元帝裔2 司馬遵

忠敬王、司馬遵しばじゅん。字は茂遠もえん。384 年、12 歳のときに新甯しんねい王に封じられた。印綬を授かるとき、すでに亡き父(司馬晞しばき、381 年卒)を思い涙し、周囲の者にもまた悲しませた。


右將軍の桓伊かんいが司馬遵のもとに詣でたとき、司馬遵は言う。

「どうして桓氏を門に通さねばならんのだ?」

側仕えは答える。

「桓伊殿は貴方様の父上を貶めた桓溫かんおんとはほぼ他人です、どうか会見を嫌がられますな」

司馬遵は言う。

「おれは木邊の付いた姓の人間の名を聞くだけで殺したくなるのだ、ましてや桓姓を聞いてしまえばどうなると思う!」

こうしたこともあり、その聡明さが幼い頃から讃えられていた。


司馬晞が武陵ぶりょう王を追封されると、その爵位を司馬遵が継いだ。散騎常侍、秘書監、太常、中領軍を歴任した。桓玄かんげんが朝廷の主導権を握ると金紫光祿大夫、いわば実権のないご意見番となった。


桓玄が簒奪すると、司馬遵は彭澤ほうたく侯に降格となり、封地に追いやられることとなった。しかし石頭せきとうにまで出たところで洪水が秦淮河しんわいがにまで入り込み、船を破砕してしまった。封地に出られなくなって途方に暮れていたところに劉裕りゅうゆう軍が到着、司馬遵のための邸宅が取り戻された。朝廷は安帝あんていよりの密詔が届いた、というていで司馬遵を皇帝の代理とされ、加侍中、大將軍に任じられ、東宮入り。內外のものたちが皆司馬遵に敬意を表明、すなわち皇帝の代理であることを承認する。改めて百官を配備、稱制書や稱令書を制定した。安帝が復帰すると太保、班劍二十人が加えられた。


407 年に死亡、35 歳であった。詔敕が下され、東園溫明(特に名高い宗族にもたらされる葬具)の神器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹が下賜された。また太傳が追贈され、葬礼はほぼ皇帝と変わらない式次で行われた。


子の司馬季度しばきどが武陵王位を継承、官位は散騎侍郎に至った。死亡すると子の司馬球之しばきゅうしが立った。そうに禅譲がなされると、廃位された。




忠敬王遵,字茂遠。初襲封新甯,時年十二,受拜流涕,哀感左右。右將軍桓伊嘗詣遵,遵曰:「門何為通桓氏?」左右曰:「伊與桓溫疏宗,相見無嫌。」遵曰:「我聞人姓木邊,便欲殺之,況諸桓乎!」由是少稱聰慧。及晞追復封武陵王,以遵嗣,歷位散騎常侍、秘書監、太常、中領軍。桓玄用事,拜金紫光祿大夫。玄篡,貶為彭澤侯,遣之國。行次石頭,夜濤水入淮,船破,未得發。會義旗興,復還國第。朝廷稱受密詔,使遵總攝萬機,加侍中、大將軍,移入東宮,內外畢敬。遷轉百官,稱制書;又教稱令書。安帝反正,更拜太保,加班劍二十人。義熙四年薨,時年三十五,詔賜東園溫明神器,朝服一具,衣一襲,錢百萬,布千匹,策贈太傳,葬加殊禮。子定王季度立,拜散騎侍郎。薨,子球之立。宋興,國除。


(晋書64-3)




宋書では劉裕が建康けんこうに攻め上るときに「偶然」拾い上げて総大将に推戴された、と書かれます。そんな都合の良い偶然ってある!?


桓伊にまつわるエピソードを聡明と言いたいなら、せめて十代前半くらいにしてくれよ、という感じはあります。ともあれ「聡明な安帝のまたいとこ」であったから旗印とされたわけですね。


その司馬遵、安帝反正からわずか三年で死亡。なんにも証拠なんざありませんが、この段階から劉裕「を、推戴しようと目論むクソ宮廷勢力ども」が宮中でうごめいていたとしても、あんまり驚かない気がしています。

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