2-5.母親という人
朝食で出た洗い物を終え、着替えてきたユカが玄関口に立った。
「さあ、行こっか。ヨルくんのお母さんのとこへ」
「そうですね。行きましょうか」
そしてふたりはマンションを出ようとした。
はたと、ユカがその場で立ち止まった。ヨルは靴を履けなくて困り、ユカを見た。
「忘れ物ですか?」
ユカの格好は白いブラウスに裾の広がったデニムパンツ、それに合わせてかトレンチコートを羽織っていた。
似合っていて綺麗だと思ったが、あえて口には出さなかった……が。
ユカはじっと見つめてくる。
「どうしました?」
「……何か言いたいことあるんじゃない?」
「……いや、別に?」
「……そう? うん。言いたいことあるんでしょう」
ユカは自慢げに鼻を鳴らしヨルの顔を覗く。
ああ、とヨルは気づいた。
「似合ってますよ」
「他には?」
「……綺麗です」
「よろしい」
ユカは満足気に頷いた。出かけるからテンションが上がっているのだろうか、ユカは上機嫌だ。ヨルは女性を褒め慣れていないから頬が紅潮した。
・・・
東京メトロで電車を乗り継いで、浅草から少し歩いて東武伊勢崎線に乗り換える。
「ヨルくんはひとりでどんな生活をしてたの?」
「ほとんど仕事して寝るだけの生活でした。取り柄もなければ趣味もないし、俺は面白みのない人間ですよ」
「そんなことないよ。私はヨルくんといて楽しいし」
「そう思うのはユカさんが変わった人間だからです」
「馬鹿にしてる?」
「いえ、褒めてます」
「なら、よし」
会話をしていると目的の小菅駅に到着した。
駅前は閑散としていて、公園などもなく、住宅と拘置所の用地があるだけ。
以前きた時と変わったところはない。
変わったのは横にユカがいること。
「先に行っておきますが、母親との面会はできないですよ」
「そうなの?」
「ええ。誰かと面会できるほど精神が安定していないので。俺との面会は特に母親の精神を不安定にするし、俺もそうなることは望んでないから了承の上です」
「そっか。ご挨拶だけでもと思ったんだけどなあ」
少しだけ残念がっているようにも見えた。
「なんの挨拶ですか」
「気兼ねなく話せる年上の女性の知り合いができましたよって報告かな」
「変なことを言う人だ」
ユカが冗談混じりで言うから、ヨルもつられて笑ってしまった。
10分も歩かずにふたりは目的の東京拘置所についた。
そこは、検事事件により拘束された刑の確定した未決拘禁者が収容されていて、中には死刑囚も収容されている。足を踏み入れる前から重苦しい雰囲気の漂う場所だ。
少なくとも、ふたりのように気軽に、気楽な話をしながら来るような場所ではない。
面会窓口の前にあるタブレット端末を操作し、面会番号を発券したあと、面会窓口へと提出した。
希望時間は最短の30分。面会者はヨルとユカの二名。面会先はヨルの母親。堂々すみれ。
窓口に向かい、面会の旨を告げる。
「堂々すみれの息子の、堂々因です」
すると、事務のおばさんはのんびりとした口調で「はいはい。調べますねえ」と対応した。
この後のことはもう分かっている。申し訳なさそうな顔をされて、手紙を渡されるか、お断りの言葉を返されるのがいつものことだ。
案の定、事務のおばさんは申し訳なさそうな顔をしながら、「ごめんなさいね」と言いながら戻ってきた。
手紙の内容と危険物が入っていないことは確認済みです、と言われ手渡されたのは一通の簡素な白い封筒に入った手紙だった。住所などの記載はなく、手渡しを頼まれたのだと言う。
その時、事務のおばさんが「内容が……」と言い淀んだのを聞いて、ヨルは母親が書いた中身をなんとなく推察することができた。
「ほんとに会えないんだ」
ユカが言った。
以前、一度だけ面会ができたことがあった。それは母親が収監されてから初めての面会の時だった。その時言われた一言が今でも胸に深く刺さっている。
──あんたさえ産まなければ私は幸せだったんだ。
ヨルはその通りだと思う。
母親も一人の人間として幸せになるべきだと思っている。自分のことなんか忘れた方がきっと苦しまずに済む。
拘置所を出て、小さな公園のベンチに腰をかけた。
手紙の内容を推察できるだけに、心が少しだけ重たい。
「見るの?」
「ええ。内容はだいたいわかりますが……」
封筒を開き、便箋を取り出すとカサリと音をたてた。そよ風が吹いて髪を揺らした。
手紙に指をかける。
開くとそれは黒だった。
白い紙一面を、いくつもの言葉が埋め尽くしてできた文書だった。
わかってはいたことだった。受け入れていたことだった。
けれど眼前に、言葉という形として突きつけられた衝撃の大きさは、気持ちを沈ませるに充分たるものだった。
『あんたがいたせいで私がこんな目にあっている』『お前も死ね。消えろ。この世からいなくなってしまえ』『責任を取れ』
罵詈雑言の数々が並ぶ中、中央により強く濃く書かれた言葉があった。
『あんたなんか産まなければよかった』
それは、ヨルを否定する言葉だった。
「あの人は、ほんとうに心が弱い人だから……」
話しをするには、深く息を吸って吐いて、心を落ち着かせる必要があった。
「だから、こんな……。こんなことをすることでしか、自分を保てないんだ」
拳を堅く握って感情を抑える。けれど、平静を装うことはできず、言葉は途切れ途切れになってしまう。
「おかしくなってからずっとこうだ。周りを傷つける毒を吐いて、自分だけ楽になろうとして、へれど優しい人だからそのせいでまた傷ついて……」
声の震えは心が叫びたがっているから。目が熱くなるのは本当は悲しいから。
「俺が生きていると、あの人は余計に傷つくんだ……」
破裂しそうな激情を肩を震わせ必死に耐える。
ユカは慰めの言葉はかけなかった。
「人はみんなそうだよ。弱い生き物なんだよ。ただ、隠すことが上手ってだけで、みんなヨルくんのお母さんと一緒。そうゆう悪いことを考えたことは誰にだってある」
それは、優しい言葉だった。
「私だってある。それを形にして吐き出さないだけ」
ユカはそっとヨルの手をとる。強く握られた拳をゆっくり開く。手のひらには爪痕がつき、赤い血が滲み出てきていた。
「でも、ヨルくんが私に隠すことはダメ。共犯者なんだからさ、秘密はなしにしようよ」
手と手を重ね合わせ、両手でヨルの手を包む。
「素直になんでも言って? 私を頼っていいんだよ?」
ユカは優しい言葉をかける。
「ありがとうございます」
ヨルの力がふっと抜けた。自然と涙が頬に一筋だけ滴った。
「……幻滅しました?」
「こんな母親で、って言うつもり?」
「……ええ」
「しないよ。ヨルくんはヨルくん。あの人は血の繋がりがあるだけの他人でしょ?」
他人。またユカはそう言った。形容するにはもっとふさわしい『家族』や『親子』という強い言葉があるのに。
「私はヨルくんがどんな人でも、どんな過去を持っていても、きっと幻滅しないと思う」
「なんでそこまで言い切れるんですか」
「わかんないよ」とユカは笑った。
「ほんとうに、ユカさんはよく笑いますね」
「それはヨルくんのせい」
「俺のせい?」
「うん。ヨルくんと一緒にいるのは本当に楽しいもの」
ふたりは見合い、また笑った。
「ヨルくんは、ほんとうにお母さんから忘れられていいの? 後悔しない?」
「はい。俺ができる最善の選択です。もう俺の家族は元の形には戻れない。たとえ母親の心の病が治ったとしても、亡くなってしまった人を戻す方法なんてこの世にはないですから」
ユカはヨルの目を見た。
「それに、あの人は俺を忘れた方が幸せだから」
「そっか」
そして、瞳の奥にある意思を悟り、静かにヨルを認めた。
「じゃあ、行こうか」
「どこでおまじないをするんですか?」
と聞くと、ユカは上を指さした。
「上、って? 何があるんですか」
「私の住んでるマンションの屋上だよ」
「開いてるんですか?」
「そうなの。鍵が壊れたまま修繕されてないみたい」
空を見るユカはいたずらを自慢する子供のように笑っていた。
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