第34話 竜の襲撃
それからさらに人数は減り、ダンスは佳境を迎えた。
広場の中央には、四組のカップル。もちろん、その一組はリリアーナとハリーだ。
ステップを踏み続けるリリアーナの顔を、ハリーは心配そうにのぞき込んだ。
最初は周囲を見回す余裕すらあった彼女だが、今は表情もなく、ただ無心に踊っている。
正直ハリーは、甘くみていた。
たかが祭りのダンスくらいと思っていたが、三位の壁は想像以上に高い。
「リリアーナ、無理はするな。宝石街灯なら、いつでも手配できるから」
ノヴァと友人になったことをきっかけに、さまざまなことに興味を示すようになったリリアーナ。
そんな彼女を後押しするつもりで──多少の下心は否めない。大人げなくノヴァに取られそうで焦っていたのは事実だ──ダンスに誘ったが、ハリーは今更ながらに後悔の意に苛まれていた。
「いえ、あと一組ですし……もうちょっとだけ、頑張らせてください」
リリアーナは荒い息を吐きながら、なんとか答えた。
長い距離を走ったあとみたいに、血の味がする。
「もうやめちゃえばいいのに」と悪魔のささやきが聞こえるが、リリアーナは断固拒否した。
「わかった。じゃあ、もう少しだけ」
「ありがとう、ございます……」
「遠くの一点を見つめるようにすると目が回りにくくなる。試してみてくれ」
リリアーナがコクリと頷くと、曲のスピードがグンと上がった。
ハリーのエスコートがなかったら、間に合わなかっただろう。
(ありがとうございます、ハリー様)
リリアーナがそっと目配せすると、ハリーは「任せておけ」と言うように力強い視線を返してきた。
きっと今ここで倒れてしまったとしても、彼は問題なくリリアーナを抱きかかえてくれるのだろう。
そう思わせるだけの信頼と実績が、リリアーナとハリーの間にはあった。
いろいろあったなぁと思う。
初めて会った時のこと。追放の旅路でのこと。初めて使った、祝福。茨の城での、穏やかな日々。
リリアーナにとって、どれもがなくてはならない大切な思い出である。
(いやだなぁ。なんだか、走馬灯みたいじゃない)
うまく呼吸できなくなってきたし、限界が近いのかもしれない。
リリアーナが諦めかけた、その時だった。
竜の鳴き声を模したという笛の音が、広場に響き渡る。
クライマックスを盛り上げるための演出だろうか。
気を取られたら崩れてしまいそうで、リリアーナは遠くの一点を見つめたまま、必死になってターンに耐えた。
ゼェゼェと、自分の荒い息が耳にこだましている。
周囲の音はもう、リリアーナには届いていなかった。
笛の低く太い音だけはおなかに響くのでわかったが、それ以外は雑音にしか聞こえない。
もはや彼女は、意地だけで踊っていた。
「リリアーナ!」
「えっ」
突然ハリーに大声で呼ばれ、
リリアーナが見上げるのと、ハリーが剣を抜くのは同時だった。
「ハリー様⁉︎」
一体、何が起こったというのだろう。
かすむ視界でなんとか状況を把握しようと、リリアーナは周囲を見回した。
誰も彼もが恐怖の表情を浮かべて、空を見上げている。
リリアーナの疑問は、すぐに解決した。
上空で、笛の音が響いている。
それから、風を切るような音と、何かが急降下しているような音も。
真っ青な空に見える、黒いもの。
茨の城で見かけるヤモリに羽を生やしたような、シルエットをしている。
「ひっ」
上空で鳴っていたのは、笛なんかじゃなかった。
竜そのものが、鳴いていたのである。
「どうして……今日は休息日じゃなかったの?」
「リリアーナ! しっかりと歯を噛み締めていろ! 絶対に開けるなよ。舌を噛み切ってしまう恐れがある!」
ハリーの切羽詰まった声に、リリアーナはグッと奥歯を噛み締めた。
そんな彼女を片手で抱え上げたハリーは、剣を片手に独特のポーズを取る。
わずかな間の後、風が吹き荒れた。
轟音とともに、竜が急降下してくる。
暴風の中、キィンキィンと金属同士が交錯するような音が響いた。
うっすらと目を開いたリリアーナの目に映ったのは、竜と交戦するハリーの姿。
軽やかなステップは風をものともせず、ハリーは舞うように剣を操る。
キィンキィンと鳴り響く
切羽詰まった状況だというのに、リリアーナは神々しさに涙しそうになった。
(あれが、胡蝶一族の剣舞)
なんて美しいのだろう。
飛び散る血潮さえ、芸術品のようである。
対する竜は、目に見えて苛立ちを増している様子だった。
赤い目が、不気味に光っている。ぬらぬらとした鈍い光は、まるで血に濡れた古い剣のよう。
何度攻撃しても埒が明かないと思ったのだろう。
竜は突然上空へ飛び上がり、息を吸い始めた。
何をしているのだろう。
緊迫した空気が流れる中、一人の男性が叫んだ。
「広範囲の攻撃がくるぞ! みんな逃げろっっ!」
その途端、広場は騒然となった。
大勢の人々が、広場から遠く離れようと我先に駆け出す。
幸い、なだれは起きていないようだった。
頻繁に行われる避難訓練が、功を奏しているのだろう。
しかし、逃げても全員が助かる見込みがあるとは、リリアーナには思えなかった。
ハリーもそう思ったのだろう。最後の足掻きとばかり、リリアーナを守るようにギュッと腕の中へ閉じ込める。
「ハリー様」
「大丈夫だ、リリアーナ。大丈夫だから。決してここから出ないでくれ」
苦しいくらい強く、抱きしめられる。
こんな場面だというのに、ハリーはいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。
そのチグハグさが、リリアーナの胸を締め付ける。
(どうして、こんなことに?)
それはきっと、リリアーナのせい。
黒薔薇の聖女として竜を御することもできない、ないない尽くしの令嬢だから。
「それなら……わたしが落とし前をつけるべきよ」
「リリアーナ⁈」
「ハリー様、ごめんなさい。でもわたし、今やらなくちゃいけないと思うから!」
リリアーナはハリーを押し退けた。
支えを失った体は、力なくがくりと膝を折る。
だけど今は、それで良かった。
ギュッと手を握り、リリアーナは女神ローゼリアへ祈りはじめる。
「花の女神ローゼリア様。どうか今一度、お力をお貸しください。竜からみんなを守って……!」
竜の呼気が止まる。
きっと最大まで吸い込んだのだろう。
この後にくるであろう攻撃に恐怖し、リリアーナはハリーにすがりたくてたまらなかった。
みっともなく震えているリリアーナの肩に、ハリーの手が置かれる。
握りしめる手を解いて彼の手に触れると、絶対に成功させてみせるという気持ちがむくむくと湧いてきた。
「くるぞ」
「はいっ!」
再び、風が吹き荒れる。
竜が急降下してきているのだ。
リリアーナはにらむように竜を見据えながら、祈った。
攻撃をやめて、と。
強く願ったその時、どこからともなく女性の声が聞こえてきた。
頭の中に直接語りかけるような、不思議な声。
驚くリリアーナに、彼女は言った。
『かわいそうでかわいい子。そんなに心配しなくても、ちゃんと力を使えていますよ。ほら、見てごらん?』
目を開けると、ひとひらの花びらが落ちていくのが見えた。
まるで、あの夜の再現かのようにひらりひらりと花びらが次々に落ちてくる。
白いれんがの地面に落ちたそれは、どう見ても
リリアーナの思い違いでないのなら、真夜中の色は黒じゃなくて紺……つまりは、奇跡を呼ぶ青薔薇に違いない。
『ね? 大丈夫だったでしょう?』
コロコロと、鈴の音のような声が笑っている。
見上げると、あの夜のような花の嵐。
真っ青な空から、どこからともなく青の花びらが降り注ぐ。
怒りで目を真っ赤にしていた竜は、くすぐったそうに身をよじりながら花びらと戯れていた。
『かわいそうでかわいいあなただから、私は青薔薇を許したの。どうかこれからは、必要な時に
リリアーナの頰を撫でるように、ひとひらの花びらが風に吹かれて飛んでいく。
くすぐったくて目をすがめると、すうっと意識が遠のいていった。
『いい子ね、リリアーナ。おやすみなさい、いい夢を』
リリアーナはハリーへ体を預けるように、後ろへ倒れ込んだ。
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