次の案件は、クライアントが元カレでした。

矢凪來果

第1話 高級寿司に釣られた女。

 

 

 忘れられない人はいますか。


 CMでそんな言葉を聞くたびに、思い出してしまう人がいる。



 猫のように気まぐれなくせに、絵画から出てきたように整った顔をくしゃくしゃにして笑う人懐っこい人だった。


 彼と一緒だと、なんでもない毎日が、少し鮮やかになった。


 野良猫のようにいつの間にか住み着いてきたくせに、心の中に入り込んできた彼は、こちらの都合もお構いなしに、ある日、するりとどこかへ行ってしまった。


 何日も泣いたし、彼の面影を見るたびに心が揺れる日々が何年も続いた。

 

 それでも、月日が経つと、思い出しても泣かなくなったし、私は私で頑張ろう、やっと、そう思えるようになった。


 なのに


「…初めまして。acheです。」

 紗恵子の心をぐちゃぐちゃにした野良猫は、天使の顔をしたまま目の前に戻ってきた。






 その日、大きな案件の納品が完了した山下紗恵子は、珍しく早めに帰れそうだとうわついた気分で最低限必要なメールを処理していた。


 ああ嬉しい!帰ったら、何しよう!


 久しぶりにハルちゃんとご飯にも行きたいが、あの人は忙しいかもしれない…あ、そういえば、気になっていた映画が封切りだ。席が埋まってなければ…

 そんなことを考えていたら、「おい、山下。」と部長である高橋の声が、紗恵子のすぐ後ろから聞こえて、軽く飛び上がってしまった。

 危ない、もうちょっとで映画館のサイトに飛ぶところだった…


「…なんですか?」

「お前さ、ache好きだよな?」

「はあっ?」

 紗恵子は突然の問いに、少し声を裏返しつつ、怪訝な顔をした。


「acheって…あの4th AVEのですか?」

「ああ」


 4th AVE、通称「フォーアベ」。


 5年前にメジャーデビューをすると、ジャンルレスな独自のメロディーと奥行きの深い歌詞、『絵画から出てきた天使』と形容されるビジュアルを持つボーカルacheの圧倒的美声が話題を呼び、気づけばあっという間にメジャーシーンを牽引するようになった。

 今もドラマ、アニメ、CMとタイアップも引っ張りだこで、特にデビュー曲が使われたアニメの世界的ヒットも相まって海外での人気も高まり、昨年は大規模な欧米ツアーを成功させていたはずだ。


「人気だし、普通に聴きますけど…別にファンじゃないです。」

「よく鼻歌で4th AVEの曲歌ってるぞ。」

 うそ、無意識だ。

 紗恵子は鼻歌を聞かれていたことに居た堪れなくなったが、それでも否定した。

「それは…見てたドラマの主題歌だっただけです。」


 高橋は少し顔を顰めたが、諦めずに声を潜ませ隣の椅子に座った。


 嫌な予感しかしない…。


「その4th AVEのボーカルacheの案件があるんだが、入ってくれないか」


 ほらきた。


「絶対嫌です。」

 すぐに拒否するが、高橋も食い下がる。

「お前、化粧品のクライアントは落ち着いたところだろ。予算もでかいぞ。」

「他のクライアントもありますしら4th AVEは詳しくないし…他にやりたいって人いるでしょう?」


 っていうか、そのacheと呼ばれる人物にはなるべく会いたくないし、会わない方がいいのに…。

 気を抜いて鼻歌なんて歌ってしまっていた自分に反省だ。


「下手なやつじゃだめなんだ。せっかくウチで指名の引き合いをもらったの、に提案の感触が良くないみたいでさ…このままじゃ他社に行かれそうなんだよ。この局面を乗り切れそうな営業はお前しかいないんだ…」

「何そのしんどい状況…余計嫌ですよ!」

「お願いだ!今期の部の予算と新卒採用で使う事例にしろって上からの圧がやばいんだよ…!」

「ちょ…と何するんですか!」

 高橋が勢いよく頭を下げる。小声のやりとりとはいえ、部長に頭を下げられている絵面は執務室の注目浴びてしまうから居た堪れない。


 紗恵子は慌てて「やめてください!」と制すが高橋は頭を上げずになおも続ける。

「なんでも奢るし、昇給できるように評価も上げる…だから頼む…。」

「私が入ったからって受注できるか分かんないですよ…」

「それでも、やれるだけやりたいんだ!」


 視線どころか、ひそひそ声まで聞こえるようになってきた執務室の空気を感じ取り、紗栄子は大きくため息をついてから、答えた。

「受注できたら銀座の八兵衛のお寿司、ランチでいいすよ。」

「八兵衛は容赦ねえな…が、わかった。」

 ランチでも万は超えるリクエストに頭を抱えていたが、我らが部長ならそれくらいの甲斐性は見せてほしい。


「成功報酬でいいですよ。」

「それならなんでも奢るよ。助かる、頼りにしてる。」

 高橋の安心した笑みに、もう一度紗恵子は大きなため息をついた。

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