第2話「茜、水を飲む」

「捨ててきなさいってお兄ちゃん正気!?」

「なら元居た場所に返してきなさい」


 メモ帳にあかねの住所を書くと陽菜ひなに渡した。

 これでこの押し黙ったままの茜がなにも言わなくても、家にはたどり着けるだろう。


「けどさっきお兄ちゃん『動物を飼ったら最期まで面倒見ろ』って言ったじゃん」


 色々と言いたいことはあったが、大半のことを飲み込むと、あきれの混じった声を出す。


「まず茜は動物じゃないし、そもそもうちでは茜を飼ってない」

「だから、飼おうよ、かわいそうじゃん」


 かわいそうなのは陽菜の頭と元カレの前でこんな屈辱くつじょくを受けてる茜だよ。

 かわいそうって思うならさっさと開放してやれよ……。

 そんなことを考えていると、「だめなの?」という目でじっと見てくる陽菜にしびれを切らし、言った。


「あーわかったよ、とりあえず中に入れ」


 くだらない問答もんどうを繰り返している最中も、通行人がちらちらとこちらを見てくる。

 そりゃそうだ、玄関の中で男女が言い合ってて、もう一人の耳まで赤くした女が外で立たされてたら十中八九修羅場しゅらばだろう。

 ご近所関係を悪化させないためにも、上げる以外の選択肢は無かった。


 ◇


「茜ちゃんは紅茶とコーヒーどっちがいい? あ、緑茶もあるけど」


 陽菜がそう尋ねると、ようやく彼女は重く閉ざされた口を開いた。

 猫の真似をした羞恥しゅうちより、質問に答えない無礼な奴と思われたくないという気持ちが勝ったのだろうか。


「あ、あの……、お水で十分です。ね、猫なので……」


 まだその設定を引きずるのかと思ったが、これ以上黙られるのも困るので、深く追求するのはやめた。


「じゃあこれお水ね。お兄ちゃんも水でいいよね」


 そう言いながら目の前に八分目まで水の入った愛用しているマグカップを音をたてないよう静かに、茜の前には並々と水の注がれた広口で背が低い皿を少し乱暴に置いた。

 俺たちは皿と陽菜の顔を交互に見比べる。

 完全にエサ皿じゃん。


「あの……陽菜?」


 恐る恐るという感じで話しかけると、作ったような笑顔で答えた。


「なに、お兄ちゃん? 早く飲みなよ」


 困惑した表情をしながらお互いの顔を一度見ると、そっとコップと皿をそれぞれ持ち上げた。

 すかさず陽菜は今まで聞いたことのないくらい冷たい声を出す。


「茜ちゃん?」


 決して怒鳴ったわけではないし、茜に向けられた発言だとわかっている。

 それでもなお、恐怖からくる冷や汗が全身から噴き出してきた。

 茜は悪意をもろに喰らったせいか、小さく震えながらゆっくりと皿を置く。


「ごめんなさい」

「ねえ、猫ならどう飲むの?」


 陽菜は先ほどの声から想像出来ないほど甘く怪しい口調で茜に囁く。

 数秒の沈黙のあと、半ばあきらめたかのように顔を皿に近づけ、ぺちゃぺちゃと音を立てながら舌だけで水を飲み始めた。


「よくできました」


 陽菜は聖母のようにやさしい目をしながら丁寧に茜の髪を撫でる。


「お、おい……陽菜?」


 目の前で繰り広げられる異様な光景に慄然りつぜんとしながら話しかけると、陽菜は普段と何ら変わらない声で返事をした。

 その非日常の中に溶け込む日常がさらに恐怖を倍増させる。


「なにお兄ちゃん?」

「いや……」


 そう言葉を詰まらせていると、なにかいいことを思いついたときに出すような弾んだ声で話してきた。


「そうだ、お兄ちゃん! せっかく茜ちゃんが上手に水飲んだんだし、めてあげてよ!」


 茜はそれを聞くと、黙って顔を上げ首をさらけ出した。

 彼女の恐怖と悲哀ひあいでぐちゃぐちゃになった目に圧倒されていると、陽菜は俺の手を茜の下あごのところまで持っていく。


でてお兄ちゃん」


 先ほどのやり取りから拒否権はないのだろうということを察した。

 あごの下に添えられた手をゆっくりと前後に動かす。

 撫でるたびに、彼女の目から恐怖が消え、トロンとしたような安心しきった目になるのが見て取れた。

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