第72話* 寧音
「ここから出せ!」
寧音はドアを叩いたが、外からは何の反応もなかった。
部屋の中は無人だ。
美羽の使いだという自衛兵団員の指示に従って古い怪しげなホテルの一室に入ったとたん、背後でドアが閉められた。ドアの外で急いでバリケードを築く音がして、それっきり、何度叫んでもドアを叩いても、外から返事はない。
自衛兵団は初めからこうする予定で寧音を呼びだしたに違いない。
寧音はドアを背にしゃがみこみ、考え出した。
(美羽が裏切った……? いや、美羽が自分の考えで裏切ったとは思えない。犬養会長の命令か?)
寧音の犬養への憧れや淡い恋心はパンデミックの中でほとんど消えていた。
だが、思い出すと心はわずかに疼いた。
外からかすかに拡声器の音が聞こえていたが、寧音には聞き取ることはできなかった。
寧音の全身をどっと疲労感が襲ってきた。昨日から、ずっと走り、戦い、ほとんど睡眠をとっていない。
じっとしていると、漂う血の臭いでむせかえるようだった。その臭いを発しているのは自分自身だ。
寧音は血に染まった自分の手と衣服を見た。
まるで鬼のようだ。
それでもかまわなかった。
結生を守れるのなら。
結生がすべてだった。
あの日突然世界が混沌としてから。
同じ学校の仲間たちが突然ゾンビとなり、同じ学校の仲間たちがゾンビになった者を殺し始めてから。
あの日から、何が正しいのか、寧音には心でも頭でも理解できなくなった。
あの日の学校で、混乱の中、寧音が考えられたのは、その日結生が欠席していてよかったということ、そして、結生のために学校を安全な場所にしてやらないといけない、ということだけだった。
そして、生徒達を無事に避難させるため、学校を安全な場所にするため、寧音はゾンビになった生徒達の殺戮に手を貸した。
今は思う。
結生がいうように、ゾンビは生きている人間なのだろう。
自分は生きている人間を殺してきたのだ。
だが、血で染まった自分の手を見ても、寧音は人を殺したことへの罪悪感は感じない。
すでにそんなことを感じるまともな心はなくなっている。
パンデミックが始まってすぐに、寧音の心は崩壊しかけた。
人の心は脆い。
当然だと思っていた常識や秩序が崩れた時には、特に。何かの教えやルールにすがり、生きる意味を見出さなくては、混沌とした世界に向き合う辛さに耐えられなくなる。
寧音が正気を失わなかったのは、ただ一つすがるべき単純な想いがあったからだ。
結生を守る。
それだけだった。
だから、ゾンビが生きていようと死んでいようと、敵が感染していようとなかろうと、寧音にとっては関係がない。
結生にとって危険な者は殺す。それだけだった。
寧音は幼いころから、小さな妹がかわいくてしかたがなかった。勝気な自分と正反対のやさしくて病弱な妹。
その妹は赤ん坊の頃に大病を患い失明した。幼すぎたために見える世界を知らない結生は、視力がないことに何も困ってはいないようすだった。
だが、家族は気が気ではなかった。
テクノロジーの進歩で視力がなくてもできることが増えた一方で、もう何年も前から「障害は社会の側にある」といった考えは、この国で消えつつあった。人権よりも金、共に生きることよりも効率よく国家の競争力の役に立つかどうか、そんなことが重要視される社会になっていた。
人と違うことは悪いこと。マイノリティはマジョリティにあわせるべき。
そんな考えを持つ人たちが力を持っていた。
そして、子どもはすぐに大人の偏見や差別に染まる。しかも、子どもは素直で残酷だ。
結生が小学校にあがり、いっしょに登校するようになると、寧音はすぐに周囲の悪意に気が付いた。
遠慮なく投げかけられる悪口やからかいや、時には嫌がらせや暴力。
そういったものから結生を守るのが寧音の仕事になった。
常に結生から目を離さず、常に結生のことを考え、そして、結生が悪意の暴力にさらされる前に、敵を叩き潰す。
それが寧音の日常になった。
過保護だとか、心配性だとか、結生には言われるけれど。
(私が守らずに、誰が結生を守るのだ)
道場の跡取り息子だった父は、まだ寧音が幼い頃に事故で亡くなった。
結生は父のことをほとんどおぼえていない。
それからは祖父母と母と寧音と結生の5人家族になった。だが、寧音が小学校を卒業する前に母は家を出ていき、4人家族になった。
祖父は剣術を中心とした古武術の継承者だった。一人息子をなくしたあと、祖父は寧音に跡を継がせようと、武術を教えこんだ。
寧音は跡取りとしての責任感と、結生を守る力を手にいれたいという思いで素直に努力した。
順調に寧音の腕はあがった。
寡黙で厳格な祖父は寧音の前ではほめたりしなかった。だが、孫娘は息子よりもずっと筋が良いと喜んでいたと、古くからいる門弟にこっそり教えてもらったことがある。
その祖父も今はもういない。
ゾンビウイルスに感染した門弟達と祖母を殺した後、寧音に最後の秘伝を教え、祖父は死んだ。
寧音はこの手で祖父を介錯した。
寧音は目をあけた。
しばらくの間、眠ってしまっていたようだった。寝起きのせいか、手や足に力がうまく入らない。
同時に、寧音は気が付いた。
寧音がここに閉じこめられた理由に。
自衛兵団は結生に危害を加えるつもりだということに。
(結生が危ない)
気が付いた瞬間、寧音はとび起きた。
寧音は窓を開けた。ここは5階だ。
一瞬、ここから飛び降りて一刻も早く結生のところへ駆けつけたい衝動に襲われた。
だが、寧音は冷静になり、一度部屋の中に戻ると、カーテンを切り裂き結びあわせ、ロープのように長くして、ベッドの足に結び付けた。
そして、窓からカーテンを投げおろし、カーテンをつたって1階下の窓の前まで降りると、刀の柄を打ち付けて窓ガラスを割った。
寧音は窓から部屋の中に入り、ドアを開け、ホテルの廊下に出た。そして、一気に階段を駆け下りた。
1階に降りた所で自衛兵の少年がひとり目に入った。
寧音は、驚いた表情で振り返る少年の腹に、駆け下りる勢いそのまま、体当たりのように肘打ちをあてた。
倒れた自衛兵の拳銃を持つ手を膝で踏み、抜いた刀を首筋に当て、寧音はたずねた。
「結生はどこだ?」
怯えた少年は即座に叫んだ。
「角山公園です!」
拳銃を蹴り、寧音はホテルから走り出た。そのまま角山公園にむかって無人の道路を走り続けた。
走りながら、寧音は気が付かずにはいられなかった。
体が異様に重たい。今までに感じたことのない重さだった。
意識も朦朧としている。少し気を抜けば、意識が遠のきそうになる。
だが、寧音は走り続けた。
結生を守る。
その一念が、鉛のように重たい体を突き動かしていた。
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