(六)丞相の子息

 崔氏が何も言わずにいると、ようやく気がついたように、青年は彼女に問うた。


「ところで、そなたのことはなんと呼べばよい」


「崔と申します」


「姓だけでは味気ないな。小字おさななくらいは聞いてもよいか」


「家人からは伯女はくじょと呼ばれております」


「それもまた、どうも実用に徹している趣きだ。

 が、たしかにそなたは姉むすめという落ち着きがある。弟妹は多いか」


「いいえ、父母は早くに亡くなりましたので。

 一族の同世代のなかで最も年長なのでこう呼ばれます」


 返答に他意はなかったが、青年の表情がすまなそうに変じたのを見て崔氏はそれとなく補った。


「ですが、叔父夫婦の手元で実子同様に養われてまいりましたので、寂しいと思ったことはございません。

 ところであなたさまは、お住まいはどちらに」


「いまは平原へいげんに向かう途上だが、本宅はぎょうだ」


 平原という地名には二種類ある。郡としての名と、郡の下に属する県としての名である。いまの答えだけではこの青年の目指す平原がどこまで指すかは不明だが、平原県はここ東武城とうぶじょう県の東にほぼ隣りあう県であり、狭義の平原に向かっているのだとしてもおかしくはなかった。


 漢王朝の定めた区分からいえば、平原県は青州せいしゅう平原郡、東武城県は冀州きしゅう清河せいが国(国は郡と同格)と所属する州郡からして異なるが、崔氏たち一門の住む里は東武城のなかでも東寄りにあるので、騎馬ならば半日ほどで平原県へ着ける。徒歩でも一日は要さないだろう。


 鄴と聞いて、崔氏はほのかに安堵をおぼえた。この見知らぬ青年とのあいだに共通項があるとは思いもよらぬことだった。


「まあ、―――わたくしも以前、鄴に三年ほど暮らしておりました」


「どれぐらい前になる」


「清河から移り住んだのは、六年ほど前のことです」


「六年前というと、そう丞相じょうしょうが鄴を陥落させた直後のことだな。ご父兄が丞相に―――いや、あの時点ではまだ司空しくうであられたか―――司空に仕官をなされたのか」


「はい、父代わりの叔父と、その従弟にあたる族父が。

 当初はふたりとも司空府ではなく、叔父は冀州府に、族父は并州へいしゅうの県長として登用をたまわりました。三年前より叔父は丞相府に遷りましたので、それに従って一家で許都きょとへ移っております」


「いまは、葬祭か何かで清河へ戻ってきているのか」


「そういうわけではないのですが、叔父が先月休暇をいただいて一家で帰郷した際、わたくしだけ本家に残ることになりました。これまで奥向きを取り仕切ってきた族母たちのあいだで出産や服喪が重なってしまったのと、もうすぐ養蚕期にも入りますので」


「叔父君の尊名を尋ねてもかまわぬか」


 一瞬、崔氏はためらいを感じた。見知らぬ男の前に平気で姿を現し、あまつさえその手を握ったむすめ、という己の客観的な立場をいまさらながら思い起こし、その事実が叔父たちの名を貶めるような気がしたのである。


 が、次の瞬間には、崔氏の口は我知らず動いていた。

 このかたにわたしのことを、わたしに近しい人々のことを知ってほしい―――驚くほど自然に、その思いに背中を押されたかのようだった。


崔琰さいえんあざな季珪きけいと申します」


「なんと、季珪どのの姪御か。いわれてみれば、そなたの美貌と長身はたしかにあの偉丈夫の血筋よな」


 青年は深く腑に落ちたような顔でうなずいた。

 崔氏はまたも唐突に褒められたことで顔を赤らめかけたが、しかしそれよりも、このごく若い貴人が叔父を知っていることに驚いた。


 いまを遡ること七年前の建安けんあん九年(二〇四)八月、冀州の中心にして袁氏の拠点たる鄴をついに陥落させたのち、その残党を次々に掃討し華北のほぼ全域を勢力下に収めた司空曹操そうそうは、三年前の建安十三年(二〇八)、漢朝の最高位たる丞相に任じられ、天子のもとで天下に号令するという形勢を不動のものにした。


 もとより大都会であった鄴は曹家の新たな勢力基盤としていっそう整備が進められているが、丞相府は天子の膝元たる許都に置かれ、天下の人材が続々と登用されている。


 この青年はあの玉環を見せてくれたときに、今年の正月つまり先月に二十歳になった、と言っていたが、もしそれが本当なら、すでに仕官していてもおかしくはない。


 しかし、表情や声が少年のように快活なうえに、自分を重く見せるということに全く意を払わない性質のためか、ややもすると十代のようにも見える。体格も同様で、先ほど小川の中ほどで向き合った崔氏の印象からすると、見慣れた崔家の壮年男性に比べるとだいぶ小柄であり、三歳年下の彼女自身と比べても身の丈が若干低いようであった。


「鄴にお住まいで叔父をご存じということは、―――あなたさまも冀州府にゆかりをお持ちなのですか」


 崔氏はそう尋ねつつ、しかし不可解な思いだった。

 仮にこの青年が現在冀州府の官僚であるとしても、叔父崔琰が冀州の別駕べつが従事じゅうじ(州牧の副官)だった三年前の時点ですでに出仕していたとはとても思われない。


「ゆかりがあると言えばそうかもしれぬ」


「このたびはなぜ平原に、―――平原郡のいずこへゆかれるのですか」


「平原県だ。この正月に食邑しょくゆうとして賜ったので、視察にきた」


「―――めったなことを」


 崔氏は声を厳しくした。平原県といえば今年の初めに丞相の子息のひとりが天子より賜ったばかりの封地である。こともあろうに天下に号令をかけようとしている覇者の身内を名乗るなど、女子ども相手のたわむれであってもいささか軽率に過ぎるといわねばならない。


「いくら鄴から離れたこの地でも、そのようなことを言いふらせば不審に見られます。ご自重なさいますよう」


「いや、そなたに不審者と思われないために身元を明かしたのだ。見知らぬ男と連れ立って歩くのは不安だろう」


「それはそうですが……でもまさか、まことに」


「ああ。丞相の第五子曹子建そうしけんだ。列侯れっこう印綬いんじゅも懐中にしまっている。確認するか」


 青年は右腕の袖を絞りながら淡々と言った。

 水を吸って重くなった絹布から、雫が滴りつづけている。

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