第2話
佐野家を出た後の恋鐘と加藤は、歩きながら色々と話し込んでいた。どうやら洋平少年の情報共有と今日の様子などを説明しているようだが、専門用語混じりなので緑栄にはあまりピンとこない。
そうこうしているうちに加藤は別の案件があるからと離れていった。手を振る彼女を見送ってから、恋鐘と緑栄は事務所へ戻る道を歩き始める。
「こういうのって、珍しくないんでしょうか」
「こういうのとは?」
恋鐘は前を向きながら聞いてくる。夏の暑い気温だというのに、汗ひとつかいていない。
「話せなかったらすぐ帰るのは、普通なんでしょうか」
「引きこもりの相談事案は、概ねこうなる傾向が強いね。考えてもみなさい、君だって見ず知らずの人が会いたいと言ってきたら警戒するだろう? 親を介して会うにしても、それなりに気力を使うはずだ。ましてや部屋に引きこもる子は、外界と自分を遮断しているくらい弱っている。無理をすれば更に自分の殻に閉じこもってしまう」
「それはそうかもしれませんけど。すごく時間がかかりませんか」
「まるで、治療は効率優先だと言いたげだね」
心臓が跳ねる。
――医療に重要なのは最適化と効率化だ。無駄な診療、施術を徹底的に省くことこそが我が国に求められている。
父の言葉が蘇り、心拍数が上がる。痛む胸を手で掴む。
「――いえ、そういうわけじゃない。ただうまく話せるまで時間がかかると、恋鐘さんは大変じゃないかなと」
悟られたくない緑栄は愛想笑いを浮かべる。口の中は苦かった。
一方の恋鐘は前を向いているからか、緑栄の変化には気づかず答える。
「大変かそうじゃないかといえば、世間一般的には大変な部類だろう。それでも時間をかける必要があるからそうしている。スクールカウンセラーの登紀子さんだって、いくつもの子の家庭訪問を繰り返して地道にケアを行っている。心の問題はその人の見たこと、聞いたことと密接に関わる。拙速な態度は症状を悪化させると覚えておきなさい」
話を聞きながら、どうしてそこまで、という疑問が緑栄の中で芽生えていた。
父親の言葉を認める気はない。機械のような医者だけが正解だとは思わない。それでも、ろくな成果を得られないままその場を去り、次もまた同じ状況に陥るかもしれないと思うと、少しはうんざりするのではないだろうか。
彼女を動かすモチベーションの源泉は何なのだろう。そんなことが気になり始めていた。
***
案の定というか、火曜日に佐野家を訪れたときも、恋鐘は洋平少年とまるで話せなかった。それでも彼女はめげず、次の予約を取ってから去った。
次の週は二回ほど訪れる機会に恵まれたが、やはり話すことはできなかった。どころか良好な関係を維持していた加藤に対しても「ああいう人を連れてくるならもう話したくない」などと言い始めてしまった。
佐野母は目に見えて狼狽し、仮想認知療法はもう諦めたほうがいいんじゃないかとネガティブになりつつあったが、加藤が説得して何とか次の約束を取り付けた。
素人の緑栄から見ても状況は後退しているように感じられた。これ以上悪化するなら依頼を打ち切られる可能性もある。
そんな戸惑いを抱えながら恋鐘の同伴を続け、最初の訪問から一ヶ月が経過した。時期としてはもう夏休みが終わろうとしている。洋平少年は一学期のほとんどを部屋に引きこもったまま過ごすことになり、佐野母はそのことを嘆いていた。
恋鐘はといえば、その日もいつもとまったく顔色を変えず、恒例となったドア越しの面談を実施しようとしていた。
最初と同じく客室に通された緑栄と加藤はソファーに座って恋鐘を待つ。この日もすぐ恋鐘が戻ってくるのではないかと緑栄は考えていたが、時間が経っても彼女が現れる気配はなかった。
時計とドアを交互に見つめていた佐野母は、我慢ができなくなったかのように口を開いた。「本当に大丈夫でしょうか」
「龍造寺さんは、誠実な方だと思いますけれど、何を考えてるのかちょっとわからないところもあって。洋平を怒らせてないでしょうか。見て来たほうがいいかも」
「まぁまぁ佐野さん」腰を浮かしかけた佐野母を、加藤が言葉で止める。
「恋鐘さんは信頼できる方ですよ。クライエントを不快にさせることはしません」
「でも! 現に洋平は、加藤さんのことも不信感を持ち始めてるじゃないですか。やっぱりあの人を通しちゃ駄目なんじゃ――」
「前にもお伝えした通り、私は専門家ではありません。仮想認知療法に必要な動画を作るためには、専門家である恋鐘さんが洋平くんとお話をして、彼の心を知る必要があるんです」
加藤が諭すように答えると、佐野母は眉間に皺を寄せる。
「仮想認知療法は最新の治療法だと伺っていたので、それならと期待して頼んでみたんです。でも全然進まないですよね。あの子は今が重要な時期なんですよ? もう四ヶ月も学校に行けてない。勉強の遅れとか、それこそ大学受験だってあるのに。手遅れになる前に何とかしてあげたいんです、私は」
「お気持ちはよくわかります。私も引きこもりの息子を持っていた母ですから」
心中で驚いた緑栄は、なんとか外面を維持しつつ、チラと加藤の顔を盗み見る。彼女は相変わらず疲れを滲ませつつも、笑っていた。
「どうにも暴れて抑えられなかった息子が立ち直れたのは、仮想認知療法のおかげです。きっと洋平くんにも効果があるはずです」
佐野母は無言で床を眺めている。膝の上に置いた拳が頑ななほどにぎゅっと握りしめられていた。
「佐野さん。気持ちを落ち着かせるためにも、一度おさらいしておきましょう。仮想認知療法とは、患者さんが抱えている心の問題を、VR映像を通して患者さん自身が見つめ直すために実施します。人は誰しも自分のことを客観視できません。それを外部から、本当はこういうことを求めていた、本当はこういう生活が合っている、という自分の認識とは違う面に気づかせてあげるんです。そうすれば以後の社会復帰や薬との付き合い方も、自分で納得しながら進めることができる。人がこうしなさいああしなさいと言うより、自分で気づくことが大事なんです」
気づき。その用語は恋鐘も使っていた。
「ええ、ええ。調べましたから。知っていますとも」
美紀子は食い気味に頷く。
「それはわかってます。でも子供が気持ちを打ち明けたり、心を許した相手でないと、その子に気づきを与える映像なんて作れないんじゃないですか」
「確かにクライエントと信頼関係を築くことはとても大切です。でも、さっきも言いました通り、ああしなさいこうしなさいとアドバイスすることが目的ではありません。洋平くんが何を求め、何をしたいのか。何に傷つき何に迷っているのか。恋鐘さんは会話を通じてそのことを把握し、映像を媒介として彼自身に気づかせるんです。つまり恋鐘さんは、彼が自分を見つめるための鏡になろうとしているんですよ」
「鏡……」
「はい。ですが鏡とはあくまで自分を映し出すもので、頼りになる他者ではありません。社会復帰、彼の場合は学校への復帰ですが、支援していくのは私の役目です。頼りないかもしれませんが、洋平君のケアはこれからもずっと私がお引き受け致しますから」
「頼りないなんて、そんな。加藤さんにはずっとお世話になっています」
佐野母は微かに表情を和らげる。それでも加藤と目を合わさず下を向いたままだった。
「わかりました。いえ、わかってるつもりではあるんです。でも、あの子の将来のことを考えると。本当に正しいことをしてるのか不安で……中学までは本当に手がかからない、良い子でした。受験だって、自分でレベルの高い高校を受けるって言い出したんです。私は誇りに思いました。すごく順調だったのに、急にどうして、こんな」
「とてもよくわかります。一人で空回りしてるように感じるんですよね。どこにも進めていないような、暗闇の中に取り残された感じ」
加藤は佐野母の隣に座り直し、肩を優しく抱く。
「佐野さん、一人で抱え込んでいては駄目ですよ。私はシングルマザーで一人きりでしたが、あなたには相談できるパートナーがいます。どうですか、最近は洋平君についてお話されていますか?」
「……あの人は、別にいいんですよ。出張も多いし、仕事で疲れてるでしょうから。愚痴を吐かれると嫌になるでしょう?」
佐野母のトーンが急に落ちた。
「けど、ご夫婦なんですから。息子さんの問題をどちらか一方が背負い込めばいいというものではありません。ご主人だって気にされているんでしょう?」
「ええ、それは、はい。主人も主人で息子に話しかけているようです。でも洋介のことは私がちゃんと見てますから。これからも同じです。ほら、父親には父親、母親には母親の役割があるでしょう?」
佐野母の言い分を聞いた加藤は眉根を寄せる。
「ご主人と喧嘩したり険悪になることを避けたいのかもしれませんが、やはり話してスッキリすることもあると思います」
「どうでしょうね。昔から教育方針で折り合えないことがあったりして、懲りてるんです。むしろ今の距離感が心地良いというか。洋平のことを心配して、話しかけてくれてるだけでありがたいと思ってるんですよ、本当に。だから大丈夫です」
加藤は更に何かを言いかけたが、口をつぐんだ。
聞いていて、なにか違和感があった。再婚を経た家庭だから何かしらあるのかもしれない。しかし緑栄にはそれを言語化することができず、モヤモヤとしたものを抱えるだけだった。
そのとき、ドアがノックされた。
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