縋ったところで、今まで以上に惨めになるだけだと追いかけなかった。


 その後、同じ業界でも少し働きやすい会社に転職もして、少しは穏やかな生活が送れるようになった頃、家で晩御飯を食べながらCMが流れる予定のテレビ番組をチェックしていると、マンスリーテーマソングとして秋の歌声が流れてきて、箸を落とした。。そしてその頃から、テレビやラジオ、ネット、あらゆるところで4th AVEという期待の新人バンドが取り上げられるようになっていた。


 最初は秋が出るたびに動揺していたが、最近にやっと落ち着いて純粋に「お互いにそれぞれの場所で頑張ろう。」そう思って応援していた矢先にこの案件とは、つくづく自分には運がないのかもしれないと思った。


「でも、やっぱりあいつの歌…好きなんだよなぁ。」


 今回もいい曲だった。だからこそ、紗恵子は首をかしげる。

「いい曲なのに、なんでこんなに固まってないんだろう。」

 秋は何に迷っているのか、そもそも、どういう目的でこのアルバムを作ろうとしてるんだろう。


 坂上と谷口が出していた企画書は、予算に対しても十分すぎる内容で仕上げられていた、企画の内容もacheの強みを活かしたセールスに有効的な手段を練られている。


 それを一部ではなく、根本的に練り直す必要なんて、普通ならないはずだ。


 それにそもそも、秋は何のために、大掛かりなプロモーションしたいんだろう。


 いくつかの仮説をメモに書き出した後、紗恵子はもう一度テープを初めから巻き戻してから、カセットをデスクの鍵付きの引き出しに入れて帰った。

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