第1章 ダウンした頃のはなし

#1.あばばばってなった話

 大学を卒業した僕はIT企業に勤めていました。職種は技術職。システムエンジニアとか呼ばれるお仕事です。


 2022年現在ではIT業界も大きく変化を迎え、ホワイト企業と呼ばれる組織も沢山あります。けれど当時の僕はまさに多忙。一番多いときは月に300時間以上働いたこともありました。オイオイ霞が関の官僚か。


 プロジェクトが佳境に入ると終電を逃したり、近くのネットカフェで寝起きしたり、そんなことが日常茶飯事。会社のストレスチェックでは毎年のように高得点を叩き出す。


 このままじゃマズイなと自分なりに足掻いてみたものの、焼け石に水。例えば上司への直談判、部下を勝手に作る、スケジュールを内緒で調整するなどなど……色々と頑張りはしたものの、残念ながら切ない事情によりことごとく失敗。


 自分に出来る(と思った)ことは全て手を打ち、けれども状況は一向に改善せず。


 自分を取り囲む状況は八方ふさがりに思え、気が付けば怒りや不満・焦燥感に絶望感・色々な感情が綯い交ぜとなり、もはやコントロール不可能な状態になっていったのです。


 ◇


 ちょっと体調がおかしいな?

 歳だから?

 流石にちょっと無理がたたった?


 何だか思考が回らないし、記憶力や集中力が落ちてるし、今までのスピードで仕事がぜんぜんできないの。


 社会人になって10年目の4月、そう感じる日が増えてきました。


 まぁ気のせいかも知れないな。それより目の前のプロジェクトを終わらせなきゃと自分に言い聞かせてみるものの、日を追うごとに体調は悪化。まともに集中できるのが週4日になり、3日になり……気が付くとまるっきり仕事が進まないことも。


 それでも意地と根性で会社に向かっていたのは、今にして思えばヤバイという自覚もなくて……むしろ、麻痺しなければ正気を保てなかったのかも知れません。無意識のうちに、正気を失っている自覚さえ持たないよう、細心の注意を払いながら。


 そんなある日、仕事でどえらいミスをしでかしました。本当にビックリするほどのケアレスミス。ユーザーへの影響も大きくてちょっとシャレにならない感じ。


 この時点でもうダメだって気付ければ良かったのですが、ここで『ミスを取り返さねば』と自分にムチを打ってみたところ、メモが取れなくなっちゃいました。


 話を聞いてメモを取る。そう難しいことではないはずなのに、人の話が頭に入ってこないの。


 文字を書こうと思っても『さっきこの人なんて言ってたっけ?』みたく、 ほんの1秒前の単語さえ頭の中に残らない。シンプルに短期記憶力が消失した瞬間で、あぁ、脳みそって壊れるとこうなるんだ、みたいな。シンプルに頭がバグった感じ。


 それでも追われるように仕事へと取り組み、限界のその先へと走り続けたなら……ある夜に凄まじくネガティブな、どうしようもない焦燥、これまでの人生で感じたことのない、どす黒い津波のような感情に溺れて息もできない感覚へと陥りました。



 希死念慮。いわゆる自殺願望というものですね。


 あの状況をどう言語化すればいいのか……もう一言でいえば、

「あばばばばば」

 的な。


 衝動的というか恐慌状態というか『アッこれ死ななきゃダメだわ』という、何とも言えない思考が脳の中を支配する、筆舌に尽くしがたい、もう二度と味わいたくない、強制力を伴った自殺願望。


『僕の人生は失敗した。もう、手遅れだ』


 それだけが強い確信を持って、明確な事実として、疑いようのない現実として認識されました。


 ベランダの柵を今すぐ飛び越えたい/飛び越えなければならない/けれども自殺はいけない/それだけはいけない。

 不思議なことに『死にたくない』とは思いませんでした。死にたい/死ぬべきだ/でも死んではいけない――そんな三つの思考がグルグルと高速回転を繰り返すのです。


 葛藤が落ち着くまでどれくらい経ったのかも分からないけれど、何時間ものあいだ、身体を押さえつけていた気がします。

 ここに来てようやく自分がヤバイ状態にあると気づく鈍感さ。

 翌日、僕は心療内科を受診することになりました。あばば。

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