ルルーナガー10
私は岩に腰掛け、鎌を構えていた。いや、鎌なんて持っていない。そういう格好をしていただけだ。
さて、ここはどこだろう。目の前には、赤茶けた岩ばかりの平原が広がっている。黄色い空を見上げると、赤い太陽が天頂で輝いていた。今はお昼ぐらいだろうか。日差しは強かった。そのわりに肌寒い。乾燥した風が吹いており、背の低い草を揺らしている。細かい砂が舞い上がり、空気はほこりっぽい臭いがする。見慣れない風景だった。とても日本とは思えない光景だが、ここは日本のどこかであることは間違いない。
「お母さん!」
駆け寄る足音がしたかと思った次の瞬間、抱きしめられていた。突然のことに驚きつつ、しっかりと抱きしめ返した。
「ゴーサ!」
おそらく二十年以上ぶりに抱きしめる娘は、成人女性の体つきだった。
「ずっとそばに居てくれたんだね。それなのにお母さん、ぜんぜん気づかなくてごめん」
娘の頬をなでる私の手が、自分の手じゃないみたいに感じる。骨が浮き出て、張りがない。娘の顔も、すっかり大人の女性になってしまっていた。声も、記憶にあるものとはだいぶ違う。それでも可愛い、大事な娘。
「村崎くん……あなたも、ずっと私に呼びかけてくれていたのね」
すぐ隣に座っている夫は、がっくりとうなだれていた。夫の肩に触れてみたら、ぬくもりを感じたので、「お父さん」と何度も呼びかけてみたら、身じろぎした。ほっとする。
私は幼馴染みだった村崎くんと結婚して、ゴーサを生んだのだ。夢の世界ではそんなことも消え去っていた。
「ゴーサは今何歳なの」
「わからないけど、多分二十代半ばぐらいじゃないのかな。お父さんとお母さんが五十歳ぐらいに見えるから、逆算したらそうなる。世界が夢に飲まれたとき、私は小学一年生だったよ」
「人類はずいぶん長いこと、夢の世界にいたのね」
よっこらしょ、と立ち上がる。意外にも体はすんなり動いた。
「ゴーサ、お母さんは夢の世界で99人の悪魔と天使を倒したんだよ」
「知ってる。だって全部見てたから。全人類が無意識でつながってたから、全人類が知ってるよ」
「そっか……。私の夢に巻き込まれたことを許せないって思っている人はきっといるよね」
まだ違和感のある自分の両手を見る。こんなふうに勝手に年を取ることが許されていいとは思えない。ゴーサも、7歳がいきなり二十代半ばだなんて。それってつまり思春期がまるまるなかったということだ。本当にひどいことに巻き込んでしまった。
「それに私がタリエル決済を使って、いけにえの命を天使に捧げていたことも大罪だよね。私どうしたらいいんだろう」
罪を償うということについて考えなければ。私は罪に罪を重ねてばかりだ。だけど、もう逃げ出すわけにはいかない。逃げた結果がこれなのだから。
「ううん」
夫が目を覚ましたようだ。
「うう、悪魔を刻んで餃子の具にするなんて、お母さんはどうかしてるよ」
目覚めの一言がこれだもの。まったく村崎くんときたら。
「お父さんには食べさせてないんだから良いじゃない」
「そういうことじゃなくてさあ。わあ、なんだこれ、俺の手、しわしわじゃん」
「まだ五十歳ぐらいだよ、言うほどしわしわじゃないって」
「ご、五十なのかよ、俺」
ああ、私の家族。夫と娘が生きているということがありがたく、そして申し訳ない気持ちになる。タリエル決済で何千人も食べられしまったのに、うちだけ無事だなんて。
罪深い。
「邪教の巫女ルルーナガーよ、もう一度、あなたを夢の世界におつれしましょう。そこでは誰もあなたを責めない」
殺したはずの天使が目の前にいた。念じても鎌はあらわれない。そうだ、ここは現実なんだ。
「かつてあなたは罪から逃げるため、私と契約したでしょう。再契約といきませんか」
世界平和のため、幼い娘に金剛印の刺青を入れて、生け贄として<死の旅人>に捧げる。その儀式を私が拒否した。そのせいで空は黄色になり、あちこちに有毒な沼地があらわれて草木は枯れ、海や河川も汚染されて、魚や小動物は死んでいった。私は罪の意識に苛まれ、こいつと契約して夢の世界に逃げ込んだのだ。しかし、まさか全人類を道連れにするとは思っていなかった。
「おまえの口車にはもう乗らない」
「そう言うと思いました。ですので、たくさんの命をご馳走してくださったお礼を言いたくて出てきただけです」
天使は羽を落とし、頭のわっかを投げ捨て、頭からヤギの角を生やした。
「またどこかでお会いしましょう。といっても、そのときは私はすでに別の女王アリと契約した後でしょうけれ……ぐはっ」
娘が投げた石が、天使もどきヤギの眉間に当たり、天使もどきヤギはその場に崩れ落ちた。
「さすが我が娘。印を使いこなせるのね」
娘が投げた石には、鎖教皇カンバシャの印が刻んであった。難しい印を使いこなせるほど成長した娘。娘の成長を嬉しく思うとともに、成長をそばで見られなかったことを寂しく思う。
ゴーサは、見えない鎖で地面につながれている天使もどきヤギを指さした。
「これも餃子にするの、お母さん」
「もちろん。悪魔の肉は毒に汚染されてないから、野菜や魚なんかよりずっと体に良いの。それに力も上がるのよ。お母さん……先代の巫女であるあなたのお祖母ちゃんも、力が増すっていってよく悪魔で餃子をつくってたわ。我慢して残さず全部食べましょう」
夫が小さく溜息をついた。
「俺、煮込み料理のほうがいいな。角煮とかさ。悪魔はしょうゆで甘辛く煮込んだほうが絶対うまいって」
私は懐から儀式用ナイフを取り出した。煮るか焼くか、それはあとで考えるとして。
「これを私の償いの第一歩とする」
宣言してから、悪魔の首にナイフを突き立てた。
(完)
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