第5話
「……やあやあおかきちゃん、話終わった? いやー、もうちょっとでリーマン予想解くところだったよ」
「あれ、キューさんだけですか。 姉貴は?」
麻里元との雇用話も終わり、おかきが一足先に部屋を出ると、廊下一面を小難しい計算式で書き尽くしている宮古野と遭遇した。
彼女が握っているペンにははっきりと「油性」の文字が印字されている、掃除が大変そうだがいいのだろうか。
「先に帰りたいって言ってたから部下に送らせたよ、あとで連絡するといい」
「そうですか、ありがとうございます」
「なに、元はといえばこちらが原因だ。 フォローはさせてもらうよ、はいこれ」
「……? これは?」
宮古野から手渡されたものは、一台のスマートフォンだった。
市販されているものとはどことなく違うデザインで、裏面には小さく「SICK」の文字が彫られている。
「盗聴逆探その他もろもろセキュリティ完備スーパーハイパーすごすご衛星
「ひえっ」
「あと雇用契約書とSICK業務マニュアルと緊急時の非常対応マニュアルと交通費請求手続き書と勤務前の取得推奨資格一覧と専門書と……」
「えっえっえっ」
おかきの手に次々と積まれた書物は、あっという間に六法全書を超える厚みを形成する。
「ひとまずこれくらいかな、明日まで一通り目を通して」
「この量を!?」
「秘密組織のエージェントになるとはこういうことさ、局長の誘いを受けたんだろう?」
「それはまあ、そうですが……はぁ、帰ったら徹夜ですかね」
「ああ、今日はSICKに泊まっていきな。 君の新しい住まいを見繕うまで、荷物は全部こっちに運び込んであるから」
「プライバシーって知ってます?」
「犬も食わない代物だね、それじゃあとは頑張ってくれー」
用事は終わったと言わんばかりに、宮古野は廊下をスケートのように滑って去っていく。
よく見れば彼女の靴底からは淡い光が漏れ出ていた、おそらくまた彼女独自の発明品か何かなのだろう。
「……重い」
男だったときに比べて、あきらかに筋力が落ちたことをおかきは実感する。
以前ならこの程度の重量は難なく運べたが、今となってはすでに腕が痺れ始めていた。
「ん? なんだ、まだこんなところにいたのか」
そのまま廊下で立ち往生していると、遅れて部屋から出てきた麻理元がおかきへ声をかけてきた。
「ま、麻理元さん……あの、これをキューさんから受け取りまして」
「SICKに入ったなら私のことは局長と呼べ」
「局長ぉ……」
「ははは、わかったわかった。 あまりいじめたくなる顔を見せるな」
意地悪な笑みを浮かべ、局長は限界近いおかきの腕から書籍の山を片手で取り上げる。
まるで重さを感じさせない。 見た目ではわからないが、相当鍛えていることを窺わせる。
過積載から解放されたおかきは、安堵と局長に対する感嘆が入り混じった息を漏らした。
「どうせ宮古野のやつだろう? おふざけがすぎるな、あとで締めておく」
「いえ、お構いなく……それよりもその本って」
「ああ、今後の研修と君に必要なスキルを見繕ったものだ。 明日までに目を通してくれ」
「そこはおふざけじゃないんですね……あれ?」
おかきは書籍の山から、どこか見覚えのある本を引っ張り出す。
“雄太”が通っていたときと表紙は異なるが、それは高校生が使う教科書で間違いなかった。
「それも必要なものだ、君にはこれから女子高性として学校に通ってもらうからな」
「ジョシコーセー????」
言葉の意味が理解できず、おかきは告げられた言葉をオウム返しする。
こんな見た目でも中身は26歳、「藍上 おかき」でも設定上は20歳だ。 とてもじゃないが学生とは程遠い年齢を背負っている。
「安心しろ、君の見た目なら余裕でいける。 むしろ中学……いや小学生でも通る、高校生でも正直かなり背伸びをしているぞ」
「それはそれで傷つきますけど……なぜ?」
「理由はカフカの体質にある。 ちょうど今さっき許可も下りたところだ、基地の案内ついでにお見せしよう」
麻里元はおかきが渡されたものと同じ端末を取り出し、どこかへ連絡を送ると、「ついてこい」と背中で語りながら歩きだす。
慌てておかきもそのあとを追いかけるが、短い歩幅ではついていくのもやっとだ。
「元の身長から30cm以上縮んだからな、身体が思ったように動いてくれないだろう? しばらくはリハビリと思って運動を心掛けるといい」
「き、肝に銘じておきます……」
「ついでに言えばこの先に運動施設がある、サウナとシャワールームも併設しているぞ。 向こうの通路に進むと売店があってだな」
「なんでもありますね秘密組織」
「この基地だけで生活できるくらいには快適だな、なんなら居住区もあるぞ。 君の部屋も用意してあるからあとで案内しよう」
「ありがたいですけど、どれだけ大きいんですか……」
「なに、東京駅よりは単純な構造だ。 その端末にもマップアプリが入っているから確認するといい」
麻里元に促され、歩きながらおかきが端末の電源を入れると、ホーム画面にわかりやすくそれらしいアプリが点灯していた。
タップしてみると5層構造の基地図が展開され、同時に現在地が赤く表示されているのがわかる。
複雑な地形だが、これならよっぽどの方向音痴でもなければ迷うこともないだろう。
「なるほど、ところで今はどこに向かってふぎゅっ」
手元の端末を注視していたおかきが、エレベーター前で立ちどまる麻里元の背中に衝突する。
「ここからさらに下だ、歩きスマホは危ないぞ?」
「局長が確認しろって言ったのに……」
文句を連ねようとおかきが口を開きかけるが、軽快な音を立ててエレベーターが到着してしまった。
麻里元は空っぽの庫内に乗り込み、さっさと階層ボタンを押して手招きする。
いろいろと言いたいことはあったが、逆らってもいいことはないだろうとおかきはその後を追ってエレベーターへと乗り込んだ。
「それで、この下に何かあるんですか?」
「カフカ症候群第2症例だ、最初の患者からおよそ半年後に発見された」
「半年ですか、結構期間が空きましたね」
「当時はカフカ症候群の概念すらなかったからな、半年の間に何件か見落としがあったかもしれない。 だが2号の発見と収容は迅速に行われた」
エレベーターは2人だけを載せ、どんどん地下へと潜っていく。
マップアプリが表示する最下層よりも深く、おかきを示す光点はどんどん下へ下へと沈み続けていた。
「君は新人だからな、極秘に近い部署へのアクセスは行えなくなっている。 今回は私が同行しているから問題ないが、一人で見知らぬ階層に入らないようにしてくれ」
「そんなところに2号さんがいるんですか?」
「ああ、正確には“いた”だがな……」
「…………?」
そうこうしている間にもエレベーターは、軽快な音を立てて目的の階層へ到着したことを知らせる。
ゆっくりと開く扉の隙間から流れ込んできた冷気に、おかきはつい身震いを起こす。
「寒いか? ジャケットを貸そう、ここは常に気温が低めに設定されている」
「あ、ありがとうございます。 この先に2号さんが?」
「その遺体が安置されている、彼は発見からおよそ3か月で急死した」
「えっ……」
「事の発端は、ある警察への通報を我々が傍受したことから始まった。 “朝起きたら自分が自分で無くなってしまった”と」
白い息を吐きながら、麻里元はうすら寒い通路を先行して歩く。
足音が反響する廊下は一本道で、人の気配が一切ない。
どこかおどろおどろしい雰囲気を感じながらも、おかきは臆することなく麻里元の後を追う。
「不審に思った我々が警察より先に目標と接触、本人の同意を得て保護に成功した。 おかげでカフカ症候群対策の基盤が整ったよ」
「保護、ということは手荒い扱いをしたわけではないんですね?」
「もちろん、我々は決して非人道的組織ではない。 こう見えて3度ほど世界を救った経験もあるんだぞ?」
「………………」
冗談だと言い切れず、おかきは何も言えず訝しげな目を麻里元へ向ける。
その沈黙を気まずく思ったのか、麻里元は咳ばらいを一つして少しだけ歩く足取りを速めた。
「……話を戻そう。 未知の病に対し、それでも医療体制は万全だった。 しかし彼は日に日に衰弱……死因は栄養失調による餓死と断定された」
「一応聞きますが、ご飯は食べていたんですよね?」
「栄養バランスを考え3食おやつ付き、欠かさず食していたよ。 だがそれだけじゃカフカ患者には足りない、君たちにとって最大の毒は“退屈”なんだ」
「退屈……暇で死んでしまったということですか?」
「そうなるな。 研究のためとはいえ、地下施設に閉じ込める形になってしまったのが悪かった……ここだ、少し待ってくれ」
足を止める麻里元、その目前にはまるで銀行の巨大金庫のような分厚い鉄扉が立ちふさがっていた。
力づくで開けるのはほぼ不可能だろう。 唯一の開錠方法はおそらく、扉の横に備え付けられた電子ロックだけだ。
「理屈は分からないが、“刺激”が必要なんだ。 充実した体験とでも言おうか、平坦な毎日を送るとカフカ患者は餓死する」
「……ああ、だから私に学校生活を?」
「ああ、青春ほど刺激が多い生活はないという宮古野のアイデアでな。 おかげでさらなる犠牲者は出ずに済んだ」
話の合間に麻里元が端末を電子ロックに当てると、承認音とともに重々しい扉が音を立てて開いていく。
その先に安置されたものこそが、局長がおかきへ見せたかったものだったのだろう。
「…………なんですか、これ」
「カフカ症候群第2症例の遺体だ、君にはこういうケースもあるということを知ってほしくてね」
貴重なサンプルとしてか、その遺体は傷み一つなく綺麗な冷凍標本に仕上げられていた。
肌にヒリヒリと感じる冷気とは真逆な、燃え立つような赤い肌、背中に生えた大きな翼、一振りで人間など軽くへし折れるだろう丸太のような太い尾。
餓死という死因のせいか、ところどころ骨が浮き出ているところを除けば――――それは紛れもない「ドラゴン」だった。
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