謝玄7  死と係累

謝玄しゃげんはその後も十あまりの上表を提出。こうしてようやく散騎常侍さんきじょうじ左將軍さしょうぐん會稽內史かいけいないしに転任。すなわち、故郷への帰還が許された。


この当時、張玄之ちょうげんしがまた優れた学績により讃えられていた。吏部尚書となった頃より謝玄と同じ郡府にて勤務することとなり、その名声も謝玄に次ぐとして、ふたりは「南北の二玄」と讃えられた。


謝玄は会稽に期間後十三年にして、もしくは太元 13 年=389 年に死亡した。46 歳であった。車騎將軍しゃきしょうぐん開府儀同三司かいふぎどうさんしが追贈され,獻武けんぶと諡された。の謝瑍しゃかんがあとを継ぎ秘書郎ひしょろうとなったが、すぐに死亡。さらにその息子の謝靈運しゃれいうんが継承した。謝瑍は幼いころぱっとしなかったのだが、謝靈運は豔逸、あまりにも抜群の文才を示した。謝玄はかつてこうたたえている。

「おれですら産めたのが謝瑍だったのに、どうして謝瑍が謝靈運を産めたのだ!」

東晋末、謝霊運は劉裕りゅうゆう世子左衛率せいしさえいそつ、すなわち嫡子である劉義符りゅうぎふの直属護衛官に任じられた。



謝玄が北府軍を立ち上げた時に従軍した武将を紹介しておこう。以下の二人はどちらも武幹軍略に優れた。


何謙かけん、字は恭子きょうし東海とうかい人であるから、おそらくは後の世の何無忌かむきの親族である。

戴逯たいろく、字は安丘あんきゅう。隠者の戴逵たいきの弟だ。戴逵は謝安しゃあんの引きこもっていた東山に身を置き、世俗に仕えぬ志を全うした。その弟が抜群の武将だったわけである。なのであるとき謝安が戴逯に尋ねている。

「そなたら兄弟の志とわざは、どうしてかくも違った方向を向いているのであろうな?」

戴逯は答える。

「下官はこの憂いに耐え切れませんでした。兄は其の樂しきを改めなかったのです」

戴逯はやがて軍功から廣信侯こうしんこうに封じられ、官位も大司農だいしのうに至った。




前後表疏十餘上,久之。乃轉授散騎常侍、左將軍、會稽內史。時吳興太守晉甯侯張玄之亦以才學顯,自吏部尚書與玄同年之郡,而玄之名亞于玄,時人稱為「南北二玄」,論者美之。

玄既輿疾之郡,十三年,卒于官,時年四十六。追贈車騎將軍、開府儀同三司,諡曰獻武。子瑍嗣,秘書郎,早卒。子靈運嗣。瑍少不惠,而靈運文藻豔逸,玄嘗稱曰:「我尚生瑍,瑍那得生靈運!」永熙中,為劉裕世子左衛率。

始從玄征伐者,何謙字恭子,東海人,戴逯字安丘,處士逵之弟,並驍果多權略。逵厲操東山,而逯以武勇顯。謝安嘗謂逯曰:「卿兄弟志業何殊?」逯曰:「下官不堪其憂,家兄不改其樂。」逯以軍功封廣信侯,位至大司農。


(晋書79-19)

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