2-2.珈琲
ユカと会う時は朝食のときと、深夜や早朝に帰ってきたときに「おかえりなさい」と挨拶をする程度だった。
一日以上会わないことはないが、帰ってきたばかりのユカは決まって少し疲れていて、鼻につくキツい香水の匂いと、少しの汗の匂いがする。だからユカはすぐにシャワーに向かってしまう。
ユカは朝早く起きてすぐ出かけて、深夜か早朝に帰ってくる。とても忙しそうだ。
その姿は何かを求めているようにも見える。
そんなユカでも、ヨルと顔を合わせる少しの時間の度に、何かしら話を振ってきた。
本当に他愛もない話をするときもあれば、ときおり軽い口調で重たい話題を口にすることもあった。
そんなある日の朝、ユカが帰ってきたあとのことだった。
リビングでヨルがくつろいでいるところに、お風呂上がりのバスローブを着たユカがやってきた。顔はまだほてっているのかほのかに頬が赤い。
──つかれるよね。
ユカは以前そう言っていた。きっとユカもヨルと同じように心が擦り切れているのだろうと思った。
だから、ヨルは聞いてみた。
「俺に何かできることはありませんか?」
「できること?」
「住まわせてもらって、何にもしてないのは落ち着かなくて」
ユカは「うーん」と小首を傾げた。
「特にないかなあ。掃除は全自動でやってくれるし、洗濯も専門の業者に頼んでるからお任せするほどでもないかも」
「そうですか……」
「別に何かしてもらおうとは思ってないよ」
と言って、ユカは朝食の準備をし始めた。
それから戸棚にあるコーヒー豆の入った瓶を見て「あ……!」と、思いついたとユカは言った。
「ならさ。コーヒーの淹れ方覚えてよ。私が帰ってきたら淹れてほしいな」
「そのくらいなら全然構わないですよ」
ふたりはキッチンに並んだ。
「最初は私がやるから見てて」
そう言い、ユカは棚からコーヒーの道具を取り出し、準備し始めた。
「初めは水を沸騰させる。直火でもいいけど持ち手が熱くなるし、ケトルからお湯を移す時に少し温度が下がるから私はそうしてる。水は別に水道水でもいいんだけど、私は気に入った水を買って使ってる」
そう言ったようにケトルでお湯を沸かし始め、今度は戸棚からコーヒー豆と計りカップの入ったガラス瓶を取り出した。
「ヨルくんがやるときは豆は適当に使っていいからね。一種類だけでもいいし、混ぜてみるのも面白いよ」
丁寧にラベルが貼られている。左から、ブラジル、エチオピア・イルガツェフェモカ、マンデリン、キリマンジェロなど様々でヨルにはさっぱりだった。
「すぐに全部覚える必要はないよ。味が好みのものから覚えてくのが一番いいかも」
そう言うユカの表情は楽しげだ。豆を挽くミルをセットしている。
「豆はペーパーフィルターの場合は中細挽き。機械のボタンを押せば自動で挽いてくれるから、その間にペーパーフイルターをセットしておいて、できた粉を入れる。コツはなるべく平にすることかな。乱暴にふって均一にするほどやらなくてもいいよ。だいたいでいいの」
と、そこでケトルのお湯が沸いた。
「お湯が沸騰したら、一旦このコーヒーを落とすためのポットと、コーヒーを注ぐためのサーバー。飲むためのマグカップに注いで器を温める」
「これは?」
「冷たい陶器に熱いコーヒーを淹れると急に温度が下がって風味が損なわれるから。あとは……。たしか保温する意味もあったかな?」
ユカは手際良くポット、サーバー、マグカップにお湯を注いでいく。
そしてポットに温度計を差し入れた。
「ポット内のお湯の温度を80〜95度くらいの間で調整して、適温になったら準備完了」
説明しながらもユカは慣れた手つきで準備をしていた。
「温度はどうやって決めるんですか?」
「その日の気温・湿度、豆の種類や焙煎度合い、劣化具合によっても変わるし、ここはやってみてかな」
「経験を積んで学習するしかないってことですね」
「そうそう。何事も地道な学習が大切。今日は88度くらいでいいかな」
温度が下がったのか、ユカはポットからお湯を少しだした。手応えを確かめたようだ。
「ポットに入れるお湯の量も毎回均等にしておくと、注ぐ時の力加減を覚えやすいかもね」
ユカはひとつ手を叩いた。
「はい。じゃあ、あとはヨルくんやってみて」
「あれ? 今日はユカさんが淹れてみるんじゃ?」
「簡単だし、最初からヨルくんがやってみてもいいかなって」
ほら、持って持って、とポットを手に持たせられるヨル。
意外とずっしりした重量のポットを持ち、ペーパーフィルターに溜まっている粉に向けて慎重に注いだ。
水が流線型に落ちていき粉が膨らむ。が、お湯の出方がまばらで、かかっている場所は左に偏っている。
それを止めたのはユカだった。
「あ、ストップ」
「え」
「ここでお湯の抽出を一回止めて、30秒〜1分くらい待つの」
「どうして? 粉が冷めちゃうじゃないですか」
「蒸らして粉を開くの。さっきヨルくんが淹れた粉見てみたらわかるよ」
たしかにフィルターに乗った粉の体積は一回り以上に膨らんでいる。
「これがおいしくなる秘訣。蒸らしがちゃんとしないとコーヒーの味も曖昧になりがち」
「へえ」
「あとは3回に分けて、またお湯を注いでいくだけ」
慎重にお湯が出過ぎないようにすると、少ししか出なくてジョウロから出したようにチョロチョロとした可愛い音がなる。かといってたくさん注ごうとすると粉が一気に沈澱してしまってフィルター内はお湯ばかりになってしまう。
「サーバーの目盛りまで……。今回ならマグカップ2杯分のラインまで落ちたら、最後までお湯が落ち切る前に取って終わり」
「あ、はい」
疑問は置いておいて言われたまま従い、フィルターをシンクへ置いた。
どうして、と視線で問うと、ユカは答えてくれた。
「最後まで落とし切っちゃうと、雑味まて抽出されちゃうの」
「なるほど。覚えなきゃいけないことがたくさんだ」
「ふふ。少しずつ頑張って」
「はい」
技術が追いつかないまま、ポットには二人分のコーヒーが抽出された。
それをマグカップへと注ぐ。
「どうぞ」
ヨルはユカにマグカップを渡した。いつも通りのブラックだ。
ひとくち口をつけてみる。
「……」
思わず眉間に皺が寄った。
風味が損なわれていて、コクもなく、味気ないただの苦い水のように感じる。それなのに喉には嫌な感触が残る。
「難しいですね」
と言って、思わず苦笑いが溢れた。
「均等にお湯を注いで、抽出圧も一定に保てればおいしいコーヒーは淹れられるよ」
「それが難しいんですよ」
「練習するしかないね」
「がんばります。居候の身なので」
「いっそ恋人になってくれてもいいけどね」
ユカは「冗談」と言って笑った。
「ユカさんはとても魅力的ですけど、俺はそんな軽薄じゃないですから」
ヨルはそれをあしらった。
「私だって軽薄じゃないよ。ひどいなぁ」
「遊び歩いて、見知らぬどこかの男とホテルに泊まって朝帰りしてる人は、わりかし自分の体に対して軽薄ですよ」
「それは否定できないなあ」と言って、ユカはコーヒを飲んでから、またくすっと笑った。
「やっぱり、まずいですか?」
「うん。私の淹れたものの方がおいしい」
「正直ですね」
「嘘つきよりマシでしょ?」
シンクには、フィルターに溜まったコーヒーの残りが排水溝に向かって流れていた。
「じゃあ、これからのコーヒー当番はヨルくんね」
「ユカさんの満足するものを淹れられるよう、がんばります」
「いい心がけ」
ユカは小さく笑った。
静かな空気が漂う。
けれどそれは自然で、ふたりともがお互いを気にすることもなく、ぼうっと思考に耽っている。
これが自然体ということなのだろうか、とヨルは思った。
そんなとき、「あ」と思い出したようにユカは言った。
「あとはこうやって、ときどきでいいから話し相手になってほしいな」
「そんなものでいいんですか? 今だって相手になってるのに」
「そんな約束だからいいの。過度な要求なんてお互い疲れるだけでしょう?」
「たしかにそうかもしれませんね」
ヨルは味気ないコーヒーを口にして、やっぱり不味いなと思った。
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