元帝裔2 司馬遵
忠敬王、
右將軍の
「どうして桓氏を門に通さねばならんのだ?」
側仕えは答える。
「桓伊殿は貴方様の父上を貶めた
司馬遵は言う。
「おれは木邊の付いた姓の人間の名を聞くだけで殺したくなるのだ、ましてや桓姓を聞いてしまえばどうなると思う!」
こうしたこともあり、その聡明さが幼い頃から讃えられていた。
司馬晞が
桓玄が簒奪すると、司馬遵は
407 年に死亡、35 歳であった。詔敕が下され、東園溫明(特に名高い宗族にもたらされる葬具)の神器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹が下賜された。また太傳が追贈され、葬礼はほぼ皇帝と変わらない式次で行われた。
子の
忠敬王遵,字茂遠。初襲封新甯,時年十二,受拜流涕,哀感左右。右將軍桓伊嘗詣遵,遵曰:「門何為通桓氏?」左右曰:「伊與桓溫疏宗,相見無嫌。」遵曰:「我聞人姓木邊,便欲殺之,況諸桓乎!」由是少稱聰慧。及晞追復封武陵王,以遵嗣,歷位散騎常侍、秘書監、太常、中領軍。桓玄用事,拜金紫光祿大夫。玄篡,貶為彭澤侯,遣之國。行次石頭,夜濤水入淮,船破,未得發。會義旗興,復還國第。朝廷稱受密詔,使遵總攝萬機,加侍中、大將軍,移入東宮,內外畢敬。遷轉百官,稱制書;又教稱令書。安帝反正,更拜太保,加班劍二十人。義熙四年薨,時年三十五,詔賜東園溫明神器,朝服一具,衣一襲,錢百萬,布千匹,策贈太傳,葬加殊禮。子定王季度立,拜散騎侍郎。薨,子球之立。宋興,國除。
(晋書64-3)
宋書では劉裕が
桓伊にまつわるエピソードを聡明と言いたいなら、せめて十代前半くらいにしてくれよ、という感じはあります。ともあれ「聡明な安帝のまたいとこ」であったから旗印とされたわけですね。
その司馬遵、安帝反正からわずか三年で死亡。なんにも証拠なんざありませんが、この段階から劉裕「を、推戴しようと目論むクソ宮廷勢力ども」が宮中でうごめいていたとしても、あんまり驚かない気がしています。
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