西の風が吹く
朝吹
西の風が吹く 前篇
西部に行けば宝の埋まった山があり、川床には砂礫の代わりに金粒が沈んで、一年中そこを流れる水を夕陽の色に染めている。そんな川が本当にあるのなら、その川を歩く時、俺たちはきっと天上の花が咲き乱れているあの世を渡るような気持ちになるだろう。
二度と戻らないと決意して駆け落ちしたのは、そんな西方の彼方だった。
「ここに名前を」
Alton、その下にFaye。宿帖に書くのはいつも字を書き慣れているフェイだ。新婚なのかと訊かれれば、そうだと応え、兄妹かと訊かれても同じ返答をした。今回は何も訊かれなかった。さすがは西部だ。奥に行くにつれて治安がどんどん悪くなり、財布から金さえ出せば誰も余計なことは云わなくなる。
「アルトン。この先をずっと進むと、やがて海に出るのよ」
砂埃で茶色く色を変えた硝子窓の向こうを見つめながらフェイが俺に教えた。すっかり夜になっていた。女の衣服はなぜこんなにも紐だらけなのだろう。朝と夜に毎日手伝っているが結ぶのも解くのもどうしても慣れない。
「わたしたちが東部で見ていたのと同じ海かしら」
「当たり前だろう。海は海だ」
横にいるフェイの長い髪を手にすくい上げてその先に口づけをした。寝台の古びた敷布を掌でさすり、波のようなしわを作ってフェイの方に押しやる。何度もそうした。フェイに打ち寄せるさざ波だ。
「海がみたいのなら海まで行ってみようか、陸地の果てに」
「それもいいわね」
女連れは目立つ。指名手配が出回ればあっという間に周囲が賞金目当ての追手だらけになるだろう。一人殺せばあとは何人殺しても同じだ。縛り首になるだけだ。
「アル、おやすみ」
「おやすみフェイ」
その時がきたら俺はフェイのこの可愛い顔を見ながら死にたい。呼吸が詰まって頭が爆発して、口から飛び出た魂が天に昇るその最期の瞬間まで、裁きの木の枝からぶら下がりながら眼をかぎりなく見開いて、俺はずっとフェイのことを見ていたい。
乾ききった茶色い土と、灌木の張り付いた山肌が延々と続く。駅馬車は俺とフェイを乗せてひた走っていた。
「あれが鉄道ってやつらしい」
同乗の男が窓の外を指してそう云った。鉄で出来た道が広大な大地を横切って地平線に延びている。細く頼りない平行した二本の線は、先が二つに分かれた枝を使って巨人が地上に悪戯書きをしたようだ。
「あの上を、こう、輪っかをつけた鉄の箱が走るようになるらしい。幾つも連なって人間を乗せて、すごい速さで」
「そうなったら駅馬車なんてものは廃れてしまうでしょうな」
乗合馬車には俺とフェイ、他の同乗者は、まだ若い酒場女と、山師くずれっぽい奴と、書類鞄を大切そうに抱えた堅気の公証人と、俺よりも十歳くらい年上にみえる無口な男だった。
酒場女が俺に笑みを寄こした。男を誘惑し慣れている眼つきだった。俺も同じように片目をつぶって笑い返した。それから俺を挟んで反対側にいるフェイの手を握って女にみせた。酒場女は笑い出して、房飾りのついた扇で顔を隠した。次の宿場まであと半日だ。数か月前にはこの地域で駅馬車が崖に落ちて死者が出ている。強盗に駅馬車が襲われたのだ。馬車の中の誰もがそのことを想い出していた。
「俺が乗っている限り、危険はない」
突然、無口な男が云い出した。全員の眼がそちらへ向く。がたがたする馬車の中で女の乗客は進行方向に向かって、男は進行方向に背を向けて座っていたが、人数の都合上、俺はフェイと酒場女のあいだにいて、反対側の座席の真ん中に座っている無口な男とは膝をずらして向かい合っていた。まったく窮屈だった。駅馬車の座席は三列あるのだが、雨漏りがして座面が駄目になったとかで、この馬車は最後列が使えなかったのだ。
「いつもならば黙っているが、ご婦人が同乗しているのだから名乗ることにした。みんな安心することだ」
腕組みをしたまま男は強い口調でそう云った。フェイが少し身じろぎした。俺は正面にいる男の顔をただ見ていた。こういう男には見覚えがある。確かな自信を持っており、少々のことでは揺るがない鋼の男の顔だ。何となく顔を洗いたくなった。俺の顔もこの男のように男らしく見えているといいのだが。
男は名乗った。
「俺は、保安官補だ」
酒場女は首すじを煽いでいた扇をおろした。フェイは窓の方に顔をそむけた。俺はまだ男の顔を見ていた。
「保安官補だって。それが本当ならば、お名前を訊いてもいいだろうか」
酒場女の前に座る山師くずれが隣りにいる保安官補におもねるように訊いた。
「ゲイリーだ」
ゲイリー保安官補は腕組みを崩さぬまま、あちらも何故かずっと眼前にいる俺の顔を近くから見つめていた。
街の中の一番のべっぴんさん。夜明けの明星のようなきれいな子。フェイは男という男からそう呼ばれていた。絶大にもてていた。でも俺はなんの心配もしていなかった。フェイの兄貴は街を仕切っているごろつき団の幹部だった。フェイに手を出す奴は手と足の骨を細かく砕かれた上、丸太に巻き付けられてハドソン河に投げ込まれていたからだ。
フェイの兄貴はダグラスという名だった。ダグラスは俺に云った。なあ、アルトン。妹にはまともな生活を送らせてやりたいんだ。どぶねずみみたいな稼業からは遠ざけておいてやりたいんだ。フェイのやつはあいつが赤子の頃に死んだ俺たちの母親に似てるんだ。俺はお前を見込んで、フェイをお前にやるつもりだ。
ダグラスは成長した俺を通りで見かける度に、同じ言葉を繰り返していた。
俺は莫迦だった。なんであの兄貴があんなことを俺に云ったのか、もっとよく考えるべきだったのだ。ただしダグラスも予想外だったことがある。俺とフェイはまだほんの子どもの頃に知り合った時から、ずっとお互いのことが変わらず好きだったのだ。絶対に離れないと誓い合うほどに。
英国の植民地だった頃の名残が色濃く残る街だった。子どもの時分、街の子どもたちは建物の隙間をぬって駈け回り、少し郊外に行けば果てしなく広がっている野原で一日中転がりまわって遊んでいた。兄貴分のダグラスはすぐに港湾にたむろっている大人の世界に混じって葉巻を吸うようになってしまい、妹の面倒を年下の俺たちに押し付けた。
「魚でも釣れるの」
夏の昼下がりだった。俺が小川に足をつけていると、隣りに女の子が座ってきた。いつも兄貴にひっついていた子だと分かった。おずおずと女の子も沓を脱いで衣の裾をまくりあげ、空と雲を映す水の中に足をつけてきた。澄んだ水の流れに俺たちの足の影が四本の棒のように揺れた。
俺は気の利いたことを云おうとして、街の大人たちが云っていることをそのまま口にした。水中にある女の子の足の爪。小さな宝石を並べたようだった。
「大人になったらもっと美人になるんだろうね、べっぴんさん」
「やめてよ」女の子は愕いたように俺をみた。
「そんな呼び方しないで」
「じゃあ何て呼べばいい」
「兄さんと同じように、フェイと呼んで」
女の子の足と俺の足のあいだを青い水草をくぐるようにして小さな魚が泳いでいた。フェイ。なんて可愛い名なんだろう。ちょっと生意気で、遠く感じて、でもその髪と同じようにふわりと軽い。その日からだ。俺はすっかりフェイのことが好きになった。
「地図をみて。この北東部マサチューセッツ州の港は昔、紅茶の色に染まったのよ。この茶会事件を契機にアメリカは独立に向かって動いたの」
フェイの家族は兄貴だけだった。俺の親も早くに死んだ。そのうちフェイは娘と夫を肺炎で亡くした街のご婦人に引き取られてその家の養女になり、そこで教育まで受けた。云うことが途端に小難しくなっていったが、俺はフェイの顔を見ているだけで満足だった。俺に教養らしいものがあるとすれば、それは全てフェイから教えてもらったものだ。
「アル、また明日ね」
少し大きくなるとフェイを引き取ったご婦人はフェイと俺との交際を禁じた。そんなことで諦める俺たちではない。俺は毎日、フェイに逢いに行った。柵を巡らせた家の外から鳥の鳴き声を真似た口笛を吹くと、二階の端の窓が上に引き上げられて、楡の木の葉陰からフェイが顔をのぞかせる。二人で考えた手信号を使って短い会話を交わして挨拶をするだけだったが、心がほぐれた。
大好きアルトン。
俺もだよフェイ。
女のフェイはどうだったか知らないが、俺はこの先のことなどこれっぽちも何にも考えていなかった。ただ毎日のように仕事帰りにフェイの顔を拝めたらそれで十分だった。仕事は何をしていたのかというと、外国から船で運ばれてくる荷を港の倉庫に振り分ける差配人の下で荷運びをしていた。俺の身体はみるみる肉体労働者のそれになり、港で働く男ならどうしても避けられない男同士の殴り合いの喧嘩を繰り返すうちに腕っぷしも立つようになっていた。
「何かあった時のために覚えておいても損はしないよ、アルトン」
賭け札に勝って行商人から取り上げた拳銃を持て余して売りに行ったところ、店のおやじが銃の扱い方を教えてくれた。そんなわけで俺は拳銃も使えるようになっていた。たいていの奴らはぱんぱん撃ちまくるだけだったが、俺は弾を無駄にしなかった。自慢ではないが銃の腕前はかなりいい。危険な組織にいる兄を持つフェイをいつか俺のこの銃で護ることになるかもしれないと想定した上で、俺は真剣に射撃を練習したからだ。
「その銃は撃つ奴の技量で大きく結果が変わるんだ。怠りなく修練しなよ」
「団結さもなくば死。なんだいこれ」
「英国と戦争する際に、東部の十三州に呼び掛けた時の連合旗さ。参戦するか死ぬか。天に訴えよ。合衆国旗の元祖だ。他にも色々あったが、今は星条旗に統合されているからな。好きにしていいぞ」
一匹の蛇の絵が描かれた古い旗を倉庫の奥からもらいうけ、森に行って土の斜面に旗を吊るした。十三切れに分断された蛇の部位を離れた処から順番に撃ち抜いていった。次第に俺は狙いを外すことなく、英国政府からの独立を求めた州と同じ数の十三個の穴を旗に開けられるようになった。
事態が暗転したのは、フェイを養女にしていたご婦人が流行り病で亡くなってからだ。
「よお、アルトン」
ダグラスが街中で俺を呼びつけた。馬車の轍の跡が残る大通りをぶらぶらと歩いてきたフェイの兄貴は、指先で俺を呼び止めると物陰に誘った。話があるんだ。こっちに来いよ。ダグラスは連れの女を先に行かせると、親し気に俺の首に腕を回してきた。すっかり悪に染まったダグラスの頬には刀傷があった。
なあアルトン、俺はお前にフェイをやるつもりだ。だから俺からの頼み事を断らないでくれるよな。
「それで、ゲイリー保安官補さんは、いつもこの駅馬車に同乗していらっしゃるの」
駅馬車の中で酒場女が保安官補に訊いていた。
「護衛なら、御者が兼任しているとばかり思っていましたわ」
四頭立ての駅馬車を走らせているのは二人の御者だ。交代で馬を走らせている。彼らは銃を持って武装しており、襲ってくるものがいれば撃退する役目も負っていた。
「いつもではない」
ゲイリーは応えた。保安官補ゲイリーは足許に置いていた手荷物から巻いた紙を取り出して、俺たちにその紙を広げてみせた。ゲイリーの鞄の中には同じ紙がぎっしり詰まっていた。
「東部で男を殺して西部に逃げたこの指名手配犯を追っている」
フェイはずっと窓の外を見ていた。身を固くしているのが分かった。俺はフェイの手を握ったまま、ゲイリー保安官補が広げた指名手配書を見つめた。金を賭けた最後の札が卓上に配られる時のように、俺は顔筋をびくとも変えなかった。だってそうだろう。密室の馬車の中で保安官が俺の向かいの座席にいるのだ。逃げることも出来ない。
車輪が岩に当たったのか馬車が少し跳ねた。ゲイリー保安官補の鋭い眼はフェイに向いていた。
「どうしたんだ、その人は」
全員が保安官補の手にした指名手配書を見ているのに、フェイだけは横を向いたままだった。フェイは座席に首を傾けて頭をあずけ、眼を閉じている。
「彼女は気分が悪いんだ」俺が応えた。
「馬車に酔う性質なんだ。乗り込んだ時からずっとそうだ。妻に構わないでやってくれ」
「妻」
「もしかして妊娠しているのかしら」
扇で口許を隠して酒場女が俺に囁いた。小さな声だったが馬車の全員に聴こえた。それで保安官補の不審は晴れたとみえて、ゲイリー保安官補がフェイを見る怖い眼つきは少し和らいだものに変わっていた。
「保安官補、その人は本当に具合が悪そうだ。御者に云って休憩を早めてもらおうか」山師が云ったが、ゲイリー保安官補は首をふった。
「この山岳地帯を抜けるまでは駄目だ」
「しかし偶然ですね、この指名手配犯も女連れだと書いてあります。若い夫婦を装っていると」
窮屈そうに座席で身を縮めていた公証人が口を出してきた。その時フェイがようやく眼を開いた。フェイは居ずまいを直して姿勢を変えると、保安官補が広げている指名手配書に顔を向けた。
俺たちを乗せて走る駅馬車の窓の外に続いているのは、なんの変化もない荒涼とした西部の荒れ地だ。天地の開けた雄大な景色も、こうも一日中かわり映えがしないと飽き飽きだ。
フェイが保安官補に微笑みかけた。男なら誰もがどきりとするような、耀くような笑みだ。硬派なゲイリー保安官補もフェイの美貌に打たれたらしく、色硝子の瓶の底でも調べるような顔つきだったが、しばらくフェイを見つめていた。
「ご気分が悪いのでは」
「いいえ。すこし良くなりました」
フェイはゲイリーに向けて手袋をはめた手を差し出した。
「保安官補。それを一部、下さらないかしら」
夕方の街を一緒に歩いていた時、フェイはよく俺にふざけて同じ調子で頼んだものだ。アルトンさん、お願い、あの屋台の果実水を一口だけわたくしに飲ませて下さらないかしら。もちろん承りますともフェイ奥さま、と俺は応える。そして二人で大笑いするのだ。
上流階級ごっこをしている時のフェイは引き取られた家のご婦人の教育の賜物で、生まれつきの貴婦人としか見えない完成度だった。
「まあ、ありがとうございます」
フェイの手はゲイリー保安官補から指名手配書を受け取っていた。フェイはそれを丁寧にもう一度丸めて紐で結わえると膝の上においた。
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