2-7.母親から他人へ

 忘却のおまじないをした翌日。

 ヨルは外にも出ずに静かに過ごしていた。


 それは万にひとつでも母親や社長、それに関係する人に出会ってヨルのことが伝えられてしまったらおまじないが失敗になってしまう可能性があるからだった。


 ヨルはひとりでコーヒーを淹れる練習をしていた。

 ユカはまた出かけている。きっと朝帰りだろう。


「なかなか上手には淹れられないな。豆は一緒なのに、どうしてこうもユカさんの味と違うんだろう」

 コーヒーを啜り、ソファに腰をかけた。


 初めて来た日のように緊張することはなくなり、リラックスしている。

 テレビをつけると才果製菓のコマーシャルが流れた。

 この人たちはもうユカのことを思い出せない。記憶に残すことすらできない。

 そう考えたときに、それが正解だったんだろうか、とヨルは考えてしまった。

 短いCMが終わった。


「コーヒー淹れてくれたんだ」

 お風呂上がりのユカが濡れた髪のままリビングに入ってきた。

「帰ってきてたんですね」

「ついさっきね」

「ユカさんのより美味しい自信はないですけど、よかったらどうぞ」

「ありがとう」

「ユカさんはコーヒー意外は飲まないんですか?」

「飲むよ。でも、コーヒーが一番好きなの」

「どうして?」

「コーヒーだけは、唯一だから」

「唯一?」

「うん。私は料理も洗濯も掃除も家事はなんだってできるけど、どれも人から習わされたことだし、お人形だった私がやったことだからあまり好きじゃないの。でも、コーヒーは唯一自分が興味を持って始めたこと。お人形じゃない私の意思だから」

 ユカはマグカップに注がれた黒い液体を見た。


「それに、淹れてるときの静かな時間も芳醇な匂いが部屋を満たすのも、冷たくなった心をほぐしてくれる気がするから、好き」

 好き。という言葉がヨルの耳にやけに響いた。

 ユカの濡れた髪、その俯いた綺麗な瞳を見て、鼓動が高鳴った。


「濡れた髪のままだと風邪ひきますよ」

 気取られないよう、誤魔化しの言葉が出た。

「心配してくれたの? ありがとう」

 ユカはなんの気もなく笑って言った。その笑顔にまたヨルの胸が高鳴った。


 髪を乾かしに行き、ドライヤーの音が聞こえてくる。

 と思ったらすぐに止まり、足音が聞こえた。なにか伝えたいことがあるのだろうか。

「今日、確認しに行く?」

 確認とは、忘却のおまじないのことだ。

 ヨルが母親と関連する人たちの記憶から消えているかどうか。

「え、ええ……」

 ヨルは動揺しつつも、それを肯定した。

「そっかそっか」とユカは納得して出て行った。またドライヤーの音が鳴り始めた。

 

 ・・・

 

 前回と同じく小菅駅で降り、東京拘置所に訪れ、同様に受付を済ませたあと、ヨルはまた面会の旨を同じ事務のおばさんに伝えた。


「堂々すみれの息子の、堂々因です」

 おばさんは前回と同様のんびりとした口調で「はいはい。調べますねえ」と同じことを言った。そこに違和感を覚えた。


 いつもならここまできて申し訳なさそうな顔をされて、手紙を渡されるか、お断りの言葉を返されるのがお決まりだった。

 けれど、一昨日も来た人に対しての対応とは思えなかった。

 やがてやってきたおばさんは眉間に皺を寄せていた。明らかな不信感を抱いている。

 ヨルだけでなくユカに対しても一瞥したが、同様の視線だった。


「堂々すみれさんの息子さん?」

 そしてヨルに質問してきた。

「はい」

 ヨルは答えた。

「堂々すみれさんに息子なんていませんよ」

 おばさんの目つきはいっそうキツく、冷たいものになった。

「そう、ですか……」

「あなたたち、いったい何しにきたの」

 明確な疑惑の視線がヨルだけでなくユカにも向けられた。

「いえ、すみません。人違いでした。また改めます」

 おばさんは「はあ……」と釈然としない様子だったが、それ以上追求してくることはなかった。

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