郗僧施  劉毅シンパ

東晋とうしん北府ほくふ軍を立ち上げた、郗鑒ちかん。字は道徽どうぎ高平こうへい金鄉きんきょう県の人。漢の御史大夫の郗慮ちりょの玄孫である。71 才で死亡した。郗愔ちいん郗曇ちどんを産んだ。

郗愔、字は方回ほうかい。384 年に死亡、72 歳だった。郗超ちちょう郗融ちゆう郗沖ちちゅうを産んだ。郗超が最も知られる。

郗超、字は景興けいこう嘉賓かひんとも呼ばれることがあった。42 歳にして、父の郗愔より先に死んだ。郗超に子がなかったため、いとこの郗儉之ちけんしの子である郗僧施ちそうしが郗超の爵位を継いだ。



郗僧施、字は惠脫けいだつ。郗鑒以来の爵位である南昌なんしょう県公を継承した。加冠すると間もなくして太原たいげんおう氏の王綏おうすい譙国しょうこくかん氏の桓胤かんいんと名声を等しくした。清職顕職を栄転してまわり、宣城せんじょう內史を拝領したのち、丹陽尹たんよういんに任じられた。


劉毅りゅうき江陵こうりょうに移鎮するとき、劉毅は劉裕に頼み込み、郗僧施を南蠻校尉、假節として同行させようとした。しかし間もなくして劉毅とともに殺され、南昌県公は廃された。




郗鑒,字道徽,高平金鄉人,漢御史大夫慮之玄孫也。薨,時年七十一。二子:愔、曇。

愔字方回。太元九年卒,時年七十二。三子。超、融、沖。超最知名。超字景興,一字嘉賓。年四十二,先愔卒。超無子,從弟儉之以子僧施嗣。僧施字惠脫,襲爵南昌公。弱冠,與王綏、桓胤齊名,累居清顯,領宣城內史,入補丹陽尹。劉毅鎮江陵,請為南蠻校尉、假節。與毅俱誅,國除。


(晋書67-1)




■斠注


『芸文類聚』は郗僧施について『俗說』を引きます。

いわく、郗僧施が靑溪中にて音楽を耳にすると、たちまち詩をものした、とのこと。このとき同行していた謝混は詩を見て笑って言ったそうです。「靑溪の曲を、よくもまあここまで言い尽くすものだよ」。

謝混と郗僧施って交流めっちゃあったはずなんですけど、晋書にも宋書にもまるで残ってないんですよね……ぶっちゃけ初めて見たレベルですよこのふたりの絡み……。

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